第9話 傷
白夜さんと泉水さんが鴨川沿いを歩いていたのは、まだ朝の早い時間だったそうです。
川沿いには柳が並んでいて、対岸に茶屋や料亭が軒を連ねている。朝が早いから店はまだ閉まっている。水面が朝日を弾いて、きらきら光っている。鳥が飛んでいる。
表の世界は、何ひとつ変わっていない。
白夜さんは手ぶらです。刀も持たない。着流しの裾を風に遊ばせて、ふらふらと歩いている。
泉水さんは半歩後ろをついていたそうです。物見遊山みたいな顔で、川沿いの景色を眺めている。鴉衆のはずなのに、あの人には任務中の緊張感というものがない。
「白夜さん、あの柳、立派ですね」
「……」
「鴨川って、夏は涼しいんですか?」
「知らね」
「知らないことないでしょう。百年以上住んでるんですから」
「涼しいかどうかなんか気にしたことねーよ」
「そうですか。僕は暑がりなので、夏場は川沿いに住みたいなって——」
「お前、よく喋るな」
「すみません、緊張してるんです。こういうときって喋ってたほうが落ち着くんですよ」
白夜さんはちらりと泉水さんを見たそうです。緊張してる割に声は穏やかで、歩く速度も変わらない。ふうん、って顔をして、前に向き直った。
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鴨川を少し南に下った辺りで、泉水さんが足を止めた。
「白夜さん。使っていいですか」
左手の甲の刻印。泉水さんは短刀で指先を薄く切り、血を刻印に擦りつけた。顔をしかめる素振りもない。
泉水さんの瞳の色が変わった。赤みを帯びた、あの検知の目。
「……見えます。南のほうに三本。一番近いのは、あそこの——五条の橋のさらに南ですね。六条のあたり。川から少し東に入ったところ」
「どんくらい離れてる」
「走れば四半刻くらいかと」
「行くか」
二人は鴨川を離れて東に折れた。
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六条の裏通り。古い長屋が並ぶ一角に、それはあったそうです。
路地の行き止まり。石の地蔵が一体、苔むして立っている。その足元の地面に、何かが半分埋まっていた。
白夜さんが先に見つけた。
「あれだ」
土器の欠片です。
手のひらに収まるくらいの大きさ。形は不揃いで、縁がぎざぎざしている。色は褐色——焼いた土の色。ここまでは普通の土器と変わらない。
白夜さんが拾い上げた。
「……ああ、前もこんな感じだった」
泉水さんが横から覗き込んだそうです。
「脈打ってますね」
脈打っているんですよ。土器のくせに。
手に持つと、とくん、とくん、と——微かに震えている。温かい。生きている石なんてものはこの世にないはずですが、これは生きている。死んでいるとも言えない。そのどちらでもない何か。
泉水さんが両手で包むようにして欠片を持ったそうです。耳を近づけるようにして、しばらく黙っていた。
「面白いですね」
「面白い、か? 気持ち悪いだろ」
「いえ、面白いですよ。これ、蘭方医が言うところの『器官』に近い」
「器官?」
「はい。体にはそれぞれ役割を持った部品がある。心の臓は血を送る。肝の臓は毒を濾す。一つ一つが違う仕事をしていて、全部揃って一つの体になる」
泉水さんは欠片を返しながら言った。
「この欠片も、神の体の一部だとしたら、それぞれに役割があるのかもしれませんね。——九十の器官で、一つの神が動いていた」
「知らねえよ。拾えりゃそれでいい」
「まあ、そうですけど」
泉水さんは少し笑ったそうです。
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次の欠片を探そうとした矢先のことでした。
路地の向こうから、足音が複数聞こえた。揃った足音。訓練された歩き方。
白夜さんは路地の壁に背をつけた。泉水さんが一歩引いて影に入る。
現れたのは武装した男たちでした。五人。揃いの装束。先頭の男は甲冑こそ着ていないが、太刀を佩いて、背筋がまっすぐに伸びている。目つきが鋭い。鍛えられた武人の目です。
