第26話 招かれた人
翌朝、家の中は静かだった。
静かすぎる、というほうが近い。
ブランは起きている。
九条もいる。
圭介も、めずらしく文句を減らしている。
なのに、いつもの共同体の音が薄い。
いちばんの原因は、ノワールだった。
起き上がれてはいる。
会話もできる。
だが、ラボの帰りより顔色が悪い。
視線がふと途切れる瞬間がある。
長く歩かせるな、と牧瀬にも念を押されていた。
「今日は残る」
九条が先に言った。
「ノワールを一人にしません」
圭介が頷く。
「俺もいる」
いつもの軽さがない。
神代家の中で、その不在が不穏として機能してしまう種類の朝だった。
ノワールはソファに座ったまま、自分の手を見る。
黒い指先は、いつも通りそこにある。
握れば閉じる。
開けば開く。
それなのに、ほんのたまに、その動きが自分より先に決まっているみたいな瞬間がある。
「ノワール」
ブランが顔を覗き込む。
「だいじょうぶ?」
「……はい」
答えた声は普通だった。
普通なのに、胸の奥に小さな違和感が残る。
今の返事は、本当に自分が選んだものだったか。
そんなことを疑い始める時点で、かなりおかしい。
ブランは、何度かノワールの顔を覗き込んでから、最後には兄のほうを見た。
「おにいちゃん」
「うん」
「いくの」
悠真は、その問いへすぐには答えなかった。
行く。
そのつもりだった。
昨夜、連絡もした。
返事も来た。
昼前なら、と。
否定しに行くつもりだ。
でも、それだけではないことを、自分でも知っている。
「……会ってくる」
やっと言う。
「話、しないと」
ノワールがこちらを見る。
顔色は悪いのに、目だけは妙に澄んでいた。
「兄さん」
「なに」
「切りに行く顔では、ありません」
悠真は返事に詰まる。
正しすぎる。
正しいから腹が立つわけでもない。
ただ、見透かされているのが痛かった。
ブランが、そこでぱっと顔を上げた。
「ぼくもいく」
「お前は」
「いく」
言い直しがなかった。
兄のため、だけではない声だった。
「ぱんだ、きになる」
それもまた、正直すぎた。
九条は反対しなかった。
反対できなかったと言ったほうが近い。
ブランを止める理屈はある。
だが、この状況で兄と盤上パンタのあいだへ、白銀が自分で行きたがっていることにも意味がある。
そう判断したらしい。
「近場だけです」
九条が言う。
「連絡は切らない」
「はい」
「ノワールに何かあればすぐ戻る」
「……はい」
悠真は、その「はい」を二度言わされるたび、子どもみたいに感じる。
でも今は、そのくらいでちょうどよかった。
*
会った場所は、昨日と同じ街区の、少し外れたベンチだった。
盤上パンタは、先に来ていた。
帽子とマスクで、ぱっと見ではわからない。
けれど、こちらへ気づいて目を上げた瞬間にわかる。
声を知っているというのは、こういうことなのだろう。
「……来てくれた」
言い方は軽くない。
本当にそう思っていた人の声だった。
悠真は、その最初の一言だけで、胸の奥が少しだけ崩れるのを感じた。
だから腹が立つ。
そういうところだと思う。
「話があって」
先に言う。
昨日みたいに崩れないために。
「うん」
盤上パンタは頷いた。
急かさない。
でも、待ち方に熱がある。
それがもう、少し危うい。
ブランは、兄の半歩後ろへ立った。
最初から前へ出ていかない。
昨日より、空気を読んでいる。
でも、好奇心まで消えたわけではない。
白い耳が、相手の声のたびにわずかに動く。
「昨日」
悠真が言う。
「ラボに行ってきました」
盤上パンタの目が、一瞬だけ細くなる。
「……そっか」
「ノワールの件で」
「うん」
そこも、すぐには誤魔化さない。
「だから、余計に」
悠真は喉を鳴らす。
「言わないでほしかったんです」
盤上パンタは何も挟まない。
「『ああ、俺の親父も君たちみたいなケモロボだったらよかったのにな』って」
