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第16話 文化祭

 文化祭当日、大学は朝から人の熱を抱えていた。


 呼び込みの声が遠くから重なって聞こえる。

 模擬店の匂いが風に乗る。

 いつものキャンパスのはずなのに、今日だけは別の場所みたいだった。


 ブランは正門をくぐった瞬間から目が忙しい。

「ある」

「何が」

「ぜんぶ」

 それで通じてしまうくらい、今日は本当にいろいろあった。


 悠真と圭介には、大学の中の顔がある。

 悠真は静かだが、浮いてはいない。必要な挨拶は返し、最低限の輪郭をここで持っている。

 圭介はその逆で、顔見知りへ軽く手を上げ、何人かにすぐ声をかけられる。


 九条が現れた瞬間、空気はほんの少しだけ揺れた。

「九条先輩?」

「戻ってきたんですか」

 そういう反応が、何度か重なる。

 本人は露骨に面倒そうだったが、視線までは止められない。


 圭介は、そのたびに落ち着かない顔をした。

 外の世界の基準でも、この人はちゃんと目立つのだと、あらためて見せつけられる。


 一方で、ノワールとブランにも、軽い視線が集まり始めていた。

 可愛い。珍しい。写真いいですか。

 祝祭の熱に紛れているぶん、余計に厄介だった。

 ノワールは最初からそれを数えている。

 何人が立ち止まったか。何台がこちらへ向いたか。白銀がどこまで無邪気でいられるか。


 実際、すぐに一人の女子学生が、おそるおそるスマホを胸の前で持ち上げた。

「すみません、写真……」

 九条が先に一歩出る。

「ご遠慮ください」

 言い方はきれいだった。

 だが、そのあいだにも別の方向でレンズが一つこちらを向く。

 九条の声は届いている。届いているのに、止まり切らない。

 そのことに、九条は一瞬だけ言葉を失った。

 すぐに持ち直したが、持ち直したことで、逆に間に合わなかったのが見えた。


 ブランはその女子学生と九条を見比べてから、自分で首を振った。

「いまは、いや」

 短い拒絶だった。

 九条がそちらを見る。

 白銀はもう一度だけ、今度ははっきり言った。

「しゃしんより、ぶんかさい見る」

 それは兄の顔色をうかがった返事ではなく、今日の自分の気分だった。

 少し歩き出してから、ブランは気持ちを切り替えるみたいに小さく口ずさむ。

「はみだし、はみだし」

「だいせいかい」

 ノワールはその節回しを聞いた瞬間だけ、肩の力の入り方を変えた。


     *


「少し休みませんか」

 ノワールが言ったのは、人混みを一巡りしたあとだった。

 ブランはまだ動けそうな顔をしていたが、兄の大学を見に来た喜びの奥に、視線の細さが混じり始めていることをノワールは見逃さない。


 そうして五人は、工学棟の端にある空き教室へ入った。


 文化祭の日だけ解放される休憩所らしく、

 普段は無機質な机と椅子が、今日は少し雑に並べ替えられている。

 壁には手書きの案内。

 窓の外からは、中庭のざわめきがまだ届く。

 外の喧騒を一枚隔てただけで、ずいぶん静かだった。


「ふう」

 ブランが、買ってもらったジュースを両手で持ったまま椅子へ沈む。

「つかれた?」

 悠真が訊く。

「たのしい」

「質問の答えになってないな」

「でも、たのしい」

 それはたぶん、本音だった。


 ノワールは、座る前に一度だけ窓の外を見た。

 人の流れ。

 階段。

 屋台の列。

 そして、外へ出る扉の位置。

 まだ全部は警戒の中にある。


「お前」

 圭介が笑う。

「ほんとに全部見てるな」

「見るべきものは多いです」

「文化祭でそのテンションなの、お前くらいだよ」

「そうですか」

「そうだよ」

 圭介は即答した。


 ノワールはそれに何も返さなかった。

 ただ、椅子に座る時だけ、悠真から一つ分離れた位置を選ぶ。

 それが狙った距離なのか、無意識なのか、たぶん本人にもよくわかっていない。


 九条は、教室へ入ってきた時からすでに二人に声をかけられていた。


「九条先輩」

「お久しぶりです」

「研究の発表、見てもいいですか」

「あとで伺います」

 短い返事。

 丁寧だが、長くはない。

 距離を崩さないまま、拒絶もしない。

 その受け方が九条らしかった。


 後輩らしい女子学生が、少しためらってから続ける。

「あの、ミスコン実行の人たちが、今年だけでもってすごく言ってて」

「出ません」

 九条は食い気味に切った。

「ですよね」

「ええ」

「ですよね……」

 その会話だけで、周囲にいた学生が少し笑う。

 でも、半分くらいは本気で惜しんでいる顔でもあった。

 九条はそれを受け流せる。

 ただ、その視線のいくつかが後ろの双子へ滑った時だけ、ほんのわずかに眉が寄った。

 止めたいのに、止めきれない顔だった。


 圭介は、その様子を見て露骨に落ち着かない。

