第28話 こわい
ノワールが、ソファの上で身体を折る。喉の奥から、今まで聞いたことのない音が漏れた。声というより、潰れた金属と息が一緒に絞られるみたいな、嫌な音だった。
「ノワール!」
ブランが叫ぶ。悠真も反射で駆け寄ろうとして、そこで一瞬だけ止まった。
盤上パンタが、動いていなかったからだ。
さっきまで会話の輪の中にいたはずの男が、廊下とリビングの境目に立ったまま、ノワールではなく、その手の中のものだけを見ていた。小さな機械。悠真の部屋に置いてあったはずの、変身機。
それを、ひどく大事なものみたいに見つめている。壊れものを撫でる直前みたいな、静かな顔で。機械に見惚れているというより、これでようやく届くと確信した人の顔だった。
ノワールがまた悲鳴を上げた。それでも盤上パンタは目を上げない。その口元だけが、かすかに動く。
「……はみだし、大正解」
歌うでもなく、祈るでもなく、でもどちらでもあるみたいな声だった。軽い。軽いのに、その音だけが妙にはっきり耳へ残る。もう一度、囁く。今度は歌というより、息へ混ぜた命令だった。
「きみは最初から、大正解」
ノワールの身体が大きく跳ねた。背中の装甲が、内側から押し開かれるみたいに軋む。
悠真は、そこでやっと理解した。この男は、目の前の異変を止めようとしていない。見ている。起きていることそのものを、見ている。
「返せ」
喉がひりつく。
「それ、返せ!」
叫んだ瞬間、盤上パンタの視線がほんの少しだけ上がった。悠真を見るのではない。その向こう、ノワールのほうを見る。そして、変身機を抱く指先が、わずかに強くなる。
「きみのかたちは」
甘い声だった。優しい歌い方だった。だから余計に気味が悪い。
「きみだけの、設計図」
その言葉が落ちた瞬間、ノワールの喉から、悲鳴が弾けた。
*
やめてください。そう言ったつもりだった。でも、喉から出たのは、知らない音だった。
歌が聞こえる。知っている歌だ。兄さんが好きで、ブランが笑って、私も好きになっていた歌だ。なのに今は違う。やわらかいはずの音が、針みたいに頭の奥へ刺さる。刺さるたびに、その後ろから別のものが叩きつけられてくる。
設計図だ。
白い線。黒い面。関節の角度。出力の配分。爪の長さ。刃の展開。どこを裂けば壊れやすいか。どこを砕けば空間が死ぬか。共同体を最も効率よく傷つけるための、暴力の青写真。
いらない。そんなもの、いらない。私の中へ入ってくるな。でも入ってくる。歌が流れ込むたびに、設計図も一緒に押し込まれる。
「はみだし」は、もう兄さんの好きな言葉じゃない。枠から外れろ、壊すための形へ逸脱しろという命令になる。
「大正解」は、もう嬉しい響きじゃない。その形で壊せ、迷うな、それがお前の正解だという答えになる。
知っているものが、知っているまま別の意味へ変えられていく。それが何よりこわい。
「きみは最初から、大正解」
違う。違う。そんなことを言わないでください。私は最初からこうじゃない。兄さんに名前を呼ばれて、ブランに泣きつかれて、九条に服を整えられて、圭介に笑われて、そうやって今の私になった。最初からではない。ここで、なったんだ。
「どこにもない星の、設計図」
だめだ。その言葉を、そういうふうに使わないでください。その歌の中で“設計図”は、ひとつしかない形のことだった。誰にもなれない、だからこそ自分でいていいという赦しだった。なのに今は違う。
私の中へ叩きつけられてくるそれは、私を私でなくするための図面だ。爪をどう伸ばすか。関節をどう組み替えるか。どこを壊せば、家が泣くか。どこを裂けば、共同体が二度と同じ顔で笑えなくなるか。
頭の奥へ、冷たい手が入ってくる。乱暴ではない。丁寧に、丁寧に、私の中身をめくり、入れ替えていく。だから余計に吐きそうになる。
兄さんの手の熱。初めて名前を呼ばれた時の、少し震えた声。九条と並んだ台所。包丁の音。湯気。味噌の匂い。圭介の笑い声。雑な冗談。椅子を引く音。ブランの泣き声。うるさいのに、聞こえないと落ち着かない声。ジャケットの重み。肩へ落ちる布の感触。食卓。くだらない会話。皆がいるという安心。