言ってしまうと、また痛い。
でも言わないと、ここへ来た意味がない。
「そんなふうに、夢見られるようなものじゃない」
言葉を選びながら続ける。
「思ったより大変で、重くて、たぶん……ずっと、取り返しがつかない」
盤上パンタは黙って聞いていた。
その黙り方が、逃げ道を作らない。
「昨日、ラボで」
悠真は言う。
「今の俺たちが、事故と技術の結果だって、ちゃんと見せられました」
胸のあたりが少し詰まる。
「家にいると、忘れそうになるんです。笑ってるし、飯も食うし、呼べば返事するから」
「……」
「でも、忘れていいものじゃない」
そこまで言って、少しだけ息を切らす。
「だから、そういうふうに、簡単に言ってほしくなかった」
理性では、たぶんここまででいい。
でも感情のほうが、それでは足りなかった。
「でも」
と、自分で続けてしまう。
続けた瞬間、あ、と思う。
「……それでも」
盤上パンタが目を上げる。
「わかってほしかったのも、本当です」
言ってしまった。
否定しに来たくせに。
その一言で、全部が少しだけ壊れる。
ブランが、そこで兄を見た。
驚いている。
でも、止めようとはしない。
止めるべきかどうか、まだわからない顔だった。
盤上パンタは、しばらく何も言わなかった。
それから、低く息を吐く。
「……うれしい」
まず、その言葉が出る。
「うれしい、けど」
自分で続ける。
「昨日のあとにそれ言わせたの、たぶん最悪だな」
苦く笑う。
でも、その笑いも途中で消える。
「簡単に言ったつもりは、なかった」
盤上パンタが言う。
「でも、軽く聞こえたなら、それは俺の落ち度」
「……」
「ただ」
目を逸らさない。
「やっぱり、本音だった」
そこは引かない。
謝る。
でも取り消さない。
その頑固さが、昨日より少しだけはっきり見えた。
「俺」
盤上パンタは続ける。
「君たち見て、たぶん、羨ましかったんだと思う」
その一言に、ブランの耳がぴくりと動いた。
悠真は黙ったまま聞く。
「綺麗だからじゃない」
「……」
「ちゃんとそこにいて、ちゃんと誰かに呼ばれて、返事があって、飯食って、待ってる場所がある感じ」
言葉は静かだ。
でも、その静けさの下に、乾いた飢えがある。
「そういうの、俺にはないから」
ブランはその顔を、昨日よりちゃんと見ていた。
推しを見る目ではない。
何かを見極めようとしている目だった。
「でも」
悠真が言う。
「羨ましいからって」
「壊したくなるのは、終わってる」
盤上パンタが先に言った。
あっさりと。
「知ってる」
その返しに、悠真は次の言葉を失う。
知っている。
その上で、まだそこから降りていない。
危ない。
やはりこの人は、ちゃんと危ない。
でも、危ないと切るだけでは、切れないところへ届いてしまっている。
*
同じ頃、家ではノワールがひとりで息を整えていた。
正確には、ひとりではない。
キッチンに圭介がいる。
窓際で九条が誰かに短い連絡を返している。
視界の端へ入れば、二人ともちゃんといる。
それでも、内側の違和感だけは自分にしか触れない。
ノワールはソファの端へ座ったまま、掌を見た。
握る。
開く。
問題ない。
次の瞬間、
黒い指が、自分の意志よりほんの一拍早く閉じた。
「……っ」
声には出さない。
たったそれだけだ。
たったそれだけなのに、全身が冷える。
「ノワール?」
九条の声が飛ぶ。
ノワールはすぐに顔を上げた。
「平気です」
「何が」
「少し、眩暈が」
半分は本当だ。
半分は、まだ言葉にできない。
自分の中に、自分で触っていない扉がある。
そんな感覚だけが、薄く残った。
九条は数秒だけこちらを見たが、追及はしなかった。
「無理はしないでください」
「はい」
それ以上を言えないまま、ノワールは目を伏せた。
圭介が、妙に明るくない声で言う。
「何かあったら、すぐ言えよ」
「……はい」
その“何か”の中身が、自分でもまだわからない。