 見ないようにしながら、見ている。

 口は出さない。

 でも完全に他人事にもできていない。

 そのぎこちなさは、ノワールから見ると少し不思議だった。


「三崎」

 九条がふいに呼ぶ。

「は、はい」

 圭介の返事だけ一段大きい。

「そんなに緊張しなくても、私は出ません」

「いや、俺べつにその話で緊張してるわけじゃ」

「そうですか」

「そうです」

 間違いなく半分くらいはその話で緊張していた。

 圭介がそれを否定しきれない顔をしているのが、横から見ていてわかる。


 ブランは、そんな圭介と九条を交互に見た。

「けいすけ」

「何」

「へん」

「お前まで言うのか」

「でも、わかる」

「何が」

「なんか、そわそわ」

 白銀は正確だった。

 圭介は思わず頭を抱えた。

「見んなよ、そんなに」

「見える」

「見えるか……」

 その困り方が、もうだいぶ本物だった。


 ノワールは、そのやり取りを黙って見ていた。


 圭介は、九条を見ている。

 でも、それはブランみたいな一直線さではない。

 手を引くわけでもない。

 近づきたいのに、近づきすぎてはいけない気もしている。

 守りたいようにも見えるし、

 ただ見ていたいだけにも見える。

 憧れなのか、

 好意なのか、

 帰属したさなのか、

 ノワールには一度では分類しきれなかった。


「……混ざっている」

 小さくそう漏らす。

「何が?」

 すぐ隣から、ブランが訊いた。

 ノワールは少し肩を揺らす。

「いえ」

「けいすけ?」

「……はい」

「すきなのに?」

 あまりにもまっすぐで、

 ノワールは返事に詰まる。


「そういうものではないのかもしれません」

「そうかな」

 ブランは首を傾げる。

「すきなら、すきだとおもう」

「お前はそうだろうな」

 圭介が遠くから疲れた声を返す。

 だが白銀はまったく気にしない。

「うん」

 と、ただ頷くだけだった。


 ノワールは、ブランの横顔を見る。

 この片割れは、好きなものを好きだと言える。

 楽しいものを楽しいと言える。

 そのまっすぐさが羨ましいのか、

 眩しいのか、

 まだ自分ではよくわからない。


     *


 休憩を終えて、次に入ったのは文芸サークルの展示だった。


 静かな場所だった。

 手作りの冊子。

 短い小説。

 詩。

 壁に貼られた一ページの掌編。

 文化祭の喧騒の中では、むしろそこだけ空気が遅い。


「なんか、しずか」

 ブランが小声で言う。

「静かな展示もあるんだよ」

 悠真が答える。

「だいがくって、へん」

「まあ、それはそう」

 悠真は少し笑った。


 ノワールは、壁に貼られた短い詩の前で足を止めた。


 ――好きは、理由があとからついてくる。


 ただ、それだけの一文だった。

 誰が書いたのかも知らない。

 でも、その言葉が目に残る。


「兄さん」

 ノワールが、不意に呼ぶ。

「ん」

 悠真が振り向く。

 呼んだあとで、自分でも少し驚いた。

 確認でも、報告でもなかったからだ。


「……いえ」

 だが、結局それ以上は続けられない。

「何だよ」

「呼んだだけです」

「何それ」

 悠真は少し困ったように笑う。

 その笑い方が、痛いほど見慣れている。


 ノワールは、その顔からすぐに目を逸らした。

 見慣れている。

 好きでいる。

 怖い。

 近づきたい。

 離れたいわけではない。

 それらが全部一度にある。

 その感情の混ざり方は、さっき見た圭介の顔に少し似ていた。


 展示を出る頃、ブランがふいにノワールの手首を取った。


「行く」

「どこへ」

「つぎ」

「だから、どこへ」

「みたいの」

 理屈のない牽引だった。

 でも、その引き方は前より少し変わった気がする。

 昔のブランなら、ただ自分が行きたい方向へ引っ張った。

 今は、ノワールがついてきているかを途中でちゃんと振り返る。


 そのことに気づいて、ノワールは一瞬だけ立ち止まりかける。

「どうしました」

 九条が訊く。

「……いえ」

 ノワールは白銀の手を見る。

 細くて、あたたかい。

 この片割れは、置いていかない。

 そう思うと、少し息がしやすくなる。


「ノワール」

 ブランが振り返る。

「ん?」

「いる?」

「います」

「よかった」

 その一言に、ノワールは返事が遅れた。

 よかった。

 そう言われただけで、胸の奥が少しほどける。


 次に見たのは、写真部の展示だった。


 動物の写真。

 校内の風景。

 夕焼け。

 笑っている人たち。

 文化祭らしい写真も多い。

 ブランは単純に楽しそうだったが、ノワールは別のところに引っかかった。


「切り取られています」

「写真だからな」

 悠真が言う。

「はい」

 ノワールは頷く。