「……ほう」
男は足を止めた。後ろの四人も動きを合わせる。
「鴉か。——それと」
男の視線が、白夜さんで止まった。銀髪。狐の耳。尻尾。——人間じゃないのは一目でわかる。
「狐の半妖。不死の、な」
白夜さんは壁にもたれたまま、欠伸をかみ殺した。
「誰だよ」
「幕府御家人、景虎。上様の命により、この儀に参加している」
景虎と名乗った男は、白夜さんを値踏みするように見ていた。ただし、睨んでいるわけではない。商品を見定める目に近い。使えるかどうか。邪魔になるかどうか。
白夜さんは特に何も言わなかった。壁にもたれたまま、景虎の後ろの四人をちらちら見ている。全員の腰に欠片がぶら下がっているのが見えた。布に包んでいるが、形でわかる。一人二つずつ。
「俺たちに用か?」
「用はない」
景虎の声は平坦でした。敵意はない。しかし親しみもない。ただ、こちらの存在を確認しに来た、というだけの声。
「我々は本日の分は十分に集めている。その欠片は好きにするがいい」
景虎は一拍置いて、付け足した。
「——ただし、上様の邪魔だけはするな」
「邪魔って。何もしてねーだろ」
「今後もそうであれと言っている」
白夜さんは欠伸をした。二回目の。
「忠告どーも」
景虎の目が白夜さんの目を捉えた。数秒。測っている。何を測っているのか——たぶん、この男が面倒を起こす種類の人間かどうか。
結論が出たらしい。景虎は踵を返した。
「行くぞ」
五人が路地を去っていく。揃った足音が遠ざかる。
泉水さんが影から出てきた。
「……欠片を二つずつ持っていましたね。五人で十」
「ああ」
「幕府の配下はまだ他にもいるでしょうし。——僕たちの取り分、残ってるといいんですけど」
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二つ目の欠片は、鴨川の中洲で見つけた。川の浅いところを渡って、砂利の上に転がっていたのを拾った。川のせせらぎの音の中で、欠片だけが別の音を立てている。とくん、とくん。
中洲から岸に戻ったところで、川の少し上流のほうから騒がしい声が聞こえてきたそうです。
河童でした。
薄緑の皮膚に、頭に皿。人間に近い顔だが、体は人間よりがっしりしている。背中に二本の刀を交差して背負っている。
その河童が——欠片を手に持って、鴨川の浅瀬に突っ立っていた。河童の背中に小柄な猿のような妖怪が飛びついて、欠片をひっぱっている。
「て、てめえ、はなせこの!」
河童の声が川面に響く。大きい声です。
「俺が先に見つけたんだぞ! はなせっつってんだ! 尻子玉引っこ抜くぞコラァ!」
猿の妖怪はキーキー鳴きながら欠片にしがみついている。河童が振り回す。猿が振り落とされまいとしがみつく。二匹で鴨川の浅瀬をばしゃばしゃ回っている。
河童が背中の二刀を抜いた。——抜いた途端に動きが変わった。
一閃。猿が吹き飛んだ。もう一閃。二匹目の猿が川岸の柳の幹に叩きつけられた。三閃目は空振り。猿たちは悲鳴を上げて散っていった。
河童は二刀を構えたまま、猿が消えた方角に向かって叫んだ。
「どうだ! 天下一の剣士、獅童様を——なめるなよ!」
ぜえぜえ言いながら、勝ち誇った顔。欠片は無事に手の中にある。水しぶきがきらきら光っていたそうです。
白夜さんは鼻を鳴らした。
「……あの二刀、速いな」
「知り合いですか?」
「いや。——行くぞ」
白夜さんはそれだけ言って歩き出したそうです。でもね、あの人がわざわざ他人の剣を褒めることなんか、まずないんですよ。それだけあの河童の太刀筋が目についたんでしょうね。
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三つ目を探して東に向かっていたときです。古い蔵が並ぶ一角。
矢が飛んできた。
音もなく。風を切る音だけが、一瞬遅れて聞こえた。
白夜さんの左腕に、矢が刺さった。
「——っ」
白夜さんは反射的に飛び退いた。矢が腕に刺さったまま。蔵の屋根の上に、人影がある。
「ふふ、いい獲物を見つけたね」