わからないままなのが、いちばん不気味だった。
*
会話の温度が少し緩んだのは、ブランのせいだった。
「ぱんだ」
白銀が、ついに口を開く。
「うん」
「ほんとに、ぱんだ」
「まあ、そこはそう」
盤上パンタが答える。
昨日も似たやり取りをしたはずなのに、今日は少し違う。
ブランは、相手を推しとして見るだけではなく、何かを見極めるみたいに顔を見ている。
「おにいちゃん、へんなかおしてた」
「それ言う?」
悠真が言う。
「してた」
「してたね」
盤上パンタまで言う。
そこで、三人のあいだに、ごく短く笑いが落ちた。
その笑いが、まずかった。
まずいほど自然だった。
盤上パンタは、その瞬間の神代家の空気を、たぶんかなり正確に想像してしまった。
兄がいて、
白いのがいて、
黒いのがいて、
食卓があって、
帰る場所がある。
それは、羨望するには具体的すぎた。
ブランは、その変化に気づかない。
むしろ、少しだけ機嫌を直している。
「ノワール、おやすみ」
唐突に言う。
悠真がそちらを見る。
「さっき言ってきた」
「……ああ」
「でも、あとでまた言う」
その言い方は、兄の許可を取るものではなく、自分の予定を話しているみたいだった。
それを聞いた盤上パンタの目が、ほんの一瞬だけ揺れる。
あとでまた言う。
そういう生活なのだ。
今日で終わる関係ではなく、帰ったあとも続いていく関係。
その事実が、笑いよりも深く刺さる。
盤上パンタは、ゆっくりと息を吐いた。
それから、少しだけ柔らかい顔を作る。
作る、というより、作ろうとして作りきれない。
「……いいな」
と、ほとんど独り言みたいに言う。
悠真が目を細める。
「なにが」
「そういうの」
盤上パンタは言った。
「ちゃんと続いてる感じ」
その声は、羨望を隠していない。
隠していないのに、まだ壊していない。
その中途半端さがいちばん危うい。
ブランは、それを善意で受け取った。
「じゃあ」
と言う。
「くる?」
悠真が振り向く。
「おい」
止めるには一拍遅い。
ブランはもう、相手の顔を見ていた。
「うち」
白い尾が、小さく揺れる。
「くる?」
あまりにも善意だった。
押し売りでもなく、試しでもなく、ただ自分が今そう思ったから差し出した声だった。
悠真の背中が冷える。
盤上パンタは動かない。
動かないまま、その一言を受け取っている。
神代家へ招く。
それがどういう意味を持つか、ブランはまだ全部わかっていない。
でも、悪意はない。
ないからこそ、止めるのが遅れた。
「ブラン」
悠真が低く言う。
けれど、その声にも迷いが混じる。
完全には否定できない。
相手を切れていないからだ。
盤上パンタは、その二人を見た。
兄と、弟の片割れ。
そして、いまここにいないもう一人の気配まで含めて見た。
それから、笑った。
表面だけ見れば、招かれて嬉しかった人間の笑みだった。
本当に嬉しいのだろう。
その笑みの中には、たしかに救われた色がある。
「……いいの?」
盤上パンタが訊く。
訊き方はやわらかい。
でも、もう欲しがっている声だった。
悠真は、答えられない。
ブランは、嬉しそうに頷きかける。
その途中で、兄の顔を見て一瞬だけ止まる。
それでも、白い声はもう引っ込まない。
「ぼくは、きてほしい」
悠真は深く息を吸った。
だめだ、と言うべきだと思う。
でも、その言葉が決定打になることもわかっている。
切るならここだった。
ここで切れない自分のほうが、たぶん問題だった。
「……長居はなしで」
やっとそう言う。
「家の人たちにも確認するから」
盤上パンタの目が、ほんのわずかに光る。
それは勝ち誇ったものではない。
扉の前で立ち尽くしていた人間が、内側から鍵を外される音を聞いた時の顔だった。
「うん」
盤上パンタは頷いた。
「ちゃんとする」
その返事が、妙に誠実で、余計に苦しかった。
扉は、悪意ではなく、善意で開いてしまった。




