第27話 扉の内側
盤上パンタが神代家へ来たのは、夕方に差しかかる少し前だった。
インターホンが鳴る。
それだけで、家の空気がほんの少し張る。
ブランは玄関のほうを見て、素直に嬉しそうな顔をした。
悠真はその横で、靴下の裏が床に張りつくみたいな感覚を覚える。
招いたのは自分たちだ。
だから開けるしかない。
その当たり前が、今日は妙に重い。
「……出ます」
悠真が言うと、
九条はソファの背に片手を置いたまま頷いた。
「私はここから見ています」
それは同行しないという意味ではない。
視界に入れておく、という意味だ。
言い方は静かでも、やっていることは完全に警戒だった。
圭介はキッチンから顔だけ出す。
「俺、飲み物だけ持ってく」
軽く言う。
軽く言うが、視線は一瞬だけ玄関と廊下の長さを測っていた。
本人もたぶん、そこまで自覚していない。
でも、“知らない人をこの家に入れる”ことを、生活の側の人間としてちゃんと引っかかっている。
ノワールはソファに座っていた。
今日はそこが定位置だった。
立てないわけではない。
だが、立っていると、自分の輪郭が少しずつ薄くなる気がする。
だから座っている。
インターホンが二度目に鳴る。
ブランがもう待ちきれずに言う。
「きた」
「知ってる」
悠真が返して、玄関へ向かった。
*
扉の向こうにいた盤上パンタは、昨日よりずっと普通の格好だった。
帽子もマスクもある。
でも、配信者の変装というより、ただ人目を避ける人の服装に近い。
手には小さな紙袋があった。
「……どうも」
最初にそう言う。
妙にきちんとしていた。
「これ、手ぶらもあれかと思って」
紙袋を少し持ち上げる。
コンビニで買った菓子と飲み物らしい。
悠真は、一瞬だけ返事に詰まった。
その“ちゃんとしようとしている感じ”が、いちばん困る。
「ありがとうございます」
「急に押しかける形になって、ごめん」
「押しかけたのは、こっち……いや」
途中で言葉が崩れる。
盤上パンタはそこで少しだけ笑った。
「大丈夫。今日は、変なことしない」
「それは、しないでください」
「日本語おかしくなってるよ」
その小さなやり取りだけで、緊張が全部ほどけるわけではない。
でも、少しだけ呼吸はしやすくなった。
ブランが兄の脇から顔を出す。
「ぱんだ」
「うん」
「きた」
「来たよ」
その返答がもう、少し嬉しそうだった。
玄関へ上がった瞬間、盤上パンタの視線が一度だけ家の奥へ伸びた。
生活の匂い。
靴の数。
開けっぱなしのリビング。
誰かの声。
そういうもの全部を、一瞬で吸い込むみたいに見た。
けれど、その視線はすぐに引っ込む。
踏み込みすぎない。
その抑制が、逆に悠真の胸をざらつかせる。
*
リビングへ入ると、空気は思っていたより普通だった。
「どうも」
圭介が先に言う。
紙コップを並べながら、ちょっとだけ妙なテンションになっている。
「三崎圭介です。昨日、たぶん一番状況わかってなかった人です」
「自己紹介としてどうなんだ、それ」
悠真が言う。
「いや、でも事実だし」
盤上パンタが苦笑する。
「みな……あ、いや」
一瞬だけ迷ってから、言い直す。
「今日は盤上パンタで」
「了解です」
圭介はそこで変に踏み込まなかった。
明るくはある。
でも、相手の名札をどこに掛けるべきかは一応見ている。
九条は立ち上がらなかった。
座ったまま会釈だけする。
「九条です」
「……どうも」
盤上パンタも軽く頭を下げる。
その一往復のあいだに、九条は相手の立ち位置、手の動き、廊下までの距離をたぶん全部見ていた。
気にしていない風で、ちゃんと退路を見ている人の目だった。