痩せた男だったそうです。弓を構えている。目が鬱血したみたいに赤い。歯がまばらで、にやにやと笑いながら、二本目の矢をつがえている。
白夜さんは左腕の矢を掴んで引き抜いた。
——血が出た。傷口が開いている。
塞がらない。
「……」
白夜さんは自分の腕を見た。血がだらだらと流れている。五秒経っても、十秒経っても、肉が盛り上がってこない。
「白夜さん!」
泉水さんが駆け寄った。白夜さんの腕を見て——顔色が変わった。
「治ってない。——再生してない」
「そうみたいだな」
白夜さんの声は平坦だった。驚いてはいる。いるが、取り乱してはいない。
「……儀が始まったら不死じゃなくなる。そういうことか。——まあ、そりゃそうか。不死のまま参加できたら有利すぎるだろ」
「白夜さん、それよりも——腕の色がおかしい」
「あ?」
「傷口の周り、紫になってます。毒です」
「……あのクソ。毒矢かよ」
屋根の上の男は、まだいた。
再び矢が飛んだ。白夜さんは横に転がって避けた。矢が石畳に刺さって、鏃のあたりから嫌な色の液が滲んでいる。
白夜さんの右手から蒼い炎が走った。屋根に向かって伸びる。男は飛び退いたが、弓の弦が焼き切れた。
「ちっ——」
男は弓を捨てて逃げた。屋根から屋根へ。白夜さんが追いかける必要はなかった。弓を失った射手に脅威はない。
ただし——
「白夜さん、腕を見せてください」
泉水さんが白夜さんの左腕を取った。傷口の周りが、紫がかった色に広がっている。
「毒が回ってます。——少し時間をください」
泉水さんはしゃがんで、地面に左手を添えた。路地の隙間のわずかな土から、草が生えてくる。一本、二本、三本。種類が違う。泉水さんはそれを素早く摘んで、手のひらの上で揉み始めた。匂いを嗅いで、一つ捨てて、別のを足す。
「蒼耳と茜の根。……鏃の色からして、蝮の毒を何かで濃縮したものだと思います。これで中和できるはずですが」
「……お前、何者だよ」
「鴉衆の補助員ですよ。薬草の知識が少しあるので」
「矢を見ただけで毒の種類がわかるのか」
「毒と薬は表裏一体ですから。何が体を壊して、何が体を治すか。知っておいて損はないでしょう?」
泉水さんは調合した薬草を白夜さんの傷口に当てた。しばらくすると、紫の色が薄くなっていった。
「……効いてるな」
「よかった。蘭方医の受け売りですけどね。毒には必ず、それを打ち消す何かがある。植物の中にはその『何か』を持っているものがいて——」
「いや、もういい。助かった」
「はい」
泉水さんは布を裂いて白夜さんの左腕に巻いた。手際がいい。慣れている。
白夜さんは包帯の巻かれた左腕をじっと見ていた。
「白夜さん」
「なんだ」
「怒ってますか。不死じゃなくなったこと」
白夜さんは空を見た。赤い月は朝の光に隠れて見えない。でも、ある。
「別に」
それだけだった。
怒りもない。悲しみもない。不死を失ったという事実に対して、驚くほど淡白。
白夜さんは拳を握って、開いた。左腕が痛む。
「——まあ、痛いのは久しぶりだな」
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少し離れた場所で、それを見ていた者がいた。
路地の排水溝。じめっとした暗がりの中で、泥のような体がてらてらと光っている。
花巻です。
輪郭が曖昧な顔に、にぃっと亀裂が入る。
「——もう、不死じゃないんだな」
誰にも聞こえない声で呟いた。泥の体が排水溝の中に溶けていく。
湿った跡だけが、残った。
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白夜さんは不死に執着してなかったんですよ。あたしはそう思いますよ。
不死なんかね、あの人にとっては、退屈な日々をより退屈にするだけのものだった。欲しくて手に入れたわけじゃない。儀の結果として押しつけられただけ。死なないから、何も変わらない。季節が巡っても、人が死んでも、町が変わっても、自分だけは変わらない。それが百五十年。
あたしの勝手な想像ですがね。
——さて、問題は清十郎さんと睦月さんのほうです。
次のお話をしましょうか。




