表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/56

第29話 割れた家

 夜気が、ひどく冷たかった。


 神代家の屋根が遠ざかっていく。

 下のほうで、まだ何かが割れる音がした気がした。気のせいではないのだろう。あの家の中には、私が壊したものが残っている。食卓も、床も、ぬいぐるみも、ブランの右腕も。


 私は飛んでいる。

 飛ばされている、と言ったほうが近い。

 身体の主導権はまだ全部戻っていない。背中の継ぎ目がきしむたび、命令が骨の代わりみたいに中で鳴る。高く、もっと速く、離れろ、戻るな。そういう声に従っているだけなのに、腕の内側にはまだブランの軽さが残っていた。


 後ろで、盤上パンタが息を呑んだ。


「……ごめん」


 風に散るような声だった。

 誰に向けたのかは聞かなくてもわかる。

 わかったところで、何にもならない。


 謝るなら返してください、と言いたかった。

 家を返してください。ブランの右腕を返してください。兄さんの顔を返してください。あの家の中にあった、いつもの音を返してください。

 でも喉はまだ私のものではなくて、口を開くと、低く濁った機械音しか漏れなかった。


 下では街灯が流れていく。

 戻りたい。

 戻れない。

 そのあいだで、私はずっと裂けていた。


     *


 ノワールの悲鳴が消えたあとも、家の中には、あの音だけが残っている気がした。


 九条が最初に動いた。

 いや、動くしかなかった。


「ブラン!!」


 自分でも知らなかったほど強い声が、壊れたリビングへ叩きつけられる。

 床に膝をつき、白い身体を抱き起こす。肩口から先がなくなっている。断面が露出し、細い線がほどけ、火花が遅れて散る。九条は一瞬だけ息を止めたが、次の瞬間には端末を取り出していた。止血ではない。止電と固定と、残っている系統の保護だ。頭ではわかっている。わかっているのに、指が少し震えている。


「ブラン、聞こえますか」

 返事はない。

「ブラン」

 もう一度呼ぶ。

 白い耳が、かすかに動いた。


 それだけで、九条は余計に駄目になりそうだった。


 届かない。

 処置はしている。

 手順もわかっている。

 なのに間に合っていない。

 有能でいることと、助けられることが、今この場ではまるで繋がっていなかった。


 圭介が、ようやく動いた。

 割れた皿を踏みそうになって、無理やり足を止める。

「九条」

「右側に触れないでください。そこ、まだ生きてます」

 即答だった。

 声は保っている。

 保っているのに、頬が濡れていることに、九条自身がまだ気づいていない。


 圭介は息を呑み、それから左手だけをそっと伸ばした。

「ブラン」

 白い指先に、自分の手を触れさせる。

「おい、聞こえるか」

 ブランの睫毛が震える。

 視線は合わない。焦点も定まっていない。それでも、圭介の手を握り返そうとして、弱く動いた。


「……け、すけ」

「いる。いるから」


 その一言に、圭介の喉がきつく鳴る。


 ブランは途切れ途切れに息をした。

 泣き声に似ていた。

 でも泣く余裕すら、たぶんもう残っていない。


「ノワール」

 九条の手が止まる。

 圭介が白い顔を覗き込む。

「ノワールを」

 次の言葉が出るまで、ひどく時間がかかった。

「……たすけて」


 圭介の目が見開く。


「ノワール、こわがってた」

 それが、ブランの見ていたものだった。

 自分の右腕より先に、片割れの顔を思い出している。

 そのことが、九条の胸をまた抉った。


 圭介は、弾かれたみたいに立ち上がった。

「位置」

「送ります」

 九条が端末を操作する。

 ノワールのログは乱れている。だが、切れる直前の移動ベクトルと、外部接続の反応はまだ拾える。完璧ではない。そんなことはわかっている。

「たぶん東。古い住宅地の方へ」

「十分」


 圭介はもう、次の動きを決めていた。

 ブランに頼まれた。

 ノワールは助けを求めていた。

 それに、さっきまでそこにあった共同体の時間を、あんな形でなかったことにされたくない。

 理屈を考える前に、身体が玄関へ向いている。


 その途中で、悠真が視界に入った。


 床に座り込んでいる。

 いや、崩れ落ちたまま起き上がれていない。

 壊れた食卓と、床に転がる白虎の右腕と、飛び散った生活の痕跡と、その全部を見たまま、呼吸だけが浅い。


「悠真」

 圭介が呼んでも、反応は鈍い。

 盤上パンタの「ごめん」だけが、たぶんまだ頭の中で響いているのだろう。


 返事の代わりに、玄関のチャイムもノックもなしに扉が開いた。


 牧瀬だった。


 上がり框を越えた瞬間、彼の目が室内を走る。

 壊れたリビング。

 泣いている九条。

 立ち尽くす圭介。

 床にいる悠真。

 そして、腕のない白い身体。


 牧瀬は一瞬だけ、本当に呼吸を忘れたみたいに止まった。


「……晃一」


 低く、掠れた声だった。

 その呼び方に、九条の肩がかすかに強張る。

 だが牧瀬は、そこで立ち止まらなかった。すぐに駆け寄り、九条の向かいに膝をつく。触れ方は驚くほど丁寧だった。断面を覗き込み、散った部品を拾い、まだ生きている系統を傷つけないように白い身体を抱き上げる。その手つきに迷いはない。ないのに、その目の焦点だけが、九条の見ているブランとは少し違う場所に合っている。


「搬送する」

 牧瀬が言う。

「今すぐ」

「はい」

 九条も即答する。

 答えながら、白い耳を指先で守るように整える。そこだけは、研究者の手ではなく、共同体の一員の手だった。


 牧瀬は白い身体を抱え直し、もう一度だけ低く言う。

「大丈夫だ、晃一」

 ブランは答えない。

 答えないのに、その声はひどく必死だった。


「絶対に救う」


 頼もしい言葉だった。

 でも九条は、その言葉の中に、ブランを生かしたい気持ちと、晃一を取り戻したい執着が、分けきれないまま混ざっているのを聞いた。


 圭介は玄関へ向かいながら、振り返った。

「行ってくる」

 誰へ言ったのか、自分でもわかっていない。

 九条か、悠真か、ブランか、それともまだどこかへ届くかもしれないノワールか。


 悠真は何も言えなかった。

 ただ、牧瀬に抱えられていく白い身体を見た。

 ブランが、晃一として引き取られていく。

 そのことを止める言葉も、今の自分には持っていなかった。


     *


 圭介が夜へ飛び出していく。


 牧瀬は白い身体を抱え、九条を伴って車へ向かう。

 壊れた家の中には、悠真だけが残された。


 食卓の脚が折れている。

 クッションが裂けている。

 皿が割れている。

 白虎の右腕が、まだ床にある。


 共同体は、たしかにここにあった。

 あったのに、今はもう、同じ形でここにない。


 悠真は床に手をついたまま、立ち上がれなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
>散った部品を拾い、まだ生きている系統を傷つけないように白い身体を抱き上げる。 多分悠真の行いの無惨な結果を表したかったのかな?と邪推してしまうのですが、 部品を拾うなら切断面以外はほぼ無事な右腕を…
ノワールが盤上パンタを乗せて飛んでるのか… 救いは、救いはないんですか……!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