第2話:アンカーボルトと肉の重さ
ズルリ。
重く湿った摩擦音が、分厚い防音ドアの向こう側――廊下から聞こえた。
恭平は腰のコンベックス(巻き尺)を伸ばそうとしていた手を止め、無意識に息を殺した。
六階の廊下は完全に空調が死んでおり、風が通る隙間はない。野生動物が入り込んだか、あるいは老朽化した配管から泥水でも滑り落ちたか。
だが、鉛シートを挟み込んだ分厚い防音ドアに阻まれ、音の輪郭はひどく曖昧だった。
「……建付けの歪みか」
誰に言い訳するでもなく小さく呟き、恭平は強張った肩の力を抜いた。
彼がわざわざ一人でこの廃墟の調査を引き受けたのには、理由がある。
出世欲や会社からの評価のためではない。単に、人が勝手な噂や曰くをつけて建物を忌み嫌い、見放し、朽ちさせていくのが我慢ならないのだ。
建物に罪はない。怨念で鉄筋コンクリートの強度が落ちることはなく、幽霊が壁にクラックを入れるわけでもない。骨組みが生きているのなら、皮を剥ぎ、正しく設計し直せば、空間は必ず蘇る。
恭平にとってこの調査は、病んだ建物を治療するための純粋な「問診」だった。だからこそ、どんな不気味な噂があろうとも、冷静に物理的な事実だけを拾い上げなければならない。
恭平はインカムのスイッチを切り替えず、六〇六号室の奥へと歩を進めた。
長年締め切られていたことによる、濃密なカビと埃の匂いが鼻を突く。室内は、かつての客室としての体裁を辛うじて保っていた。色褪せた壁紙、スプリングのへたったツインベッド、そして窓際には小さなローテーブルとソファ。
だが、部屋の最奥まで進んだ恭平は、ライトの光を当てて眉間の皺を深くした。
「なんだ、この配置は……」
窓のすぐ横の壁際に、身の丈ほどもある豪奢なアンティーク調の姿見(鏡)が置かれていた。そしてその隣には、ホテルの客室によくある小型の金庫ではなく、まるで銀行のバックヤードにあるような、不釣り合いに巨大で無骨な耐火金庫が鎮座している。
改修の際、こうした大型家具の撤去費用は無視できない。恭平はクリップボードを小脇に抱え、まずは姿見を動かそうと木製のフレームに手をかけた。
「……重っ」
力を込めても、姿見はミリ単位すら動かない。隣の巨大な金庫にも手をかけて押してみるが、やはり微動だにしない。いくら重いとはいえ、大人の男が本気で体重をかければ、絨毯の上を少しは滑るはずだ。
恭平は嫌な予感を覚え、腰からマイナスドライバーを取り出すと、姿見の足元を覆っている分厚いカーペットの端に差し込み、力任せに引き剥がした。
「……正気かよ」
現れたコンクリートの床を見て、恭平は思わず声を漏らした。
姿見の木製台座を貫通するように、太さ十ミリはあろうかという強固な金属製の『アンカーボルト』が、四隅にがっちりと打ち込まれていたのだ。隣の金庫の足元も同様だった。
アンカーボルトとは、コンクリートにドリルで深い穴を開け、重機などを固定するために打ち込む強固な杭だ。
「遠野、聞こえるか」
恭平はインカムのスイッチを入れた。
『はい、こちら遠野です。どうしました?』
「六〇六号室の奥に、大型の姿見と金庫がある。どっちも、床のスラブにアンカーボルトで直接固定されてる」
『アンカーボルトって……地震対策ですか?』
「いや、常軌を逸してる。こんな太いアンカーを打ったら、撤去する時に床の補修工事が必要になる。資産価値を下げるだけの狂気だ」
恭平はしゃがみ込み、ライトでボルトの根元を照らし出した。
そして、息を呑んだ。
「……遠野。ただ固定しただけじゃない。ボルトの周辺のコンクリートが細かく砕けてる。それに、太い金属の支柱に、何か硬いロープ状のもので『強烈に引っ張られた』ような、深い摩擦の削れ跡が無数にある」
それは、家具を固定するためのものではない。
この巨大な姿見と金庫を『重り(アンカー)』にして、部屋の中心へ向けて、凄まじい力で何かを力任せに引っ張った痕跡だった。
「……遠野、タブレットに当時の警察の調書と現場写真のデータを送ってくれ。十年前、ここで自殺した男の記録だ」
『え……。見、見るんですか? 現場で?』
「当然だ。設計図と現況がここまで違う。過去にこの部屋で『物理的』に何が起きたのか、把握しておく必要がある」
