第3話:張力と肉の楔
ギチリ。
目の前で、誰も触れていない内側のドアノブが、音を立てて下へ向かって沈み込んだ。
鳴海恭平は、その場に凍りついた。
ヘルメットの下で、冷たい汗がこめかみを伝う。ライトの光が、沈み込んだまま微動だにしない真鍮製のドアノブを、残酷なほど鮮明に照らし出している。
オカルト掲示板の噂? 怨念?
そんな安っぽい言葉では説明がつかない、圧倒的な物理的質量が、今、そのドアノブにかかっている。それは、まるで『目に見えない何十キロという肉の塊』が、そこにぶら下がったかのような、確かな重力の表現だった。
「……先輩? 鳴海先輩? どうしたんですか、急に黙り込んで」
インカムから遠野の少し不安げな声が聞こえたが、恭平は答えることができなかった。喉が引き攣れ、呼吸を忘れたように酸素を求めて喘ぐ。
部屋の温度が、急激に下がったのを感じた。換気システムが死んでいるはずなのに、どこからか、微かに湿った、泥とカビ、そして鉄サビのような匂いが混ざり合った、饐えた臭気が漂い始める。
(落ち着け。……落ち着け、鳴海恭平)
彼は、心の底から湧き上がる生理的な恐怖を、無理やり建築士としての論理的思考でねじ伏せようとした。
ドアノブが沈んだ? 老朽化によるスプリングの破損か? あるいは、この部屋の異常な気圧差によるものか?
だが、腰のベルトに吊るしたサーモグラフィ(熱画像カメラ)を手に取り、ドアノブに向けて起動した瞬間、その微かな希望は打ち砕かれた。
モニターに映し出されたドアノブは、周囲の冷え切った壁とは対照的に、異常な『高温』を示していた。まるで、今まさに強烈な摩擦と荷重がかかり、金属が悲鳴を上げているかのように、真っ赤に燃え上がっている。
(熱……? 摩擦熱か? 一体、何が……)
恭平は、恐怖を抑え込み、後退りしながら、部屋の奥へと視線を巡らせた。
床に打ち込まれた、あの豪奢な姿見と金庫を固定するアンカーボルト。
(アンカーボルトの摩擦痕。内開きのドア。踏ん張った足跡……)
第2話で脳裏をよぎった、あの最悪な図面が、今、目の前の現象によって、血の通った現実として完成しようとしていた。
恭平は、震える手で腰のコンベックス(巻き尺)を引き出した。
『ピーッ』という無機質な電子音を立てて、レーザー距離計が空間を測る。
「……遠野。聞こえるか」
『はい! 先輩、大丈夫ですか!?』
「黙って聞け。……十年前の調書にあった、ロープの長さは?」
『え? ええと、警察の押収品リストによると、市販のナイロン製ロープ、全長約五メートル。遺体に使われていた部分は……切断された状態で、約二・五メートルとあります』
二・五メートル。
恭平は、コンベックスを床に這わせ、姿見の根元にあるアンカーボルトから、入り口のドアノブまでの距離を測った。
(三・五メートル。……足りない)
男の身長を差し引いても、アンカーボルトから首、そしてドアノブまでを一本のロープで繋ぐには、二・五メートルでは短すぎる。
(……いや、違う)
恭平は、脳内でロープの軌道を再レンダリング(再構築)した。
男は、ロープを一本の『線』として使ったのではない。
「……テコの原理だ」
恭平は、自分でも驚くほど冷徹な声で呟いた。
「遠野。男は、ロープをアンカーボルトにくくりつけた後、それを自分の首に回し、さらに余った部分をドアノブに『往復』させて、最後に自分の手首に縛り付けたんだ。……そうすれば、ロープの長さは半分で済む」
(シミュレーションを開始する)
恭平の脳内に、十年前の六〇六号室が、ワイヤーフレームの3Dモデルとして浮かび上がる。
1. 男は、部屋の奥の姿見にロープの一端を固定する。
2. ロープを首にかけ、入口のドアノブへ向かう。
3. ドアノブにロープを通し、折り返して、再び自分の首へ。
4. この時、ロープは、アンカーボルトと男の首、そしてドアノブを頂点とする、巨大な『V字型』の張力システムを形成する。
5. 男は、その状態で、ドアに背を預け、絨毯に靴底を食い込ませて、全力で『踏ん張る』。
(完成だ。……狂気の設計図が)
恭平は、目の前の沈み込んだドアノブを見つめながら、そのシステムがもたらす『物理的な結果』を言葉にした。
「もし、この状態で……外(廊下側)から、何者かがこの内開きのドアを『押し開けよう』としたらどうなる?」
インカムの向こうで、遠野が息を呑む音が聞こえた。建築知識のない彼女でも、その凄惨な結末は容易に想像できた。
「外からの圧力は、ドアノブを通じて、ロープの張力を爆発的に高める。テコの原理だ。ドアノブという支点にかかった力は、ロープを通じて、男の首を、アンカーボルト(姿見)の方へ、尋常ではない力で引き絞る。……男の体重と、踏ん張る脚力が、そのままドアを『外から絶対に開けさせない』ための、強固な楔となるんだ」
(彼は……死にたかったわけじゃない)
恭平は、床のガチガチに固まった踏ん張った跡を見つめた。
「彼は、この部屋を、完全な密室にするために……自分自身を『鍵』の一部にしたんだ。外からドアが押されれば押されるほど、彼の首は絞まり、その肉体はより強固にドアノブへ押し付けられる。……彼が死んで、死後硬直で体が固まるまで、そのシステムは機能し続けた」
なんて、おぞましい設計だ。
建物の一部となり、自らの死をもって空間を完成させる。それは、建築士としての恭平の理解を遥かに超えた、狂気の『瑕疵』だった。
その時だ。
ギチギチギチ……ッ!!
