第1話:デューデリジェンス
鬱蒼と茂る杉の木立を抜けると、灰色の巨躯が山肌にへばりつくようにして立ち塞がっていた。
「旧・水景館」——総鉄筋コンクリート造、地上八階建て。かつては県内有数の規模を誇ったリゾートホテルだが、今では外壁の塗装も剥げ落ち、黒ずんだ雨だれの跡が巨大な獣の爪痕のように建物を覆っている。十年前に廃業して以来、人の手が入っていない完全な廃墟だ。
鳴海恭平は、社用車のバンから降りると、淀んだ空気を肺の奥まで吸い込んだ。カビと湿気、それに朽ちゆく建材特有の饐えた匂いが混ざり合っている。
「……さて、やりますか」
独りごちて、恭平は作業着のポケットから手袋を取り出し、安全靴の紐を締め直した。最後に頭に白いヘルメットを被る。手にしたクリップボードには、色褪せた図面の束が挟まれており、腰のベルトにはコンベックス(巻き尺)や高輝度LEDライト、そして商売道具であるレーザー距離計が機能的に吊るされていた。
彼は、都内のリゾート開発会社に勤める一級建築士だ。今回の任務は、この巨大な廃墟の現況調査である。会社はこの曰く付きの巨大物件を相場以下の底値で買い叩いた。ここを骨組みだけ残してフルリノベーションし、富裕層向けのグランピング併設型リゾートとして再生させるのが恭平の仕事だ。
世間ではこの建物を「呪われた廃墟」と呼ぶらしい。十年前に起きた首吊り自殺。それを皮切りに客足が途絶え、経営破綻に追い込まれたという曰くがあるからだ。だが、恭平にとって建物はどこまでいっても物理的な構造物でしかない。怨念でコンクリートの強度が落ちるわけでも、幽霊が鉄筋を腐食させるわけでもない。
「遠野、聞こえるか。鳴海だ。現地に到着した。これより内部の現況調査に入る」
首元に付けたインカムのスイッチを入れると、わずかなノイズの後に、明るい声が鼓膜を打った。
『はい、こちら本社資料室の遠野です。お疲れ様です、鳴海先輩。音声クリアです。本日はよろしくお願いします』
「ああ。そっちも過去の登記簿や図面の精査、頼むぞ。何か図面と違うイレギュラーがあればすぐ報告してくれ。廃墟の改修は、見えない瑕疵が一番怖いからな」
『了解です。……あの、先輩、本当にお一人で大丈夫ですか? そこ、ネットのオカルト掲示板だと結構ヤバいって噂の……』
「馬鹿を言うな。幽霊が出る出ないなんて項目は、建築基準法のどこを探しても載ってない。俺が知りたいのは、基礎のひび割れと、雨漏りの有無、それからアスベストが使われていないかどうかだけだ。心霊現象より、想定外の修繕費が嵩むことのほうがよっぽど恐ろしい」
呆れたように言うと、インカムの向こうで遠野が小さく笑う気配がした。恭平はライトを点灯させ、割れた自動ドアの隙間から、太陽の光が届かない水景館のロビーへと足を踏み入れた。
内部は、想像以上に劣化が進んでいた。
床に敷き詰められていたであろう絨毯は湿気を吸って腐り果て、踏み出すたびに靴底で泥のように嫌な音を立てる。恭平は淡々とライトの光を走らせ、壁や天井の目視調査を進めていく。
「エントランスホールの天井材、一部剥落あり。雨漏りの形跡というよりは、結露による劣化だな。壁面にクラック(ひび割れ)を発見。……コンベックスで計測する」
腰から巻き尺を引き出し、壁の亀裂にクラック用の定規を当てる。
「幅は〇・二ミリ以下。典型的なヘアクラックだ。躯体そのものへの影響はない。表面の補修だけでいける。構造自体は、当時のゼネコンがかなり良い仕事をしたみたいだな。これなら十分、再利用できる」
恭平の語り口は、どこまでもドライで事務的だった。彼にとってこの仕事は、死んだ空間を再び生きた空間へと蘇らせるための、医者のような役割だと思っている。だからこそ、先入観は持たない。ただ目の前にある「物理的な事実」だけを拾い集める。
一階から順に、機械室、大浴場跡、客室群と、恭平は着実に調査を進めていった。静まり返った廃墟に、恭平の足音と、レーザー距離計が距離を測定する際の『ピーッ』という無機質な電子音だけが、規則正しく響き渡る。
二時間ほどかけ、ついに恭平は六階へと到達した。
この階層から、空気の質が明らかに変わったのを感じた。気温が下がったような、あるいは気圧が重くなったような、肌に張り付くような不快な湿気がある。
「……六階は、換気システムが完全に死んでるな。カビの匂いが下の階よりきつい」
恭平はインカム越しにそう報告しながら、薄暗い廊下を進んだ。
ライトの光の先、廊下の最も奥に位置する部屋。ドアプレートには、くすんだ真鍮で『六〇六』と刻まれている。
十年前、一人の男がロープで首を吊ったとされる「事故物件」の中核。この水景館が死に絶える原因となった場所だ。