手元のタブレット端末が振動し、恭平は送られてきたPDFファイルを開いた。
十年前の調書。モノクロで不鮮明な現場写真が添付されている。
写真には、六〇六号室の入り口、つまり恭平が今背を向けているあの分厚い防音ドアが写っていた。
室内のドアノブに、太いナイロン製のロープが括り付けられている。
そのロープの先には、ジャージ姿の男が、首に縄を巻きつけた状態で、ドアに背を預けるようにして床にへたり込んでいた。
典型的な非定型縊死。ドアノブの高さでも、腰を落とし体重をかければ頸動脈が圧迫され、人は死ぬ。
第一発見者はホテルの従業員。連泊中だった男が出てこないため、マスターキーで鍵を開け、ドアを押して中に入ったところ、遺体を発見したとある。
恭平はタブレットから顔を上げ、部屋の入り口にある実際のドアノブと、写真を見比べた。
そして、建築士としての論理的な思考が、カチリと一つの『致命的な矛盾』に突き当たった。
「……遠野」
『はい?』
「十年前の第一発見者は、マスターキーで鍵を開けて、廊下側からこの部屋に『入って』きたんだよな?」
『ええ、調書にはそうあります。鍵を開けて、ドアを押して中に入ったと』
恭平は、ゆっくりと入り口のドアへ歩み寄り、その重厚な鋼鉄製の蝶番に触れた。
背筋を、氷の塊が滑り落ちていくような悪寒が走った。
「遠野。……このドア、『内開き』だぞ」
『え……? 内開き、ですか?』
「そうだ。廊下側から部屋の中に向かって『押し開ける』構造だ」
恭平は、自分の首元を指でなぞりながら、低い声で続けた。
「考えてみろ。もし男が、部屋の内側のドアノブにロープをかけて首を吊っていたとする。発見者が外からドアを押し開けた瞬間、ドアノブに繋がっている死体は、ドアの動きに合わせて床を『引きずられる』はずだ。……でも、お前が送ってくれた警察の写真はどうだ?」
インカムの向こうで、遠野が息を呑む気配がした。
写真に写る男の遺体は、ドアノブの真下に、不自然なほど真っ直ぐに、綺麗に座り込んだまま硬直していた。引きずられたような痕跡は一切ない。
「外からドアを押し開けたのに、死体が動いていない? ……違う。そんな物理法則は存在しない」
恭平はドアノブの前にしゃがみ込み、ライトで床を照らした。
写真では見えなかったものが、強烈な光によって克明に浮かび上がる。
ドアノブの真下。男が座り込んでいたであろう絨毯の一角だけが、周囲とは異質なほど、ガチガチに黒く変色し、固まっていた。
腐敗した体液の跡ではない。それはもっと執拗で、おぞましい痕跡。
床に、ドアに向かって『足を踏ん張った』ような、靴底による二本の深い抉れ跡があったのだ。
さらに、目の前のドアノブをよく見ると、金属の表面が異様に滑らかにすり減っており、付け根の隙間には、黒く乾燥した『肉片のようなもの』がこびりついている。
「……首を吊ったんじゃない」
恭平の喉から、震える声が漏れた。
奥のアンカーボルトの削れ跡。
内開きのドア。
そして、踏ん張った足跡。
点と点が繋がり、最悪の図面が脳内に組み上がる。
男は死にたかったわけではない。
部屋の奥のアンカーボルトと、このドアノブをロープで張り詰め、そこに自らの首をくくりつけたのだ。
もし、外から何者かがこの内開きのドアを『押し開けよう』とした時、テコの原理と張力によってロープが首に食い込む。つまり、男自身の肉体と体重が、ドアをそれ以上開かせないための『絶対的な楔』となる仕組み。
彼自身が死ぬことでしか、完成しない究極の鍵。
「……何を、外に締め出そうとした……?」
恭平がドアノブから手を離そうとした、その時だった。
ギ、ギィィ……ッ。
部屋の最奥。
床に打ち込まれたアンカーボルトが、突然、見えない強大な力で引っ張られたように、金属特有の悲鳴を上げた。
「なっ……」
振り返る暇はなかった。
恭平の目の前にあるドアノブが。
誰も触れていない、内側のドアノブが。
まるで、今まさに『目に見えない何十キロという肉の塊』がぶら下がったかのように。
ギチリ、と、重々しい音を立てて、下へ向かって沈み込んだ。




