第8話 刻印
飯屋ってのは朝が早いんです。出汁を引いて、米を研いで、炭をおこして。朝飯を出すには朝飯前の仕事が山ほどある。——しゃれじゃないですよ。
台所に立って、水瓶から水を汲もうとしたら、白夜さんがもう起きてた。
着流しの裾が夜風に揺れている。空を見ていた。赤い月が六つ。まだ消えていない。
あたしは声をかけずに台所に戻りました。
白夜さんがああいう目をしているときは、放っておくに限るんですよ。
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白夜さんが動いたのは、空が白み始めるよりもずっと前でした。
座敷に戻って、全員を起こした。
「起きろ。行くぞ」
睦月さんは一瞬で目を覚ましたそうです。鴉衆ってのはそういう訓練を受けてるんでしょうね。
清十郎さんはもう起きていた。眠りが浅かったのか、最初から起きていたのか。額の古い傷が、行灯の残り火に薄く光っている。
泉水さんも起き上がった。もしかしたら白夜さんと同じで、一晩中起きていたのかもしれませんね。寝起きの顔じゃなかったそうです。
「どこに行くんですか」
「山。高いところに行く。町を見下ろしたい」
清十郎さんが頷いた。説明はいらなかったようです。高所から全体を把握する。偵察の基本でしょう。鴉衆の人間なら言われなくてもわかる。
「行こう」
四人が支度をしている音が、台所まで聞こえてきましたよ。帯を締める音、刀の鞘が鳴る音。
あたしは握り飯を握ってました。昨夜の残りの栗飯を、塩をきかせて握る。笹の葉で包む。五つ。——四人分と、あたしの分です。
白夜さんが台所に顔を出した。
「喜兵衛。行ってくる」
「はいはい。——これ、持っていきなさい」
笹の葉の包みを差し出す。白夜さんは受け取って、匂いを嗅いだ。
「……栗飯か」
「昨夜の残りですよ。残り物ですから、お代はまけときましょう。半額」
「取るのかよ」
「当然でしょう」
白夜さんは鼻を鳴らして、包みを懐に入れた。
「あ、睦月さん」
入り口のところで立っていた睦月さんに声をかけた。
「はい」
「これも。それと水」
もう一つの包みと、竹の水筒を渡す。
「……ありがとうございます」
「お代は——」
「お兄ちゃん」
奥から小鈴の声がした。
「いってらっしゃい。気をつけてくださいね」
小鈴は奥の部屋の戸の隙間から顔だけ出していた。猫耳が暗がりの中でぴょこんと見えている。寝ぼけた声だったが、目はちゃんと覚めていた。
睦月さんが小さく頭を下げた。泉水さんも「ありがとうございます、小鈴さん」と丁寧に会釈した。清十郎さんは無言で軽く顎を引いただけ。——でもね、あとで小鈴が「あの人、目だけでちゃんとお礼言ってたよ」と言ってましたよ。
四人は暗い裏路地に消えていった。
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東山——京の東にある山並みです。清水寺があるあたりから北に向かって、高台寺、知恩院、南禅寺と寺が連なっている。裏手に入ると杉や檜の森になっていて、獣道がいくつもある。町から半刻も歩けば、京の盆地を一望できる高台に出る。
暗い山道を迷いなく登っていく白夜さんの後ろを、三人が黙ってついていったそうです。
足元は落ち葉と露で滑る。虫の声はまだ残っていたが、夏のそれとは違う。細く、遠く、どこか諦めたような鳴き方です。
睦月さんは左腕を庇いながら登っていた。まだ痛みはあるのでしょう。それでも足取りは乱さなかった。
山道の途中で、少し間が空いたそうです。
清十郎さんと泉水さんが先を行って、白夜さんと睦月さんの間に少し距離ができた。暗い山道で、木の根を跨ぎながら、睦月さんが言ったそうです。
「……昨日は、ありがとうございました」
白夜さんは振り返らなかった。
「何が」
「橋で。助けていただきました」
「たまたま通りかかっただけだ」
清十郎さんにも同じことを言ってましたね。まったく、ぶれない人です。
睦月さんはそれ以上何も言わなかったそうです。ただ、少しだけ歩く速度が上がった。五歩あった距離が、四歩半になるくらいの。