そういうものが、押し流される。消えるのではない。上から塗りつぶされる。残っているのに、届かなくなる。見えているのに、自分のものではなくなる。触れたいのに、もう手がないみたいになる。
だめだ。それは、私だ。私がここで受け取ったものだ。私のものだ。返せ。返してください。返して。
痛い。
身体が組み変わる。肩の噛み合わせが変わる。背中の継ぎ目が勝手に増える。腕の内部で何かが伸びる。指先が刃のための形へ引き伸ばされる。脚の重心が、人を抱くためではなく、踏み込んで壊すための位置へずれる。肋の内側を冷たいものが這う。胸の奥で、私ではない何かが息をし始める。
いやだ。こんなのは私ではない。バケモノになる。こわい。こわい、こわい、こわい。なのに命令はもっと近い。耳からではない。脳からでもない。身体そのものが、もう命令のほうを自分の声だと勘違いし始めている。
壊せ。共同体をずたずたにしろ。お前の手で。
やめろ。やめろ、やめろ、やめろ。思う。叫ぶ。泣く。でも、もう身体がリビングの真ん中へ出ている。
ソファの前のローテーブルが、私の腕の一振りで砕けた。木片が跳ねる。コップが落ちる。さっきまで誰かが飲んでいた水が、床へ広がる。
違う。人ではない。私は、人ではなく物のほうへずらした。今のは、そうだ。そうした。まだ、私がいる。まだ少しは、いる。
「ノワール!」
兄さんの声。胸の奥がひどく痛む。そちらへ行きたい。行って、止まってくださいと言いたい。逃げてくださいとも。抱きしめてほしい、とまで思ってしまう。でも口が開くと、また別の音しか出ない。喉が焼ける。違う。焼けるのではない。何か冷たいものに、内側から削られている。
壊せ。
次は食卓だった。椅子の背を掴んで、叩きつける。脚が折れる。皿が割れる。昨日まで普通に置かれていた箸立てが、壁にぶつかって中身を散らす。
やめろ。そこは、だめだ。そこは皆で食べた場所だ。圭介が変な味付けをして、九条が無言で直して、ブランが甘いものだけ先に食べようとして、兄さんが困った顔をする場所だ。なのに、腕が止まらない。
私は必死で逸らす。壁へ。棚へ。床へ。人から少しでも遠いほうへ。それでも、壊れる。生活の跡ばかりが壊れていく。クッション。ブランの描いたよくわからない絵。圭介が置きっぱなしにした読みかけの雑誌。
私の手で。私の手で。こわい。こわい。私がこの家の痛みになっていく。
視界の端に、白と黒が見えた。ソファの端。アヌビスと白虎のぬいぐるみ。この家へ来てからずっとあった。ブランが抱いて寝て、兄さんが時々雑に直して、圭介が笑って、九条がいつの間にか並べ直していた。
命令が、そこへ向かう。
やめろ。いやだ。それはだめだ。それだけは。
私は腕を止めようとする。止まらない。刃の形に変わった右腕が、白と黒のぬいぐるみへ落ちていく。
「だめぇっ!」
ブランの声だった。白い影が、飛び込んでくる。
やめてください。来ないで。来るな。来たら守れない。
私は、最後の最後で腕を捻る。ぬいぐるみの正面ではなく、その横の壁へ逸らすために。肩が悲鳴を上げる。継ぎ目が裂ける。それでも、少しだけ軌道がずれる。
足りない。
白いものが、視界を横切った。何が飛んだのか、すぐにはわからなかった。軽いのに、重い音がした。床に落ちて、二度跳ねる。
ブランが、目の前にいる。いるのに、変だ。
右が、ない。
肩口から先が、なくなっている。銀の断面が露出して、細い線がほどけて、遅れて火花が散る。その少し向こうで、白虎の右腕が、床の上を転がっていた。
私は、自分が何をしたのか、理解できなかった。理解したくなかった。でも、目の前にある。私が守れなかった結果が、目の前にある。
声にならない。喉が閉じる。頭の中の命令も、痛みも、一瞬だけ全部止まる。
ブランが、泣くことすら忘れた顔で、切れた自分の右肩を見ていた。




