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第19話 文化祭のおわり

 文化祭の空は、午後の終わりへ向かって少しずつ色を変えていた。


 真昼の強い白さがやわらぎ、

 校舎の窓へ斜めに光が差し、

 模擬店の看板の色まで少しだけ柔らかく見える。

 人の多さはまだ変わらない。

 けれど、昼の喧騒とは違う疲れと満足が、空気の中へ混ざり始めていた。


「もう、ゆうがた」

 ブランが空を見上げて言う。

「そうだな」

 悠真が答える。

「でも、まだある」

「まだあるけど」

 圭介が笑う。

「お前、今日ほんとそればっかだな」

「だって、ある」

 白銀にとっては、今日の世界はずっとそういうものらしい。


 一行は少しだけ文化祭の中を歩いた。

 派手なイベントを追うわけではない。

 ただ、通りを抜けて、

 屋台を見て、

 気になったものを一つ二つ買って、

 その場その場で立ち止まる。

 文化祭の終わり方としては、たぶんそのくらいがちょうどよかった。


 最後に腰を下ろしたのは、体育館裏のベンチだった。


 少し開けた場所で、

 中庭ほど騒がしくはない。

 それでも遠くから、

 ステージの音や、笑い声や、マイク越しの案内が薄く届く。

 文化祭はまだ続いている。

 でも、自分たちの一日はそろそろ終わりへ寄っている。

 そんな場所だった。


 ブランは、チョコバナナを持ったまま満足そうに座っている。

 片手には白いキーホルダー。

 もう片手には甘いもの。

 機嫌が悪いわけがなかった。


「おいしい?」

 悠真が訊く。

「うん」

「それはよかった」

「でも、べたべた」

「そりゃそうだろ」

 白銀は真顔で頷く。

「でも、おいしい」

 その評価はぶれない。


 ノワールは、その隣で小さな紙袋を膝へ置いていた。

 中には、途中で買った焼き菓子と、

 ポケットへしまったままの黒いキーホルダーが入っている。

 さっきから何度かその存在を確かめるみたいに指先が触れていた。


「疲れましたか」

 九条が訊く。

「……少し」

 ノワールは正直に答えた。

「でも、思ったより平気です」

「そうですか」

「はい」

 その返事は、朝よりずっと自然だった。


 圭介は自販機で買ってきた飲み物を配っていた。


「はい、神代」

「さんきゅ」

「九条先輩」

「ありがとうございます」

「牧瀬さん」

「おう」

「……ブランには甘すぎるのしか残ってねえ」

「いい」

 ブランはすぐに受け取る。

「それでいい」

「お前、今日ほんと楽しそうだな」

 圭介が言うと、

 白銀は首を傾げた。

「だめ?」

「だめじゃねえよ」

「なら、いい」

 その返しに、圭介は少しだけ吹き出した。


 九条はペットボトルを受け取りながら、

 ふいに言う。

「今日はずいぶん歩きました」

「歩かされました」

 牧瀬が即座に返す。

「引率の人が優秀だったので」

 圭介が言う。

「まだ言うのか」

「だって事実じゃないですか」

「違う」

 もはや反射だった。


 ブランが、チョコバナナを持ったまま乗る。

「いんそつ」

「違う」

「ほごしゃ」

「違う」

「せんせい」

「違う」

 このやり取りも今日だけで何度目かわからない。


 悠真は少し離れた位置からその光景を見て、

 肩の力を抜くみたいに笑った。

 九条も、今度は隠さなかった。

 口元だけではなく、ちゃんと少し笑っている。

 圭介はそれに気づいて、一瞬だけ返事を忘れる。

「三崎」

「はい」

「飲まないのですか」

「飲みます」

 やっぱり少しだけ変だった。


 ノワールは、そのやり取りを聞きながら、

 今日一日をゆっくり思い返していた。


 朝、文化祭へ来た時、

 人の多さも、

 見られることも、

 兄との距離も、

 全部が少しずつぎこちなかった。


 でも今は、

 疲れてはいるけれど、

 あの時ほど息苦しくはない。


 兄のことが好きだと認めた。

 歌の中で、一度だけ、それを自分のものだと引き受けた。

 だから世界が急に簡単になるわけではない。

 この先もっと揺れることも、

 傷つくことも、

 きっとある。


 それでも、

 今日ここにいた自分だけは、

 少なくとも自分で選んでいた。

 そのことが、静かに胸へ残っている。


「ノワール」

 不意にブランが呼ぶ。

「何ですか」

「きょう、たのしかった?」

 あまりにもまっすぐな問いだった。

 ノワールは、少しだけ考える。

 考えてから、ちゃんと答える。


「……はい」

 短い。

 でも、ごまかしていない。

「楽しかったです」

 その言葉を自分で口にして、

 少しだけ驚く。

 だが、違和感はなかった。


「よかった」

 ブランはすぐ頷いた。

「ノワール、へんなかお、へった」

「そうですか」

「うん」

 白銀はまたチョコバナナを齧る。

 その雑さが、少しだけありがたかった。


 悠真は、その会話を聞いていた。


 聞いていながら、

 あえて何も言わない。

 言わないまま、ペットボトルのキャップを少し指で弄ぶ。

 言いたいことはたぶん、ある。

 けれど今ここで言葉にすると、

 逆に壊してしまう気もする。

 そんなふうに迷っているのが見える。


 ノワールは、その横顔を見る。

 もう前みたいに無邪気には寄れない。

 でも、離れたいわけでもない。

 その中間に、今の自分の立つ場所があるのだと、前よりは思える。


