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第25話 ラボの空気

 目を開けた瞬間、最初に見えたのは天井ではなく、車の内側だった。


 薄暗い。

 揺れている。

 タイヤが継ぎ目を踏むたび、頭の奥へ小さな振動が返ってくる。


「……ノワール?」

 声がした。

 白い声だった。

 泣きすぎて、少し掠れている。


 視線を動かすと、ブランがいた。

 白い指がシートの端を強く握っている。

 いつもなら真っ先に覗き込んでくるのに、今はそこまで寄ってこない。

 寄ってはいけない空気が、この車の中にはもうあるのだとわかる。


「起きた」

 前の席から圭介が振り向く。

 声は低かった。

 低いが、いつもの軽さがまるでない。

「ノワール、聞こえるか」

「……はい」

 自分の声が、自分のものより少し遠い。


 助手席には九条がいた。

 膝の上へ端末を開き、何かを確認し続けている。

 振り向きもしない。

 だが、聞こえていないわけではない。

「会話は可能ですね」

 それだけ言う。

「視界の乱れは」

「今は、そこまで……」

「“今は”」

 九条が短く繰り返す。

 その確認の仕方が、もう共同体の空気ではなかった。


 運転席には牧瀬がいる。

 ハンドルを握る手に無駄がない。

 前だけを見ている。

 前だけを見ているくせに、後部座席の様子まで全部わかっているみたいな空気がある。


 そして、その正面に近い位置で、悠真が座っていた。


 顔色が悪い。

 冗談ではなく真っ青だった。

 それでも、ノワールと目が合った瞬間だけ、笑おうとする。

 笑うというより、崩れないために口元を持ち上げるみたいな顔だった。


「……よかった」


 それだけの声なのに、ノワールの胸の奥が掴まれたみたいになる。


 起きた。

 兄がそれを喜んでいる。

 そのことだけで、まだこちら側へ戻れる気がしてしまう。


 だが、車内の空気はもういつもの共同体ではなかった。


 ブランは泣きやんでいない。

 九条は画面から目を離さない。

 圭介は黙ったまま、何度も後ろを見ている。

 牧瀬はハンドルから一度も力を抜かない。

 悠真だけが、真っ青な顔で、ノワールが起きたことにだけすがるみたいに安堵している。


「どこへ」

 ノワールが訊くと、

 答えたのは牧瀬だった。

「ラボだ」

「……」

「検査する。今度はごまかさない」

 その声には、昨夜の続きをもう曖昧にしない意志だけがあった。


     *


 ラボは、思っていたより静かだった。


 広い。

 明るい。

 どこも整いすぎていて、逆に人の気配が薄い。

 足音だけがやけに響く。

 神代家とも、大学とも違う。

 誰かが暮らす場所ではなく、何かが記録され、切り分けられ、処理される場所だった。


 ブランは、入った瞬間に悠真の袖を掴んだ。

 強くではない。

 でも、自分からそうした。

 それだけで、ここが嫌なのだとわかる。


「……ここ」

「うん」

 悠真が答える。

「ここが、ラボ」

 その返答も、どこか掠れていた。


 九条は、ここへ入った瞬間に動きが変わった。

 速い。

 迷いがない。

 端末を持つ位置も、足を止める場所も、全部がこの空間に合っている。

 それは頼もしさでもある。

 同時に、家で見ていた九条と、ここにいる九条が少し違うことも、ノワールにはすぐわかった。


「ブラン、こちら」

「……うん」

「ノワールも」

 たしかに名前を呼ばれている。

 なのに、その響きは登録名と管理のあいだにあるみたいだった。

 いつもの九条なら、そこへもう少し温度を混ぜる。

 今日は混ざらない。


 牧瀬もまた、神代家で見せていた顔ではなかった。

 私情が消えたわけではない。

 だがそれを、仕事の形へ押し込めている。

 その無理が、かえって怖かった。


 悠真はその空気に、目に見えて飲まれていた。

 家では兄だった。

 大学では学生だった。