目の前で沈み込んでいたドアノブが、さらに、信じられないほどの力で、下へと引き絞られた。真鍮の表面が、凄まじい荷重に耐えかねて、メシャ……と、音を立てて歪み始める。
サーモグラフィのモニターは、もはやドアノブ周辺を捉えきれず、ホワイトアウト(真っ白に飽和)していた。
「……ッ、……ガッ、……ァァァ……ッ」
完全防音のはずの部屋に。
壁の中に五十センチもの吸音材が詰め込まれた、あの静寂の空間に。
何かが、凄まじい力で首を絞められ、気管を潰されながら、それでもなお、ドアを守ろうとするかのような、湿った、おぞましい『呻き声』が響き渡った。
それは、十年前の男の、死の瞬間のリプレイ(再現)なのか。
あるいは、今、この瞬間に、恭平の目の前で、何かが『死荷重』として、その場所に存在し続けているのか。
(ここにいたら、……殺される)
恭平の論理が、ついに恐怖に屈した。
怨念とか幽霊とか、そんなものどうでもいい。今、このドアノブにかかっている力は、物理的に恭平を圧殺できる。
彼は、狂ったように軋み続けるドアノブを、死に物狂いで掴んだ。
高温を示すはずのドアノブは、サーモグラフィの表示とは裏腹に、氷のように冷たく、そして、何かが執拗に舐め回したかのような、嫌なヌルつきがあった。
「う、うおおおおおッ!!」
恭平は、全身の体重をかけて、ドアノブを回し、重厚な防音ドアを内側へ、力任せに引き開けた。
ギィィィィィ……ッ!!
十年間、閉ざされていた蝶番が、悲鳴を上げる。
恭平は、這うようにして、六〇六号室から廊下へと飛び出した。
「ハァ、ハァ、ハァ……ッ、遠野! 遠野! 聞こえるか! 今すぐ撤退する! この物件は無理だ、構造以前の問題だ!」
インカムに向かって叫びながら、恭平は、這いつくばったまま、今出てきたばかりの六〇六号室のドアを振り返った。
廊下の冷気の中で、恭平は、ライトの光を、ドアの『外側(廊下側)』へと向けた。
そして、彼は、自分の心臓が、本当に停止したかと思った。
(……あいつが、死んでまで守ろうとしたのは)
ライトの光に照らされた、重厚な鋼鉄製の防音ドアの外側。
そこには、獣の爪痕などという甘っちょろいものではない、もっと重く、鈍く、そして圧倒的な暴力の痕跡が、無数に残されていた。
金属の表面が、何か巨大な、鈍器のようなもので、執拗に、メシャメシャに打ち付けられ、抉れ、削り取られている。
ドアの『外側』の、足元付近にのみ集中した、その激しい削れ跡は。
まるで、床を這う、巨大な『何か』が。
十年前のあの夜。
男が自分自身を『鍵』にして死んだ、そのドアを。
外から、執拗に、何度も、何度も、頭を打ち付けて、押し開けようとした、その痕跡だった。
「……これから、逃げようとしてたのか」
恭平の呟きが、廊下の冷気に消える。
その時。
彼が今出てきたばかりの、半開きになった六〇六号室の、あの暗闇の中から。
ズルリ、ズルリ、と。
泥水を含んだ重い塊が、床を這うような音が、恭平の足元に向かって、確実に近づいてきた。