「……着いたぞ。六〇六号室だ。これから内部の寸法測定に入る」
『はい……。先輩、気をつけてくださいね』
遠野の声が少しだけ強張っている。恭平は短く「ああ」とだけ返し、ドアノブに手をかけた。
ガチャリ、と重い金属音が響く。施錠はされていなかった。
恭平はドアを押し開けようとして、わずかに眉をひそめた。
重い。建て付けが悪いというレベルではない。ドアそのものの質量が、他の客室と全く違うのだ。力を込めて押し開けると、空気の塊が押し出されるような感覚とともに、ゆっくりと蝶番が軋む音がした。
「……遠野、六〇六号室の図面を出してくれ。建具の仕様はどうなってる?」
『えっと、お待ちください。……あ、ありました。木製フラットドアですね。一般的なホテル客室用の』
「いや、違う。図面と現況が合致してない。これ、木製じゃないぞ。表面に化粧板が貼ってあるが、中身は鉛シートを挟んだスチール製の防音ドアだ。しかも異常に分厚い。シネコンやスタジオの出入り口に使うような代物だ」
室内に足を踏み入れると、そこは窓を厚いカーテンで閉ざされた、完全な暗闇だった。ライトで室内を照らし出す。
ベッドやローテーブルといった家具は当時のまま残されているが、すべてが分厚い埃を被っている。首吊りがあった現場特有の生々しさは、すでに十年の歳月が風化させていた。
「防音ドア……ですか? スイートルームでもない普通の客室に、どうしてそんなものを」
「さあな。当時のオーナーがクレーム対策で後付けしたのかもしれない。とにかく、図面と違う。リノベの際に解体費用が跳ね上がるから、きっちり現況の寸法を取り直しておく」
恭平は腰からレーザー距離計を抜いた。
長方形の小さな機械を壁の端に押し当て、反対側の壁に向けてボタンを押す。赤いレーザーポインターの光が、埃の舞う暗闇を一直線に貫き、対面の壁に小さな赤い点を作った。
『ピーッ』
電子音と共に、手元の液晶ディスプレイに距離が表示される。
恭平はその数字を見て、ピタリと動きを止めた。
「……ん?」
もう一度、機械を壁に当て直す。今度は部屋の縦の長さを測る。
『ピーッ』
表示された数字を睨みつけ、恭平はクリップボードの図面と見比べた。
図面上では、この部屋は縦六メートル、横四メートルの二十四平米。標準的なツインルームの広さであるはずだ。
「遠野。……寸法がおかしいぞ」
『え? 機械のエラーですか?』
「いや。レーザーは正常だ。だが……実際の部屋の内寸が、図面より縦横ともに『五十センチ』も短い。……あり得ない」
恭平は壁に歩み寄った。壁紙が貼られたごく普通のパーティションに見える。彼は拳を握り、コンコン、と壁を叩いた。
通常、客室間の壁(LGS下地)であれば、内側が空洞であるため、軽く響くような音がする。しかし、恭平の拳を跳ね返してきたのは、ズシッ、という異常に重く、詰まったような鈍い音だった。
「音を吸収している……。防音材か。しかも、グラスウールなんてチャチなもんじゃない。壁の中に数十センチの厚みで、高密度の吸音材と遮音シートがびっしり詰め込まれてる」
『五十センチも壁を厚くして、防音室に改装したってことですか? ……でも、なんでそんな念入りに? 中で大騒ぎでもするお客さんがいたんでしょうか』
遠野の呑気な推測に、恭平は答えなかった。
彼はライトで壁の隅から隅までを照らし、通気口の配置、ドアの隙間のパッキンの構造、そして壁の反響音を、建築士としての知識と経験で脳内に再構築していく。
冷たい汗が、ヘルメットの下を伝い落ちた。
オカルトなんて信じていない。幽霊の類など存在しない。
だが、彼の拠り所である「建築の理屈」が、今、背筋が凍るような異常な真実を叩き出していた。
「……遠野。この図面、間違ってるぞ」
恭平の口から出た声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
「この部屋、防音材を入れる向きが『逆』だ」
『逆……? どういうことですか?』
「防音室ってのは普通、中から外へ音を漏らさないために作るもんだ。だが、この部屋の構造は違う。吸音材の層と遮音層の配置が反転してる……」
恭平は、ゆっくりと重厚な防音ドアを振り返った。
「この部屋は、中の音を外に出さない構造じゃない。——外の音を、中に『入れない』構造になってるんだ」
十年前、ここで首を吊った男。
彼は一体、この完全防音の密室に閉じこもり、「ドアの外」の何から逃れようとしていたのか。
静まり返った廃墟の六階。
突如、恭平の背後にある密閉されたドアの向こう側の廊下から、ズルリ、と何か重いものが床を擦るような音が響いた。




