第20話 画面の向こうから
文化祭の翌日は、家の中が少しだけ静かだった。
疲れが残っているのだろう。
朝は全体的に遅く、
食卓でもいつもより会話が少ない。
けれど沈んでいるわけではない。
空気の底に、まだ昨日の余熱がある。
大学の校舎。
スタンプラリー。
歌。
屋台の匂い。
ポケットへ入れた小さな景品。
そういうものが、神代家のリビングにも薄く残っている気がした。
「ねむい」
ブランがテーブルへ頬を乗せたまま言う。
「知ってる」
悠真が答える。
「昨日の帰りからずっと言ってる」
「でも、たのしかった」
「それも知ってる」
そのやり取りが、もう何度目かわからない。
ノワールは、白銀の横顔を見ながら、小さく息をついた。
文化祭の中で、確かに何かは変わった。
兄のことが好きだと、一度はっきり認めた。
その気持ちは、自分のものだと、歌の力ごと受け取った。
だから急に世界が楽になるわけではない。
それでも、昨日までとは違う場所へ立っている感覚はあった。
けれど同時に、
文化祭から戻ったあと、
神代家の中へ日常が戻ってくると、
別のものも見えるようになる。
兄の中にある、
どうしても触れきれない孤独だ。
夜になると、悠真とブランは自然にソファの前へ集まった。
今日は壁面スクリーンへ配信画面が映されている。
盤上パンタの雑談配信だった。
待機画面の簡単なBGMが流れているだけなのに、
ブランはもう少し嬉しそうだ。
「ぱんだ」
「うん」
悠真が答える。
「今日、ざつだん?」
「たぶん」
「うた?」
「今日はたぶん歌じゃない」
「でも、ぱんだ」
「それはそう」
その噛み合っているようで噛み合っていない会話が、文化祭の翌日には妙にちょうどよかった。
ノワールは、少し離れた場所に立っていた。
同じ画面を見ている。
でも、どうしても一歩入れない感じがある。
ブランは、好きなものを好きなまま兄と共有できる。
兄も、そういう白銀へ自然に笑える。
そこには明るい回路がある。
配信を見ている間だけでも、二人は同じ温度に立てる。
だが、
ノワールにはどうしても見えてしまう。
兄がこの配信に向けているものは、
楽しさだけではない。
もっと深い、
もっと暗い、
神代家の中にいても届かない核のようなものが、
そこへ向かって開いている。
「ノワール」
悠真が振り返る。
「見ないのか」
「見ています」
「そこから?」
「問題ありません」
そう返しながら、
自分でも少しおかしいと思う。
問題があるから、その距離にいるのだ。
悠真は一瞬だけ何か言いたそうにしたが、
結局それ以上は言わなかった。
言わないまま、
配信開始の音が鳴る。
画面の向こうの盤上パンタは、いつも通りだった。
明るい声。
気の抜ける第一声。
雑談配信らしい、肩の力の抜けた導入。
ブランはすぐに笑い、
悠真もそれに釣られるように少し笑った。
ノワールは、その横顔を見ていた。
兄は、ちゃんとここにいる。
ブランの隣にいる。
同じソファへ座って、
同じ画面を見て、
同じ言葉に少し笑っている。
なのに、そのどこか遠くに、
まだ自分では届かない部分がある。
文化祭で、兄のことを好きだと認めた。
その気持ちは自分のものだ。
それはもう、揺るがないところへ行きつつある。
けれど、好きだと認めることと、
相手の全部へ届くことは別なのだと、
この配信の前では嫌でもわかってしまう。
ブランがコメント欄を指さして笑う。
「みて」
「何」
「しろいの、いっぱい」
確かに、
画面の端の流れの速いコメントの中に、
白夜の端っこの名前も、
ぱんだの絵文字も、
似た常連の文体も混ざっていた。
悠真は、その流れを見て少しだけ目を細める。
その表情は柔らかい。
でも、柔らかいだけではない。
救われている人の顔だと、ノワールは思った。
救われるということは、
そこに届いているということだ。
届いているということは、
自分たちでも届かない場所がそこにはあるということだ。
その事実が、
今夜のノワールには少し痛かった。
「おにいちゃん、なんかうれしそう」
ブランが言う。
「そう?」
悠真は何でもないふうに返す。
「うん」
「まあ、好きな配信だからな」
その答えは正しい。
正しいが、足りない。
ノワールは何も言わなかった。
言えなかった。
自分がいま見ているものを言葉にしたら、
たぶん兄自身もまだ見ないふりをしている場所へ、
先に触れてしまう気がしたからだ。
翌日の夕方、
三人は近所の商業区画へ出ていた。
大きな買い物ではない。
ブランが昨日から「しおりを入れるものがほしい」と言い出し、
ノワールも文化祭で受け取った黒いキーホルダーを、むき出しのままではなく何かへつけたがっていた。
ついでに日用品も買う。
そのくらいの理由で、
悠真は二人を連れて外へ出た。
夕方の街は、文化祭とは違う種類の光でできている。
店のガラス。
自動ドア。
セールの看板。
流れてくる音楽。
大学よりは狭く、
でも知らない人が無数にいる感じは同じだった。
「これ」
ブランが雑貨店の前で立ち止まる。
「ちいさい、ふくろ」
「ポーチな」
悠真が言う。
「しおり入れるなら、それでもいいかもな」
「ノワールも?」
ノワールは、並んだ棚を見た。
「……そうですね」
「おそろい?」
その問いへ、ノワールは一瞬だけ言葉を失う。
「別におそろいじゃなくても」
悠真が言いかける。
「おそろいでも、いいです」
ノワールは先に答えた。
ブランがすぐ笑う。
「いい」
「はい」
文化祭のあとから、
そういう返事が前より少し自然になった。
悠真が、棚へ手を伸ばす。
その横顔は、いつも通りに見えた。
でも、ノワールにはまだわかる。
日常へ戻っても、
兄の中にある孤独は消えていない。
その時だった。
「――え」
すぐ後ろから聞こえた声に、
悠真が先に振り向いた。
知らない男だった。
背は高くない。
人混みに紛れていてもおかしくない服装。
なのに、聞いた瞬間、
悠真の顔から色が引く。
ノワールはその変化を見て、
次に声の主を見る。
知らない顔だ。
だが、知っている声だった。
ブランが一拍遅れて目を丸くする。
「……ぱんだ?」
男は、その呼びかけに、ほんの少しだけ困ったように笑った。
悠真は、
何も言えなかった。
それは恐怖というより、
信じていた画面の向こうが、急に現実の距離へ落ちてきた人間の顔だった。
会えた、という喜びがゼロではないことも、同時に自覚してしまう。その混ざり方が、悠真にはいちばんまずかった。
ブランが嬉しそうに一歩前へ出て、ノワールが反射でその袖を引く。
その小さな動きさえ、悠真には少し遅れて見えた。
まだ、頭が追いついていない。
その少しあと、
別の場所でスマホを見ていた圭介が、ふと眉を寄せた。
「……何だこれ」
文化祭の写真だった。
学内SNSの軽いまとめ。
九条紗英先輩が来ていた。
文化祭バンドがよかった。
その流れの中に、
昨日の悠真と、黒と白の二人が並んだ写真も混ざっている。
圭介は画面を見つめたまま、しばらく親指を止めた。
嫌なものを見つけた、という感覚だけが先にある。
でもその時点では、まだそれを誰にどう言えばいいのかがわからなかった。




