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第18話 もう一度、大正解

 中庭へ戻ると、さっきまでのざわめきとは少し違う熱が集まっていた。


 簡易ステージの前へ、学生たちがゆるく円を描いて立っている。

 機材はもうほとんど整っていて、

 ドラムの位置も、

 ギターの立てかけ方も、

 ボーカルマイクの高さも、

 ほんの数分前までの「準備」から、

 これから何かが始まるための配置へ変わっていた。


「うた」

 ブランが、すぐにそちらを指した。

「やる」

「たぶんな」

 悠真が言う。

「始まりそう」

 白銀はその一言だけで、もうだいぶ嬉しそうだった。

 悠真も、そんな白銀を自分の大学の中へ連れてきていることに、薄く高揚していた。見せたい。見せてしまっている。その両方が、今日はうまく分かれない。


 中庭の空気は、文化祭の中でもさらに雑多だ。

 呼び込みの声。

 遠くの模擬店から流れてくる揚げ物の匂い。

 誰かの笑い声。

 スピーカーのハウリング。

 その全部が混ざって、落ち着かない。

 でも、ブランはそれが楽しいらしい。

 尾が、さっきからずっと機嫌よく揺れている。


 ノワールは、そんなブランの横顔を見る。

 無防備だ。

 嬉しそうだ。

 そして、そのすぐ隣にいる悠真も、

 どこか少し肩の力を抜いていた。


 兄は、こういう顔もする。

 家の中で見る顔とも違う。

 配信を見ている夜の、知らない顔とも違う。

 ただ、好きな歌がこれから始まることを、

 ブランと一緒に普通に楽しみにしている顔。


 その二人の並びを見た瞬間、

 ノワールの胸の奥が、理由もなく強く打たれた。

 兄とブランだけのものに見えた幸福へ、自分も入りたいと、ほとんど反射で思ってしまった。


「こっち」

 圭介が、人の少ない端を見つけて手招きした。

「真ん前はやめとこう」

「賢明です」

 九条が即答する。

 悠真が軽く頷く。

 ブランは早く音の近くへ行きたそうだったが、

 今日はちゃんと待った。

 そういうところも、少しずつ変わっている。


「ノワール」

 悠真が振り向く。

「ん?」

 今度は返事が一拍遅れなかった。

「ここでいいか」

「……はい」

 短く答える。

 それだけなのに、

 さっきより少し息がしやすかった。


 ステージの上へ、学生バンドが上がる。


 同じ大学の人間なのだろう。

 派手ではない。

 でも、文化祭の熱に少し浮かされた顔をしている。

 ボーカルの女子学生が、マイクの前で笑った。


「次の曲、たぶん知ってる人、多いと思います!」

 客席から小さな歓声が上がる。

「うた」

 ブランがまた小さく言う。

 今度は、期待がはっきり混ざっていた。


「じゃあいきます」

 ボーカルが言う。

「盤上パンタさんの、『はみだし大正解!』」


 その瞬間、ブランの顔がぱっと明るくなる。

 その変化は、見ていて気持ちがいいくらいだった。

 家の中で何度か流れたことのある歌だ。夜のリビングや、つけっぱなしの端末の向こうで、生活音に混じっていたはずの曲が、今は外の祝祭の真ん中で鳴ろうとしている。


「これ」

 白銀が振り返る。

「これ」

「知ってるな」

 悠真が少し笑う。

「すき」

「うん」

「だいせいかい」

「そこ好きだな」

「そこ、すき」

 白銀は本気だった。

「お兄ちゃんが好きだからじゃなくて?」

 圭介が茶化すと、ブランは首を振る。

「ちがう。ぼくが好き」

 その言い方だけは、妙に強かった。


 ノワールは、そのやり取りを見ていた。

 歌が始まる前から、

 もう二人は嬉しそうだった。

 聞き覚えのあるサビの入りを、身体のほうが先に待ってしまっている。

 まだ一音も鳴っていないのに、

 知っている歌が来る、

 好きな歌が来る、

 それだけで、こんな顔になるのかと少し驚く。


 その時、ふいに思う。


 自分は。

 自分は、いまこの歌を待っているのだろうか。


 問いが浮かんだ瞬間、

 答えはもう出ていた。

 待っている。

 待ってしまっている。

 好きだと思っている。

 その事実のほうが先に胸へ来て、

 ノワールは一瞬だけ息を止めた。


 イントロが始まる。


 軽いギター。

 跳ねるドラム。

 明るいベース。

 原曲そのままではない。

 学生バンドらしく少し荒い。

 でも、その荒さが逆に、生の熱として立ち上がってくる。


 ブランが、すぐに身体を揺らし始める。

 白銀はほんとうに、

 好きなものが鳴るとそのまま嬉しくなってしまう。

 隠さない。

 抑えない。

 ただ、そうなる。


 悠真も少し笑っていた。

 ブランのほうを見て、

 それからステージを見て、

 知っている曲を知っている人の顔で、

 ちゃんと楽しそうにしている。


 ノワールは、その二人を見ていた。

 ただ見ていた。

 なのに、胸の奥が先にいっぱいになっていく。


 どうしてこんなに痛いのか、

 どうしてこんなに嬉しいのか、

 自分でもまだ整理できない。


 でも、

 いま目の前にあるのは、

 兄と片割れが、

 同じ歌を同じように好きで、

 それを隠さずにいられる光景だった。


 それだけで、

 ノワールの中の何かが、

 もう決壊しかけていた。


 一番が始まる。


 へんなみみとか ながいしっぽ

 いらないとかって だれ基準?

 妙なかたちも だいじなサイン

 すきって気持ちは なおらない


 ノワールは、その歌詞を頭の中で知っている。

 知っているからこそ、

 今日はそれが文字ではなく、そのまま身体へ入ってくる。


 すきって気持ちは なおらない。


 その一行が、

 今日は理屈より先に胸へ落ちた。


 なおらない。

 直せない。

 なくせない。

 由来がどうであれ、

 後から疑っても、

 怖がっても、

 いま胸の中にあるものまで消えてくれない。


 それは恐ろしいはずなのに、

 どうしてか今日は、

 少し救いに近く聞こえた。


 サビが来る。


 はみだし! はみだし! 大正解!

 きみは最初から 大正解!

 へんとか だめとか 知らないで

 そのままのきみで 最高だ!