最後に、ノワールが視線を上げた。
「いらっしゃいませ」
声は平坦だ。
平坦だが、冷たいだけではない。
体調が悪いせいで、感情の細部まで上手く乗らない感じがある。
盤上パンタはその黒い姿を見て、ほんの一瞬だけ黙った。
「……お邪魔します」
それだけ返す。
ノワールもそれ以上は続けなかった。
家の中に、盤上パンタがいる。
それは異物のはずだった。
なのに、ブランが間にいるだけで、最初の数分は意外なほど普通に進んでしまった。
*
最初に空気を回したのは、圭介だった。
「これ、ほんとに本人なんだよな……」
「圭介」
「いや、口に出ちゃっただけ」
盤上パンタが笑う。
「そこはまあ、そう」
「俺、配信で見てた人が友達の家に来る経験、たぶん一生分使ってる」
「それは、なんかごめん」
「謝らなくていいです」
圭介はそこで一瞬だけ真顔になって、すぐに緩める。
「でも、一応言っとくと」
「うん」
「この家、わりといろいろあったあとなんで」
言い方は柔らかい。
柔らかいが、線を引いている。
「今日は、急に何かしないでください」
盤上パンタは、少しだけ驚いたように目を瞬かせてから、ちゃんと頷いた。
「しない」
「なら大丈夫です」
圭介はそれ以上責めない。
けれど、歓迎だけでもない。
その半端さが、かえってこの家らしかった。
ブランはもう、そんな空気を全部飛び越えている。
「ぱんだ、これ」
自分のパンダのぬいぐるみを持ってくる。
「見せるの?」
悠真が言う。
「うん」
「俺のじゃない?」
「いまは、ぼくの」
「そうかよ」
盤上パンタは、それを受け取る前に少しだけ手を止めた。
勝手に触らない。
ブランが「いいよ」と差し出して初めて、そっと持つ。
「……うわ」
小さく言う。
「使い込まれてる」
「だっこ、してるから」
「知ってる感じがする」
その返しに、ブランはすぐ笑った。
その笑いにつられて、悠真も少しだけ口元を緩める。
盤上パンタは、その顔を見てしまう。
見てしまって、目を逸らすのが少し遅れる。
この時間そのものが、もう羨ましいのだと伝わってしまうくらいには。
*
ノワールは、会話から半歩だけ外れた位置でそれを見ていた。
兄が笑っている。
ブランがはしゃいでいる。
圭介が妙に頑張っている。
九条は静かに見ている。
その輪の中へ、盤上パンタが入っている。
嫌だ、と思うのとは少し違う。
危うい、とは思う。
だがそれ以上に、自分の内側のほうが気味が悪かった。
音が、ほんのたまに遅れて聞こえる。
視界の端が、一瞬だけ黒く欠ける。
しかも、その欠けが、自分ではない誰かに試されているみたいに感じる。
「ノワール」
九条が小さく呼ぶ。
ノワールはそちらを見る。
「水、飲みますか」
「……いただきます」
答えたあと、自分の声が少しだけ自分のものではない気がした。
九条はコップを渡しながら、いつも通りの顔を崩さない。
だが、受け渡しの瞬間、ノワールの指先を見た。
震えを見ているのだとわかる。
わかるのに、何も言わない。
今ここで崩さないための沈黙だった。
*
盤上パンタは、神代家の時間を本当に楽しんでしまっていた。
圭介は話しやすい。
妙に遠慮しきらないくせに、踏み越えてはいけない線だけは勘で避ける。
ブランはまっすぐで、可愛いだけではなく、感情が来たままに顔へ出る。
九条は距離があるぶん、家の輪郭そのものを支えているみたいに見える。
ノワールは体調が悪いのに、崩れきらないようにしている。
そして悠真は、その全部の中心で、今日もまだ揺れている。
誰か一人を見ているだけでは、この空気はできない。
