第37話 帰る場所ではない
帰ろう、と言ったのは圭介だった。
それはたしかに、あの場で必要な言葉だった。
父のアパートの薄暗い廊下で、誰もまともに立っていられなくなっていた時、あの言葉だけがどうにか全員を次の動きへ押した。
けれど夜が明けて、事情聴取と応急処置と確認の繰り返しがひとつずつ終わっていくにつれ、悠真は思い知る。
帰る、という言葉はもう、前と同じ意味では使えなかった。
*
神代家は、朝の光の中で見ると、夜よりひどかった。
扉の一部は歪み、床にはまだ細かい破片が残っている。壁紙はめくれ、食卓の脚は折れたまま、ソファの布地には裂け目が残っていた。昨日まで「生活の途中」だったはずのものが、全部そこで止まっている。
警察の現場確認はまだ続いていて、入れる時間も範囲も限られていた。
悠真たちは必要なものだけを持ち出すために、順番に中へ入る。
「着替えと、端末と、薬類。あと身分証」
九条は短く言った。
「思い出の選別はあとです。今は生活を立て直すためのものだけ」
その声はいつも通り冷静だった。
だが、その「あとです」という言い方だけが、妙に空虚だった。
あとで、という言葉が、何かを本当に救う保証にはならないと、九条自身がたぶん知っている。
ブランは研究所から借りた簡易支持具で右肩まわりを固定され、玄関の近くの椅子に座っていた。
右は、ない。
何度見ても、その事実だけが変わらない。
本人は泣いていなかった。
昨夜の泣き方を使い果たしたみたいに、少し青い顔で、ただ忙しなく動く皆を見ている。
ときどき左手だけで膝の布を握って、それから何でもない顔を作る。
ノワールはその少し後ろに立っていた。
武装は解除済みだが、肩から腕にかけての外装には応急処置の痕が残り、動くたびにわずかな駆動音が混じる。ハッキング痕の安定化処置をしたと牧瀬は言ったが、完全ではないのだろう。赤金の目は静かでも、その静けさの底にまだ夜の震えが残っている。
綺麗には戻っていない。
戻ったことにしてはいけない、と、誰もが知っていた。
悠真は自分の部屋へ入ったところで、足が止まった。
散らばった本。
倒れたスタンド。
引き出しの半分開いた机。
昨夜ここから持ち出された変身機があったはずの空白。
空白だけが、やけに目立つ。
自分が壊したものの始まりがそこにあって、昨夜さらに壊されたものの続きもそこにある。
ノワールを抱きしめ返された感触が、まだ腕に残っているのに、その腕で何を生んでしまったのかも消えない。
「兄さん」
呼ばれて振り向く。
ノワールは部屋の入口で止まっていた。
中へ入ってこない。入る資格があるのかもわからない、という立ち方だった。
「……何」
答えると、自分の声が思ったより平らで、悠真は少しだけ驚いた。
「時間が、ないそうです」
ノワールは言った。
「必要なものを優先してください」
言い方はいつものノワールに近い。
でも、その整えた口調の奥で、こちらの反応を待っている気配が痛いほどわかった。
「うん」
悠真は頷く。
それしかできなかった。
ノワールは少しだけ目を伏せ、それ以上は何も言わずに下がった。
*
仮住まいは、九条が夜のうちに手配していた。
研究所からも神代家からも遠すぎない、小さなウィークリーマンション。二部屋を押さえたと聞いて、圭介が「怖」と呟き、九条が「褒め言葉として受け取ります」と返したところまでは、ほとんど前と同じ会話だった。
でも、その軽口は最後まで続かなかった。
荷物を車へ積み込む頃には、牧瀬も来ていた。
寝ていない顔をしている。白衣ではなく、昨夜から着替える暇もなかったみたいなシャツ姿で、それでも手元の端末とケースだけはきちんと持っていた。
「白い晃一の処置データ、先に向こうへ送った」
九条に向けて言う。
「黒い晃一は移動後もログ監視を切るな。念のため隔離できる動線を一個確保しておいて」
その言い方は的確だった。
乱暴ではない。むしろ丁寧すぎるくらいだ。
だからこそ、悠真は胃のあたりが冷えた。
ブランではなく、白い晃一。
ノワールではなく、黒い晃一。
見えているのだ。
見えているのに、そこからなお晃一へ寄せて受け取る。
九条が一瞬だけ視線を止める。
「……了解です」
それだけ言った。
否定はしない。
今は動かすしかないからだ。
けれど、その短い間に引っかかりがあったことは、悠真にもわかった。
牧瀬はそのまま、研究資料の回収箱へ壊れた端末やメモを入れていく。
父アパートで押収された資料の写し、盤上パンタが残したログ、破片になった変身機のサンプル。
共同体の生活を守るため、というより、もう少し別の一点へ向かって集めている手つきだった。
「牧瀬さん」
悠真は思わず呼んだ。
牧瀬が振り向く。
「ん?」
「……ノワールとブランも、ここで暮らしてきたんだ」
何を言いたいのか自分でもうまくわからないまま、言葉だけが出た。
「それ、忘れないで」
牧瀬は少し黙った。
怒るでもなく、言い返すでもなく、ただ疲れた目で悠真を見る。
「忘れてないよ」
低い声だった。
「忘れてないから、厄介なんだろ」
その返答は、慰めにならなかった。
けれど嘘でもなかった。
*
全部を積み終わったあと、最後に悠真は玄関の前で振り返った。
神代家は、まだそこにある。
住所も、鍵も、壁も残っている。
なのにもう、昨日までと同じ意味でそこへ戻れる気がしない。
ブランが車の中から小さく言った。
「お兄ちゃん、いこ」
圭介が荷台の扉を押さえたまま、何も言わずに待っている。
九条は次の連絡を捌きながらも、悠真が動くのを待っていた。
ノワールだけが、車の脇に立ったまま、こちらを見ている。
帰る場所が壊れたのだと、悠真はその時やっと現実として理解した。
だから行くしかない。
前の意味ではもう使えない「帰る」を、壊れたまま別のものにしに行くしかない。
悠真は何も言わずに車へ乗り込む。
ドアが閉まる。
壊れた家は、朝の光の中でだんだん遠ざかっていった。