 ここでは、そのどちらにもなれない。


「検査だけだ」

 牧瀬が言う。

「余計なことはしない」

 その“余計”が、誰にとっての余計なのか、誰も確かめなかった。


     *


 ノワールは、白い台の上へ座らされた。


 視界の動き。

 反応速度。

 ログ。

 外部からの侵入痕跡。

 九条と牧瀬のあいだで、言葉が短く交わされる。


「ここ、飛んでる」

「時刻が変」

「受け渡しじゃない。常時参照に近い」

「五感の窓が開いたままです」

「閉じ切れてないな」


 意味は全部はわからない。

 だが、ひとつだけわかることがある。


 自分は今、弟でも、恋する相手でもなく、現象として扱われている。

 事故と技術の結果として、切り分けられている。


 その事実は、正しかった。

 正しいから嫌だった。


 少し離れたところで、ブランも別の椅子へ座らされている。

 白い尾が落ち着かない。

 それでも暴れないのは、兄とノワールが見える位置にいるからだ。

 たぶん、自分なりに耐えている。


 悠真はその二人のあいだに立とうとして、しかし立てない。

 邪魔になるのがわかるからだ。

 家なら迷わない。

 ここでは、迷う。

 その迷い方が、ラボの空気そのものだった。


 圭介だけが、完全に場違いな顔で隅に立っている。

 だが、だからこそ見えるものもあるらしかった。

「……なあ」

 低く言う。

「これ、かなりやばいんだよな」

「やばいです」

 九条が答える。

 即答だった。

「思ったより、深い」

 牧瀬も言う。

 その時、悠真の肩がわずかに揺れた。


     *


 検査が終わったあと、ブランは目に見えて機嫌を悪くしていた。


 怒っているというより、傷ついている。

 可愛いと言われたり、頭を撫でられたり、笑われたりする時とも違う。

 ここでは、自分たちがただ「見られるもの」だった。

 その感じが、白銀にもわかったのだろう。


「かえりたい」

 珍しくはっきり言う。

 悠真がすぐに膝を折る。

「うん」

「ここ、や」

「そうだな」

 そのやり取りを、牧瀬は少しだけ離れた位置から見ていた。

 見て、それから目を逸らす。


「変身機は、今度こそ回収する」

 牧瀬が言った。

 空気がまた硬くなる。

「ただし、今日はやらない」

 悠真が顔を上げる。

 責める前の顔ではない。

 理由を探す顔だった。


「黒金の搬送と検査が最優先だった」

 牧瀬は続ける。

「それに、あれは危険物だ。遮断処置も保管ケースもなしに、その場で雑に持ち出していい代物じゃない」

 九条が静かに頷く。

「回収手順を組みます。次の週末までに準備します」

「それまでは、隠すな。動かすな。遊びで触るな」

「……はい」

 悠真が答える。

 素直すぎる返事だった。


 だが、その返事をしたあとで、悠真の指先が小さく強ばる。

 ノワールはそこだけ見た。


 差し出すしかない、と頭ではわかっている。

 それでも、今すぐには出し切れない。

 そんな固まり方だった。


 牧瀬は、それにも気づいているようだった。

 気づいていて、なお続ける。


「心配してるんだ」

 誰へ向けた言葉なのか、一瞬わからない。

「晃一を」


 その一言で、部屋の温度がまた変わる。


 ノワールは目を伏せた。

 わかっていた言葉だ。

 わかっていたはずなのに、刺さる時はいつも不意打ちだ。

 自分を見ている。

 でも、根底では晃一を見ている。


 悠真も顔を上げられない。

 責められているわけではない。

 だが、その正しさの前で、何も言えなくなる。


 九条が、その沈黙を切るように端末を閉じた。

「今日は帰しましょう」

 声は落ち着いている。

「ここで長引かせても、状態はよくなりません」

 正しい。

 だが、その正しさにも、救いきれなさが滲んでいた。


     *


 帰宅した時には、もう夜だった。


 家に戻ると、ラボの空気が服にまで移ってきたみたいに感じる。

 いつものソファ。

 いつもの食卓。