 中庭が少し沸く。

 知っている学生が多いのだろう。

 サビだけ一緒に口ずさむ声が、あちこちから混ざる。


 ブランも、今度は我慢しなかった。

 小さな声で、

「はみだし、はみだし」

 と合わせる。

 それから、

「だいせいかい」

 のところだけ、少し強く歌った。


 その横で、悠真が笑う。

「好きだな、お前」

「すき」

 白銀はすぐ返した。

 今日のそれは、兄への追従ではなく、自分で選んだ声だった。


 ノワールは、そのまっすぐさを見ていた。

 見ていて、胸の奥がひどく熱くなった。


 好きだと、言っていいのか。

 好きだと、思ってしまっていいのか。

 兄へのこの気持ちが、

 誰かの設計や、

 欲望の残響や、

 壊れた父の続きだったとしても。


 サビの歌詞は、容赦なくそこへ入ってくる。


 そのままのきみで 最高だ。


 その言葉が、

 今日はまるで、

 逃げるな、と言ってくるみたいだった。


 ノワールは、ふいに圭介の横顔を見る。


 圭介も、この歌をちゃんと聞いていた。

 歌うわけではない。

 でも、耳を向けている。

 そのすぐ隣には九条がいる。


 圭介の気持ちは、まっすぐ一色ではない。

 照れもある。

 守りたいもある。

 近づきたいもある。

 憧れもある。

 帰属したいもあるのかもしれない。

 きっと混ざっている。

 きれいなだけではない。

 でも、その全部が混ざってなお、

 九条を見る目だけは、本物だった。


 好きは、一色でなくてもいいのかもしれない。


 そう思った瞬間、

 今度はブランの声が入ってくる。


「ノワール」

「……何ですか」

「うたわないの?」

 あまりにも無防備だった。


 歌っている。

 好きだと出している。

 それでいいと思っている。

 この片割れは、最初から最後までずっとそうだ。


 好きなら、好きでいい。

 すきじゃないなら、そんな顔しない。

 その言葉が、これまで何度もノワールの中に残っていた。


 そして今、

 圭介の混ざった想いと、

 ブランの真っ直ぐさが、

 ノワールの中で一つの意味へ変わっていく。


 由来が何であれ、

 いま揺れているのは、自分の感情だ。


 二番へ入る。


 なにかになるって 決めたなら

 もどれないって こともあるけど

 もどれないなら その先で

 いちばんすきな ぼくになれ


 その一節を聞いた瞬間、

 ノワールの中で何かが切れた。


 もどれない。

 晃一には戻れない。

 そのことは、もうとっくに知っている。

 そして今の自分が、

 兄のことを好きになってしまっていることも、

 もう気づいている。


 その気持ちがどこから来たかは、

 まだ怖い。

 まだ疑ってしまう。

 まだ、全部を受け入れたわけではない。


 それでも。


 それでも、

 いまこの瞬間、

 兄とブランが楽しそうにこの歌を聞いていて、

 自分もそれを好きだと思ってしまって、

 胸がいっぱいになって、

 どうしようもなく救われているのは、

 紛れもなく自分自身だった。


 その認識が、

 もう言い逃れできないところまで来た。


 次のサビで、

 ノワールはとうとう笑ってしまった。


 最初は、自分でもわからなかった。

 喉の奥が詰まって、

 息がうまくできなくなって、

 そのまま少し目頭が熱くなる。


 泣くのかと思った。

 でも先にこぼれたのは、

 小さな笑いだった。


 可笑しいくらいに、

 今さらだった。

 好きな歌を好きだと思っただけで、

 こんなふうに揺さぶられるなんて。

 兄のことが好きだと認めるだけで、

 こんなにも苦しくて、

 こんなにも楽になるなんて。


「ノワール?」

 ブランが不思議そうに顔を覗き込む。

 ノワールは、少し息を整えて、

 それから、今度はちゃんと声を出した。


「……はみだし」

 小さい。

 でも、聞こえる。

