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第4話:閉鎖空間と異臭

背後から迫る泥濘のような這いずる音に急き立てられ、恭平は無我夢中でドアを引いて閉ざした。

ガツン、と分厚い鋼鉄が枠にぶつかる重い金属音が響き、背筋を凍らせるような淀んだ気配が完全に遮断された。


――助かった。これで外(廊下)に出られた。


大きく息を吐き出しながら、冷や汗に塗れたヘルメットの縁を手の甲で拭う。だが、安堵は一秒と持たなかった。

手元の高輝度LEDライトが照らし出したのは、見慣れた杉の木立の幻影でも、無機質な水景館の廊下でもなかった。


光の先にあるのは、床のコンクリートに打ち込まれた太いアンカーボルト。そして、それに固定された豪奢な姿見だった。

ここは、六〇六号室の内部だ。


「……どういうことだ」


恭平は呆然と呟いた。自分は間違いなくドアを「押し開けて」廊下に出たはずではなかったか。いや、極度の緊張と恐怖のせいか、ドアノブを掴んだ感触も、押し開けた時の筋肉の手応えも、ひどく曖昧で輪郭がぼやけている。

廊下に出たつもりが、パニックによる方向感覚の喪失で、自分からドアを引いて密室の中に逃げ込んでしまったのか。


「落ち着け。ただの状況誤認だ」


自らに言い聞かせるように低く呟き、恭平は深く息を吸い込んだ。建築士としての理性を総動員し、眼前の現実だけを処理する。

気を取り直し、すぐさま外に出るために入り口へと向き直った。先ほどまで悲鳴を上げていた真鍮製のドアノブをしっかりと掴み、廊下側へ押し開けようと体重をかける。


動かない。


もう一度、今度は肩からぶつかるようにして力を込めるが、五十センチもの厚みを持つ防音ドアは、まるで巨大な岩盤のようにピクリともしなかった。鍵はかかっていない。内開きである以上、手前に引くのではなく向こう側へ押す構造だ。それなのに、蝶番ちょうつがいのわずかな遊びすら感じられない。


「建付けの狂いか? いや、それにしては固すぎる」


恭平は腰のベルトから小型のバールを引き抜き、ドアと枠の隙間チリに先端をねじ込もうとした。しかし、金属の先端は数ミリたりとも入り込まない。枠の木部が極端な湿気で膨張しているのか、あるいは建物の躯体全体が歪んでドアを挟み込んでいるのか。


「まさか、気圧差か。部屋が完全な負圧になって、ドアを内側に吸い込んでいるのか……?」


物理法則で必死に説明をつけようとする恭平の耳に、ザザッ、という乾いた電子音が飛び込んできた。首元のインカムだ。分厚いコンクリートと鉄筋が電波を阻害しているのか、先ほどまでクリアだった音声がひどく荒れている。


『——ぱい。……鳴海、先輩! 聞こえ、ますか!』


ノイズの奥から響く遠野美月の声は、いつもの事務的な落ち着きを失い、ひどく切迫していた。


「遠野か。すまない、トラブルだ。六〇六号室のドアが物理的に開かなくなった。枠の膨張か負圧の可能性がある。自力での脱出は——」

『違います、先輩! 聞いてください!』


彼女の緊迫した声に、恭平は咄嗟に言葉を飲み込んだ。


『過去の登記簿と、水景館の初期の図面……市役所のアーカイブから、ようやく引っ張り出せました。先輩が言っていた通り、やっぱり今の図面は、後から意図的に書き換えられたものです!』

「書き換えられた? ……どういうことだ」

『六〇六号室は、元々は客室として設計された空間じゃありません。初期図面だと、この部屋の奥には、さらに続く長い廊下と別館の建設計画がありました。でも、建設途中で計画が頓挫して……』


ザザッ、と激しいノイズが走り、音声が途切れる。しかし、恭平の脳内では、その断片的な情報だけで十分だった。バラバラだった不自然な構造のピースが、一つの最悪な形へと組み上がっていく。