「でも、切り取られると、その人の全部ではなくなる」

「……まあ、そういうものだろ」

「わかっています」

 ノワールはそう言って、少し目を伏せる。

 今日、自分たちへ向けられていた視線のいくつかも、きっとこうして切り取られるのだろう。

 かわいい。

 珍しい。

 映える。

 そういう言葉に変えられてしまう。


 牧瀬が、その横で低く言った。

「だから嫌なんだよ」

 珍しく、説明のない本音だった。

「何が」

 悠真が訊く。

「こういうの」

 牧瀬は短く答える。

「晃一が何なのかも知らねえやつが、勝手に“いい絵”にする」

 その言葉に、ノワールは少し目を上げる。

 晃一として呼ばれている。

 それを喜べるわけではない。

 でも、その怒りの向きにだけは、少し救われる。


 外へ出ると、中庭のざわめきがまた強くなった。


 ステージのほうでは、次の企画の準備が始まっている。

 まだ演奏ではない。

 機材の搬入と、リハーサルの断片だけが漏れている。

 ブランは、音がするたび嬉しそうにそちらを見る。

 兄の隣だからではない。この騒がしさそのものに、もう心を引かれている。


 圭介は九条と並んで歩いていた。

 隣にいること自体は自然なのに、

 ときどき急に会話のテンポが崩れる。

 九条が何か言う。

 圭介が一拍遅れて返す。

 また平静を装う。

 その繰り返しだった。


「……変ですね」

 ノワールが小さく言う。

「何が」

 ブランが訊く。

「圭介です」

「へん」

 ブランはすぐ頷く。

「でも、やさしい」

「はい」

「くじょー、みてる」

「そうですね」

「すきだから?」

 またそれだった。

 ノワールは少し黙る。

「たぶん」

「たぶんばっかり」

「あなたほど単純ではないので」

「でも、すきなんでしょ」

 ブランは当然みたいに言う。

「ちがう?」

 ノワールは答えなかった。

 答えないことが、そのまま自分へ返ってくる。


 圭介は、混ざっている。

 守りたいもある。

 近づきたいもある。

 見ていたいもある。

 おそらく、帰属したいもある。

 でも、そのどれが混ざっていても、

 九条を見てしまう気持ちそのものは、嘘ではないのだろう。


 ならば、自分はどうなのか。


 兄への気持ちの由来が、

 設計なのか、

 刷り込みなのか、

 兄の欲望の残響なのか、

 そういう疑いを捨てきれなくても、

 今、兄さんを見てしまう自分まで嘘になるのか。


 そこまでは、まだ決められない。

 けれど、胸の中の問いだけは、さっきまでと少し形を変えていた。


 休憩用のベンチへ戻る途中、

 ブランが急に立ち止まった。


「ノワール」

「何ですか」

「むずかしいかお、してる」

 ノワールは、一瞬だけ言葉を失う。

「そう見えますか」

「うん」

「……そうかもしれません」

「なんで?」

「考えているからです」

「すきなこと?」

 また、まっすぐだった。

 逃げ場がないくらいに。


 ノワールは、少し息を飲む。

「……たぶん」

「なら、いい」

 ブランはあっさり言った。

「いいんですか」

「すきなら、いい」

「そんなに簡単ではありません」

「でも、すきじゃないなら、そんなかおしない」

 白銀は真顔だった。

 冗談ではない。

 ただ思ったことを言っているだけだ。


 ノワールは返事ができない。

 でも、その言葉は確かに残った。


 好きじゃないなら、そんな顔しない。


 その少しあと、

 悠真が何気なく後ろを振り向いた。


「ノワール」

「はい」

 今度は、返事が少し早い。

「次、どこ見たい」

「……どこでも」

「それは答えになってない」

 悠真が笑う。

「兄さんが見たい場所で」

 そう言ってから、自分で少し驚いた。

 前なら、もっと役割めいた言い方になっていたかもしれない。

 でも今のは、少し違った。


「俺が?」

「はい」

「じゃあ、次は中庭戻るか」

「わかりました」

 その会話は短い。

 短いけれど、ノワールの中では少し意味が違っていた。


 兄さんが見たい場所でいい。

 それは命令ではなく、

 今の自分がそうしたいと思ったから出た言葉だった気がする。


 まだ断定はできない。

 まだ怖い。

 まだ由来を疑ってしまう。

 でも、

 圭介の混ざった想いも、

 ブランのまっすぐさも、

 目の前で確かに“本物”として動いていた。


 ならば自分の感情も、

 少なくとも今ここで動いている分は、

 簡単に偽物とは言い切れないのかもしれない。


 文化祭の喧騒はまだ続いている。

 でもノワールの中では、

 ほんの少し、

 次の歌を聞く準備のようなものが整い始めていた。


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