「兄さん」

「ん」

「……今日は」

 そこまで言って、少しだけ息を整える。

「連れてきてくれて、ありがとうございます」

 悠真は、少しだけ目を見開いた。

「何だよ急に」

「言っておこうと思っただけです」

「そっか」

 それだけだった。

 それだけなのに、

 ノワールの胸の奥は少しだけ熱くなる。


 悠真は少し間を置いてから、

「俺も、来れてよかった」

 と返した。

 飾りのない言い方だった。

 でも、その素朴さのほうが、今日はよかった。


 ベンチの反対側では、

 圭介が景品のパンフレットを見ていた。


「結局これ何だったんだろうな」

「スタンプラリーの景品です」

 九条が言う。

「いや、そうじゃなくて」

「何ですか」

「何でよりによって黒白キーホルダーだったんだろうって」

「文化祭の神様の気まぐれでしょう」

「その神様、雑ですね」

「そうですね」

 九条は淡々と頷いた。

 頷きながら、

 ふいに圭介の手元を見た。

「あなた、今日ちゃんと付き合いましたね」

「何に」

「全部です」

 その答えが曖昧すぎて、

 圭介は少しだけ笑ってしまう。

「それ褒めてます?」

「半分は」

「半分か」

「残り半分は観察です」

「こわ」

 でも、声は嫌そうではなかった。


 牧瀬は、そのやり取りを聞きながら空を見ていた。

 今日の彼はだいぶ巻き込まれた。

 不本意だっただろう。

 それでも最後まで残ったし、

 結局は誰よりもちゃんと全員を見ていた。

 その事実を誰もわざわざ口にはしない。

 けれど、たぶんみんな少しはわかっている。


「帰るか」

 牧瀬が言う。

「さすがに」

「賛成」

 圭介がすぐ乗る。

「足いてえ」

「歳ですか」

 九条が言う。

「お前それ今言う?」

「事実確認です」

「今日ちょいちょいひどいな」

「平常運転です」

 そこまで含めて、もうだいぶ共同体の会話になっていた。


 大学を出る頃には、空はもう夕方の終わりへ差しかかっていた。


 正門の外へ出ると、

 中の音が少し遠くなる。

 それだけで、

 さっきまでいた祝祭が急に別の世界みたいに思えた。


 ブランは、門を出る前に一度だけ振り返った。

「おわり?」

「今日はな」

 悠真が言う。

「また来る?」

「来年も文化祭があれば」

「ある」

 圭介が言う。

「大学だし」

「なら、またくる」

 その即決が白銀らしい。


 ノワールは、その横で校舎を見上げた。

 兄の大学。

 圭介の場所。

 九条が九条紗英先輩である世界。

 牧瀬まで巻き込まれて、少しだけ笑っていた日。

 今日見たものは、思っていたよりずっと多かった。


 そしてその全部の中に、

 自分もちゃんといた。


 自分が自分として、

 今日一日を歩いて、

 兄のことを好きだと認めて、

 ブランの隣にいて、

 文化祭を楽しかったと言えた。

 その事実が、静かに残っている。


 帰り道、

 ブランはだんだん静かになっていった。


「ねむい」

 唐突だった。

「だろうな」

 悠真が言う。

「今日はしゃぎすぎ」

「でも、たのしかった」

「知ってる」

「だいせいかい」

「そこまで一日で何回言った」

 返事のかわりに、ブランは少しだけ笑って、

 そのまま歩幅を緩める。


 ノワールは自然にその隣へついた。

 白銀がふらつかないように。

 歩調を合わせる。

 その動きは、もうかなり自然だった。


 少し遅れて、悠真も隣へ来る。

 今度はノワールのほうが、

 前みたいに一拍引いたりしなかった。

 ただ、同じ速度で歩く。

 それだけで十分だった。


「ノワール」

「何ですか」

「しおり」

 悠真が言う。

「ちゃんと持ってる?」

 問いの意味が一瞬わからなかった。

 それから、今日作ったもののことだと気づく。

「持っています」

「そっか」

「……はい」

 その会話が、妙に嬉しかった。


 文化祭は終わった。

 少なくとも、自分たちの中では。


 けれど、祝祭というものは、

 その場から出ても少しだけ残る。

 ポケットの中の景品。

 紙袋の焼き菓子。

 靴の裏に残った土。

 喉に残る歌の余韻。

 そして、

 今日一日を確かに歩いたという感覚。


 ノワールは、ポケットの中の黒いキーホルダーへそっと触れる。

 小さい。

 雑な文化祭の景品だ。

 でも、今日の記憶の形としては、妙にちょうどよかった。


 白いのがいて、

 黒いのがいて、

 一本の金具でつながっている。


 雑で、

 不器用で、

 でも、今の自分たちには似合っている気がした。


 その頃、大学のどこかでは、

 文化祭の写真や感想がまだゆるく流れていた。

 知らないアカウントのタイムラインに、黒と白の獣頭が並んだ一枚がもう保存されている。


 けれど、そのことを、

 今はまだ誰も知らない。


 共同体にとって文化祭は、

 まだただ楽しくて、

 少し疲れて、

 いろいろあって、

 それでも来てよかったと思える一日として、

 静かに胸へ残っていた。


 それで、今は十分だった。

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― 新着の感想 ―
このSNSから場所特定して接触を図るのかな盤上パンタさんは、でも実際に会ったらブランに「パンダじゃない」とか言われそうだな
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