「はみだし」

 二回目は、ちゃんと続く。


 きみのかたちは きみだけの

 どこにもない星の 設計図!


 設計図。

 その言葉は、やはり痛い。

 でも、いまはそれだけではなかった。


 たとえ設計があったとしても。

 たとえ始まりが歪んでいたとしても。

 いまここで、

 この歌を好きだと感じて、

 兄のことが好きだと苦しくなるこの心まで、

 誰かのものだとは思いたくなかった。


 それはもう、

 自分の感情だ。


 そう認めた瞬間、

 今度こそ目の奥が熱くなった。


 演奏の終盤へ入る。


 ブランは笑っている。

 楽しそうに歌っている。

 圭介は小さく息をつきながら、それでもサビの終わりだけ口ずさんでいる。

 九条は歌わない。

 でも、止めない。

 ちゃんと聞いている。

 そして悠真は――。


 悠真も、途中から小さく歌っていた。


 その声を聞いた瞬間、

 その声を聞いた瞬間、ノワールの中で何かが決まった。


 好きだ。


 兄のことが、好きだ。


 その気持ちの根に何があるのか、

 まだ全部は言えない。

 父の残響かもしれない。

 兄の欲望の設計かもしれない。

 でも、

 いまこの瞬間、

 兄の声に胸を打たれて、

 嬉しくて、

 苦しくて、

 このままでいたいと願ってしまうのは、

 まぎれもなく自分自身だった。


 だから、この気持ちは、

 もう自分のものだ。


 その結論だけが、サビのまぶしさの中へ残った。


 曲が終わる。

 歓声と拍手が中庭へ広がる。

 ブランは満足そうに息をついた。

「よかった」

「そうだな」

 悠真が言う。

「だいせいかい」

「そこ好きだな」

「すき」

 やはり即答だった。


 ノワールは、しばらく言葉を失っていた。

 でも、さっきまでとは違う。

 今は、失っているのではなく、

 もう隠しきれないものを抱えたまま立っている。


「ノワール」

 悠真が振り向く。

「何ですか」

 今度の返事は、前よりずっと自然だった。

「……歌ってたな」

 悠真が言う。

 ノワールは一瞬だけ視線を揺らして、

 それから、逃げずに答えた。


「はい」

 短い。

 でも、それだけで十分だった。


 悠真は少し笑う。

 その笑い方を見て、

 ノワールもようやく、

 涙の名残みたいな熱を残したまま、

 ほんの少し、口元がほどけた。


 中庭の喧騒は、まだ続いている。


 写真を撮る手も、

 無遠慮な視線も、

 消えたわけではない。

 問題は、何も解決していない。

 外の世界は、たぶんこの先もっと容赦なくなる。


 それでも。


 文化祭の真ん中で、

 ノワールは一度だけ、

 好きだと認めた。


 由来が何であれ、

 最初がどれほど歪んでいようと、

 今ここで兄のことを好きだと思っているのは、

 自分だ。


 その気持ちだけは、もう偽物だったことにはしたくない。


 今日の結論は、たぶんまだ仮のものだ。

 でも仮でいい。

 この先どれだけ揺れても、

 一度自分でそう認めた事実だけは、

 ノワールの中へ残り続ける。


 ブランがまた言う。

「つぎ」

「何ですか」

「まだ、たのしい」

 ノワールは、今度は少し早く頷いた。

「……そうですね」

 その返事だけは、もう迷いが少なかった。


 文化祭はまだ終わらない。

 けれど、ノワールの中では何かがもう戻らなかった。


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― 新着の感想 ―
由来や切っ掛けかなんであれ、悩み考え抜いて改めて好きだと自覚するのは良いな。 何より人が人を好きになるという事はとても尊い事だから尚良い。 後はみだし大正解!の歌詞をフルで知りたいですね、どんな曲調…
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