第24話 まだ終わっていない
盤上パンタは、少し遅れて、自分の言葉の重さに気づいたようだった。
「ごめん」
と、彼は言った。
「今の、たぶん」
少しだけ苦く笑う。
「言っちゃだめなやつだった」
「でも」
悠真が、どうにか言葉を継ぐ。
「取り消さないんですね」
「……うん」
盤上パンタは頷く。
「ほんとだから」
ノワールが、低く口を開いた。
「兄さんを傷つけています」
その声には、はっきりした硬さが戻っていた。
ブランは、ようやく意味を追いついたらしく、不安そうに悠真を見る。
「お兄ちゃん」
白銀の指先が、そっと悠真の袖をつまんだ。
「いたい?」
悠真は、その問いにすぐ答えられなかった。
痛い。
でも、違うとも言えない。
責めきれないことが、いちばん苦しかった。
「……わかる」
悠真は、やっとそれだけ言った。
ノワールが目を細める。
ブランが息を止める。
盤上パンタも、まっすぐ悠真を見る。
「わかる、けど」
悠真は唇を噛んで、少しだけ俯いた。
「今それ言われると」
呼吸が浅くなる。
「だめです」
盤上パンタの顔が、静かに変わった。
やっと、本当に届いたみたいに。
「……うん」
低い声で答える。
「そうだよね」
その返しがまた、やさしすぎて、悠真は余計に苦しくなる。
「俺」
盤上パンタは続けた。
「君の言った“父さんと全然うまくいかなかった時”ってところで」
少しだけ視線を落とす。
「勝手に、自分の話を重ねた」
ノワールが黙って聞いている。
ブランはもう口を挟まない。
「それで」
盤上パンタは言う。
「君たちを見た時に、頭のどこかでずっと思ってたことが、そのまま出た」
彼は笑わなかった。
「俺の願望だよ。かなり最低な部類の」
悠真は、そこでようやく少しだけ顔を上げた。
最低だ。
そう、自分で言うんだ。
それは、逃げていないということだった。
「でも」
盤上パンタは言葉を切る。
「最低でも、本音だった」
その正直さに、また悠真の胸が痛む。
「だから、ごめん」
謝りながらも、引く気配はなかった。
「……」
「君の今の場所を、ちゃんと見ないで言った」
しばらくして、盤上パンタは小さく息を吐いた。
「でも」
続ける。
「白夜の端っこが、笑わないで聞いてくれたの、うれしい」
そこには、妙な敬意があった。
同類を見つけた興奮だけではない。
ちゃんと、長く救われてきた相手へ向ける感謝の温度がある。
盤上パンタの手の中で、伏せたスマホが一度だけかすかに鳴った。
通知音とも震えともつかない、ごく短い感触だった。
彼の親指が、その端を払う。
その瞬間、
ノワールの頭の奥に鋭い痛みが走った。
「……っ」
声にはならない。
でも視界が一瞬だけ白くなる。
頭痛だ。
鋭くて短い。
まるで、どこか深いところへ勝手に触れられたみたいな。
「ノワール?」
ブランが気づく。
「だいじょうぶ?」
「……平気です」
そう答えるしかない。
その痛みは、嫌な予感とほとんど同じ形をしていた。
盤上パンタは立ち上がりかけて、やめた。
心配して身を乗り出すより先に、ノワールの目と呼吸を見ていた。
どの程度通ったのか、確かめているみたいに。
それから一拍遅れて、ようやく表情だけを心配へ寄せる。
「……急に?」
声は抑えていた。
でも、その問いは驚きというより確認に近かった。
ノワールは、その視線を覚えた。
あれは、
何かを見つけた人の目だ。
しばらくして、
盤上パンタが空気を切り替えるみたいに息を吐いた。
「ごめん」
と言う。
「今日は、ほんとに変な絡み方した」
「変です」
ノワールが即答する。
その目は、まだ盤上パンタから外れなかった。
「うん、知ってる」
悠真は、まだ黙っていた。
だが完全に崩れてはいない。
むしろ、盤上パンタの言葉を抱えたまま、
かろうじて立っているように見えた。
「……帰る」
やっと言う。
「そうだね」
盤上パンタは頷く。
引き留めない。
その代わり、
スマホを少し持ち上げる。
「連絡先、交換しない?」
悠真が顔を上げる。
ノワールは一瞬、止めようかと思った。
でも、止められない。
兄の顔を見れば、それはもうわかる。
断れないのではない。
断りたくないのだ。
悠真は、数秒だけ迷ってから、
自分のスマホを出した。
画面の光が、夕方の休憩所に小さく点る。
交換はすぐ終わった。
それだけの行為なのに、
何か決定的な線を越えた感じがした。
「また」
盤上パンタが言う。
軽くはない。
「話せたらうれしい」
悠真は、それにちゃんと返せない。
ただ、小さく頷くだけだった。
そこで会話は、いったん尽きた。
四人とも、これ以上はもう同じ温度で話せないことだけを、なんとなくわかっていた。
帰り道、三人はあまり喋らなかった。
ブランは最初の十分だけ、
何か言おうとしてやめるを繰り返して、
やがて黙った。
ノワールは、歩きながら何度も頭の奥の違和感を確かめていた。
もう痛みはない。
けれど、さっき確かに何かへ触れられた感覚だけが残っている。
悠真は、いちばん静かだった。
まるで、まだ休憩所に置いてきた会話の続きを、
一人で聞き続けているみたいだった。
家へ着くと、
悠真は「先、部屋行く」とだけ言って、
靴も揃えないまま自室へ消えた。
ブランは、その背を少しだけ見送る。
「お兄ちゃん」
「……あとで」
ノワールが先に言う。
「今は」
「うん」
白銀は素直に頷く。
それ以上追わなかった。
ノワールは、水を入れようとしてキッチンへ向かう。
兄の部屋のドア。パンダを抱えた白い背中。まだ片づいていない食卓。
そういうものが視界の端に残って、離れなかった。
少し疲れている。
頭の奥も、まだ完全には晴れていない。
グラスを取って、
蛇口へ手を伸ばした、その時だった。
視界がぐらりと揺れる。
「……え」
言葉にするより先に、
床が遠くなる。
膝の力が抜ける。
何かがおかしい、と理解するより早く、
身体が崩れた。
グラスが落ちる。
甲高い音。
割れる音。
それに遅れて、
ブランの悲鳴が上がった。
「ノワール!」
リビングの空気が一瞬で変わる。
足音。
白銀の泣きそうな声。
遠く、廊下の奥から椅子を引く音。
悠真が部屋を飛び出してくる気配。
まだ、何も終わっていなかった。