それがわかる。
わかってしまう。
「いい家だね」
ふと、盤上パンタは言った。
軽い感想のつもりで口を開いたのに、声が思ったより低かった。
悠真が少しだけ目を見開く。
ブランは素直に頷く。
「うん」
圭介は、そこで笑っていいのか迷う顔をした。
九条だけが、盤上パンタの声音の奥まで聞こうとするように一瞬だけ視線を上げる。
「まあ」
悠真がやっと言う。
「最近は、かなり」
その“最近は”の中に、事故も、生活も、無理やり作った幸福も、たぶん全部入っている。
盤上パンタは、それを聞いて、胸の奥が少し痛くなった。
いい家だ。
奇跡みたいに。
でも、偶然の奇跡ではない。
誰かが失って、
誰かが壊して、
それでも残ったものをみんなでどうにか生活へしている家だ。
その複雑さごと、もう欲しいと思ってしまっている自分がいる。
*
同じ頃、牧瀬はラボで黒いログを洗っていた。
朝からずっとだ。
ノイズを落とし、欠損を繋ぎ、飛んだ時刻を照らし合わせる。
画面の上に現れるのは、ただの不調ではない。
誰かが外から触った痕跡だった。
「……最悪だな」
受け渡しではない。
侵入に近い。
しかも、一度ではない。
黒金の感覚窓が、どこかで繋ぎ替えられかけている。
牧瀬は、昨日の接触ログをさらに遡る。
休憩所。
頭痛。
その直後の波形の乱れ。
偶然で片づけるには、あまりにも形が悪い。
すぐに九条へ発信する。
呼び出し音が短く鳴って、繋がる。
「九条」
『はい』
「黒金のログ、外から洗われてる。ハッキング痕だ」
向こうが一瞬だけ黙る。
『どの程度ですか』
「浅くない。常時参照まで開いてる。接触相手を家に入れてるなら、今すぐ切れ」
九条の声がさらに低くなる。
『……了解しました』
「俺も向かう」
返事を待たずに通話を切る。
白衣を脱ぐ時間すら惜しかった。
*
リビングでは、ちょうど小さな空白ができていた。
圭介が追加の飲み物を取りにキッチンへ行く。
九条の端末が震え、彼女が短く席を外す。
悠真はブランにせがまれて、棚の上のカードゲームを探しに立つ。
ノワールはソファで目を閉じ、呼吸を整えている。
ほんの数十秒。
それだけの隙だった。
「トイレ、あっち」
ブランが善意で言う。
「あ、ありがとう」
盤上パンタは頷いて立ち上がる。
廊下を数歩進んだ先で、半分開いたドアが目に入る。
悠真の部屋だと、なぜかわかった。
理由はない。
ただ、この家の空気の中で、そこがいちばん悠真の匂いを残していた。
覗くつもりは、最初は本当になかった。
でも、足が一瞬だけ止まる。
止まったまま、視線だけが入る。
棚の上に、写真立てがあった。
若い父と母と幼い悠真。
昔の、壊れる前の家族だと一目でわかる写真だった。
その隣に、
見覚えのない小さな機械が置かれていた。
盤上パンタは、数秒だけ動けなかった。
説明されなくても、わかってしまう。
これが、ただの記念品ではないことくらい。
この家の今へ繋がっている中心だと、嫌でもわかる。
失った父の記憶がある。
父を壊した機械がある。
しかも、その壊れた先の幸福が、いまリビングで笑っている。
悠真は、その全部を抱えて生きている。
失ったものだけじゃない。
壊したものだけでもない。
その壊れた先で手に入れてしまった幸福まで、全部持っている。
「……ああ」
声にならない息が漏れる。
羨ましい、だけでは足りなかった。
これではもう、理解できるとか、わかるとか、そういう距離にいられない。
自分が欲しかったものが、
目の前の一人の中に、
矛盾したまま全部ある。
なら。
もう、外から見ているだけではいられない。
見つけた。




