第29話 割れた家
夜気が、ひどく冷たかった。
神代家の屋根が遠ざかっていく。
下のほうで、まだ何かが割れる音がした気がした。気のせいではないのだろう。あの家の中には、私が壊したものが残っている。食卓も、床も、ぬいぐるみも、ブランの右腕も。
私は飛んでいる。
飛ばされている、と言ったほうが近い。
身体の主導権はまだ全部戻っていない。背中の継ぎ目がきしむたび、命令が骨の代わりみたいに中で鳴る。高く、もっと速く、離れろ、戻るな。そういう声に従っているだけなのに、腕の内側にはまだブランの軽さが残っていた。
後ろで、盤上パンタが息を呑んだ。
「……ごめん」
風に散るような声だった。
誰に向けたのかは聞かなくてもわかる。
わかったところで、何にもならない。
謝るなら返してください、と言いたかった。
家を返してください。ブランの右腕を返してください。兄さんの顔を返してください。あの家の中にあった、いつもの音を返してください。
でも喉はまだ私のものではなくて、口を開くと、低く濁った機械音しか漏れなかった。
下では街灯が流れていく。
戻りたい。
戻れない。
そのあいだで、私はずっと裂けていた。
*
ノワールの悲鳴が消えたあとも、家の中には、あの音だけが残っている気がした。
九条が最初に動いた。
いや、動くしかなかった。
「ブラン!!」
自分でも知らなかったほど強い声が、壊れたリビングへ叩きつけられる。
床に膝をつき、白い身体を抱き起こす。肩口から先がなくなっている。断面が露出し、細い線がほどけ、火花が遅れて散る。九条は一瞬だけ息を止めたが、次の瞬間には端末を取り出していた。止血ではない。止電と固定と、残っている系統の保護だ。頭ではわかっている。わかっているのに、指が少し震えている。
「ブラン、聞こえますか」
返事はない。
「ブラン」
もう一度呼ぶ。
白い耳が、かすかに動いた。
それだけで、九条は余計に駄目になりそうだった。
届かない。
処置はしている。
手順もわかっている。
なのに間に合っていない。
有能でいることと、助けられることが、今この場ではまるで繋がっていなかった。
圭介が、ようやく動いた。
割れた皿を踏みそうになって、無理やり足を止める。
「九条」
「右側に触れないでください。そこ、まだ生きてます」
即答だった。
声は保っている。
保っているのに、頬が濡れていることに、九条自身がまだ気づいていない。
圭介は息を呑み、それから左手だけをそっと伸ばした。
「ブラン」
白い指先に、自分の手を触れさせる。
「おい、聞こえるか」
ブランの睫毛が震える。
視線は合わない。焦点も定まっていない。それでも、圭介の手を握り返そうとして、弱く動いた。
「……け、すけ」
「いる。いるから」
その一言に、圭介の喉がきつく鳴る。
ブランは途切れ途切れに息をした。
泣き声に似ていた。
でも泣く余裕すら、たぶんもう残っていない。
「ノワール」
九条の手が止まる。
圭介が白い顔を覗き込む。
「ノワールを」
次の言葉が出るまで、ひどく時間がかかった。
「……たすけて」
圭介の目が見開く。
「ノワール、こわがってた」
それが、ブランの見ていたものだった。
自分の右腕より先に、片割れの顔を思い出している。
そのことが、九条の胸をまた抉った。
圭介は、弾かれたみたいに立ち上がった。
「位置」
「送ります」
九条が端末を操作する。
ノワールのログは乱れている。だが、切れる直前の移動ベクトルと、外部接続の反応はまだ拾える。完璧ではない。そんなことはわかっている。
「たぶん東。古い住宅地の方へ」
「十分」
圭介はもう、次の動きを決めていた。
ブランに頼まれた。
ノワールは助けを求めていた。
それに、さっきまでそこにあった共同体の時間を、あんな形でなかったことにされたくない。
理屈を考える前に、身体が玄関へ向いている。
その途中で、悠真が視界に入った。
床に座り込んでいる。
いや、崩れ落ちたまま起き上がれていない。
壊れた食卓と、床に転がる白虎の右腕と、飛び散った生活の痕跡と、その全部を見たまま、呼吸だけが浅い。
「悠真」
圭介が呼んでも、反応は鈍い。
盤上パンタの「ごめん」だけが、たぶんまだ頭の中で響いているのだろう。
返事の代わりに、玄関のチャイムもノックもなしに扉が開いた。
牧瀬だった。
上がり框を越えた瞬間、彼の目が室内を走る。
壊れたリビング。
泣いている九条。
立ち尽くす圭介。
床にいる悠真。
そして、腕のない白い身体。
牧瀬は一瞬だけ、本当に呼吸を忘れたみたいに止まった。
「……晃一」
低く、掠れた声だった。
その呼び方に、九条の肩がかすかに強張る。
だが牧瀬は、そこで立ち止まらなかった。すぐに駆け寄り、九条の向かいに膝をつく。触れ方は驚くほど丁寧だった。断面を覗き込み、散った部品を拾い、まだ生きている系統を傷つけないように白い身体を抱き上げる。その手つきに迷いはない。ないのに、その目の焦点だけが、九条の見ているブランとは少し違う場所に合っている。
「搬送する」
牧瀬が言う。
「今すぐ」
「はい」
九条も即答する。
答えながら、白い耳を指先で守るように整える。そこだけは、研究者の手ではなく、共同体の一員の手だった。
牧瀬は白い身体を抱え直し、もう一度だけ低く言う。
「大丈夫だ、晃一」
ブランは答えない。
答えないのに、その声はひどく必死だった。
「絶対に救う」
頼もしい言葉だった。
でも九条は、その言葉の中に、ブランを生かしたい気持ちと、晃一を取り戻したい執着が、分けきれないまま混ざっているのを聞いた。
圭介は玄関へ向かいながら、振り返った。
「行ってくる」
誰へ言ったのか、自分でもわかっていない。
九条か、悠真か、ブランか、それともまだどこかへ届くかもしれないノワールか。
悠真は何も言えなかった。
ただ、牧瀬に抱えられていく白い身体を見た。
ブランが、晃一として引き取られていく。
そのことを止める言葉も、今の自分には持っていなかった。
*
圭介が夜へ飛び出していく。
牧瀬は白い身体を抱え、九条を伴って車へ向かう。
壊れた家の中には、悠真だけが残された。
食卓の脚が折れている。
クッションが裂けている。
皿が割れている。
白虎の右腕が、まだ床にある。
共同体は、たしかにここにあった。
あったのに、今はもう、同じ形でここにない。
悠真は床に手をついたまま、立ち上がれなかった。