 パンダ。

 皿。

 なのに、どこもいつも通りに見えない。


 ブランはそのまま眠ってしまった。

 泣き疲れた子どもみたいに、兄の肩へ寄りかかって眠る。

 ノワールは、自分の中の違和感がまだ消えないことを確かめながら、黙ってリビングにいた。

 圭介はいつもより手際の悪い動きでコップを片づけている。

 九条は連絡を飛ばしながら、明日の段取りを整えていた。


 その中で、悠真だけが落ち着けない。


 家へ戻ってきたはずなのに、戻ってきた感じがしない。

 ラボで一度、正気の側へ引き戻されてしまったせいだ。

 この共同体は事故の上にある。

 技術の上にある。

 幸福だけを見ていられる場所ではない。

 そう突きつけられたあとで、いつもの顔へ戻るのは無理だった。


「……ちょっと」

 と言う。

 誰に向けたのでもない声だった。

 そのまま、自分の部屋へ向かった。


     *


 棚のいちばん上に、変身機はまだあった。


 隠したつもりだった。

 でも、隠せていなかったのかもしれない。

 いや、たぶん最初から、完全に隠す気なんてなかった。


 悠真はそれを下ろして、しばらく見た。

 もう何度も見てきた形だ。

 小さくて、軽くて、悪夢の中心とは思えない。


 その近くに、写真立てがあった。


 最初は気づかなかった。

 半分、別のものの陰に入っていた。

 誰かが意図して隠したのではない。

 ただ、自分が見ないままにしていたのだと思う。


 写真の中には、三人がいた。

 若い父。

 柔らかく笑う母。

 その真ん中で、まだ小さい自分。


 神代家だった。

 ちゃんと、家族だった頃の。


 悠真は、写真立てを手に取ったまま動けなくなる。


 ラボで見たノワールとブランは、弟ではなく、現象だった。

 事故と技術の結果だった。

 それでも家へ戻れば、あいつらは笑って、泣いて、自分を呼ぶ。


 父を壊した機械が、ここにある。

 父のいた家族の記憶が、ここにある。

 そして、その壊れた先で生きている幸福も、もうこの家にある。


 全部が同じ部屋の中に並んでいる。


 変身機は、危険物だ。

 その通りだと思う。

 回収されるべきだとも思う。

 でも同時に、それが父へ繋がる最後の回路みたいに見えてしまう。

 それがいちばん、たちが悪い。


 母はもういない。

 父も、もうあの形ではいない。

 写真の中だけが、平然と昔のままだ。


 盤上パンタの言葉が、唐突に頭へ戻る。


 「ああ、俺の親父も君たちみたいなケモロボだったらよかったのにな」


 あの時は、痛かった。

 わかるからこそ、痛かった。

 でも今、ラボの空気を浴びたあとで聞き返すと、別の痛み方をする。


 そんなふうに夢を見るものじゃない。

 そんなふうに軽く言っていいものじゃない。

 思ったよりずっと大変で、重くて、取り返しがつかない。


 そう言いに行きたいのか。

 それとも、まだわかってほしいのか。


 答えは、すぐには出なかった。


 悠真は写真立てを戻さず、そのままベッドの端へ腰を下ろした。

 暗い部屋に、変身機と写真だけがある。

 その二つに挟まれていると、自分の喪失も罪も、どちらも逃げ場がない。


 スマホを取り出す。

 連絡先は、もう入っている。


 画面を開いたまま、しばらく指が動かない。


 それでも、翌日には会いに行こうと思った。


 救われに行くんじゃない。

 否定しに行く。

 そんな夢じゃないと、ちゃんと言いに行く。

 そう言い張ることで、自分の中に残っている未練ごと切れるかもしれないと、どこかで思った。


 けれど、本当に切りたい人間は、たぶんその連絡先を開いたままにはしない。


 悠真は、そのことだけは見ないふりをした。


 短い文面を打つ。

 明日、少し会えますか。


 送信した瞬間、

 写真の中の三人が、何も言わずにこちらを見ていた。


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