客室ではない。防音材の向きが「外の音を中に入れない」ように逆向きに施工されていた理由。

恭平は、背後にあるアンカーボルトと姿見を振り返った。


「……ただの壁じゃない。奥の空間を完全に封鎖するための、『蓋』としてこの部屋を作ったのか」


六〇六号室は、頓挫した別館へと続くルートを隠蔽し、物理的に塞ぐためだけに急遽作られた、分厚いコンクリートと防音材の塊だったのだ。

ならば、十年前の男はなぜ、アンカーボルトに自らを繋ぎ、ドアを内側から封鎖したのか。

彼は、外(廊下側)から何者かが入ってくるのを防ごうとしたのではない。この巨大な「蓋」の向こう側から、何かが漏れ出さないように、己の肉体と死を最後のくさびとして捧げたのだ。


その考えに至った瞬間。


『……っ、げほっ、……な、なんだこれ……』


密室であるはずの六〇六号室に、明確な「気流」が生まれた。

天井付近にある空調の給排気口。換気システムはとうの昔に死んでおり、ファンが回るはずもないのに、そこから、ぬるりとした重たい風が吹き下ろしてきたのだ。


猛烈な悪臭が、恭平の鼻腔を容赦なく蹂躙した。

古いカビと、底なし沼のような泥の匂い。それに混じって、有機物がひどく発酵したような腐臭が漂う。下水管の逆流や、野生動物の死骸のレベルではない。


何より異常なのは、その「量」だった。

六〇六号室という限られた容積に対して、空間を満たしていく異臭のスピードと密度が、明らかに物理法則を無視している。特定の場所から漂ってくるのではなく、まるで空間そのものが腐敗し、無尽蔵に湧き出しているかのような圧倒的な濃度。発生源すら特定できない。


「有毒ガスか……? メタンか、硫化水素が発生しているのか……!」


恭平は反射的に作業着の襟で口と鼻を強く覆った。呼吸をするだけで肺の粘膜が焼け焦げるような感覚に襲われ、激しくむせ返る。だが、腰に下げたガス検知器のアラームは一切鳴らない。計測器の数値は正常を示している。

これは化学反応による有害ガスではない。純粋で、圧倒的な「臭気」そのものが、質量を持って恭平を押し潰そうとしているのだ。


『先輩? どうしました、応答して! 図面によると、その部屋の奥には——』


「遠野……っ、今は無理だ……!」


息も絶え絶えに応答した恭平の視線は、開かなくなった重厚な防音ドアに釘付けになっていた。


五十センチもの吸音材と遮音シートが詰め込まれ、「外からの音を中に入れない」ために特化して設計された狂気の防壁。それほどまでの徹底した遮音空間であるにも関わらず。


ズル……、ズルル……。


ドアの「外(廊下側)」から、水気を含んだ重い塊が、床を這いずる摩擦音がはっきりと聞こえてきた。

防音性能を突破して音が伝わってくるということは、音源が発する物理的な振動そのものが、建物の躯体を震わせるほどの途方もない質量を持っていることを意味する。


ズルリ。

重苦しい這いずり音が、ドアのすぐ目の前でピタリと止まった。


その瞬間、異臭が渦巻く部屋に、耳鳴りがするほどの完全な静寂が降りた。

空気の粘度が上がり、時間が引き伸ばされたような錯覚に陥る。

インカムから漏れる『ザザッ』という微かな電子ノイズと、襟越しに響く恭平自身の荒い呼吸音だけが、密閉された空間に無惨に反響している。


数秒とも数分ともつかない、永遠にも似た無音の間。

恭平はバールを握りしめ、冷や汗を流しながらドアノブを凝視し続けた。


直後。


ガチャリ、と。

恭平の目の前で、鋼鉄のドアノブが、外側から尋常ではない力でゆっくりと回された。

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