白夜さんが足を止めた。
「ここだ」
木々が途切れて、開けた場所に出た。岩が露出した尾根の突端。眼下に京の盆地が広がっている。
夜明け前の京都です。
空はまだ暗い。でもね、東の山の稜線のあたりがうっすらと——紺から藍に、藍から薄い紫に、色が変わりかけていた。町はまだ眠っている。灯がいくつか。
美しいですよ。京都の夜明け前は本当に美しい。何百年経っても変わらない。
——ただ。
その美しい風景の、ところどころに、おかしなものが見えた。
「……あれは」
睦月さんが指さしたのは、北のほうだったそうです。鞍馬山のさらに向こう。空と山の境が滲んでいる。霧のようだが、霧じゃない。黒い。薄い黒が、帯のようにたなびいている。
西にも同じものがあった。嵐山の向こう側。南も。東も。四方を、黒い帯が取り囲んでいる。
「結界だ」
白夜さんが言った。
「あの黒い霧が見えるだろ。あの向こうには出るな。出たら影に引きずり込まれて死ぬ」
「……あれが見えるのは」
「刻印を持ってる奴だけだ。昨日あの手に掴まれた奴が参加者。参加者にだけ結界が見えるし、参加者だけが出られない。結界の中で暮らしてる普通の人間や妖怪には何も見えないし、何の影響もない」
清十郎さんが黒い帯の輪郭を目で追っていたそうです。北から東、東から南、南から西。
「……広いな」
結界の範囲は京都盆地を中心に、東は大津の手前あたり、南は宇治あたり、北は鞍馬あたり、西は嵐山あたりまで。直径にして六里から八里ほどの円だったそうです。京の町をすっぽり包む、歩いて半日ほどの広さ。寺社仏閣も、鴨川も、町屋も、紅葉の山も——全部その中に入っている。
空の色が変わり始めた。紫が薄くなり、東の稜線に光の筋が差し始める。
「そろそろだ」
白夜さんが言った。
そして——刻印が変わった。
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睦月さんの右腕にあった刻印が、じわりと動いたそうです。
黒い紋様——読めない、意味のわからない印——が、溶けるように崩れた。輪郭が揺らいで、別のかたちに組み替わっていく。虫が蠢くような動き方で、気持ちのいいものではなかったと。
数字が浮かび上がった。
九十。
白夜さんの肩の刻印も、泉水さんの左手の甲も、清十郎さんの二の腕も、同時に。四人とも、同じ数字。
「九十」
清十郎さんが呟いた。
「昨夜の喜兵衛の話では、神の体が砕かれた数が九十だったな」
「今日、この結界の中に出る欠片の数だ。明日になればまた変わる。減る。毎日減っていく」
「参加者は何人いるんだ」
「正確にはわからねえ。ただ、欠片より参加者のほうが多いのは間違いない。前もそうだった。九十の欠片に対して百以上はいたと思う」
「百以上……」
清十郎さんは盆地を見渡したそうです。朝の光が差し始めた京の町。あの町のどこかに、百人以上の参加者が散らばっている。
「影の手に掴まれて刻印がついた者が参加者——訳もわからず巻き込まれた者が大半か」
「ああ。前もそうだった。何が起きたかわからないまま、初日で消える奴が一番多い」
「だが、知っていて参加した者もいる」
清十郎さんの目が細くなった。
「織姫だ。あの女は『もうすぐ始まる』と言っていた。儀の存在を知っていて、自ら参加している」
白夜さんは頷いた。
「それともう一つ」
清十郎さんの声が少し低くなった。
「影の手を集めていたのも幕府だ。儀の存在を知った上で、参加者を意図的に確保していた。——幕府側の参加者は相当数いるだろう」
「まあ、そうだろうな」
白夜さんはさほど気にしていない様子だったそうです。
「ただし、幕府の手勢は敵ではない。少なくとも今は。俺たちも幕府の指示を受けている」
泉水さんがここで口を開いたそうです。穏やかな声で。
「僕たちは捨て駒、ということですかね」
沈黙。
清十郎さんは泉水さんを見なかった。否定もしなかった。ただ、こう言ったそうです。
「——任務は任務だ。生き残れと言われたなら、生き残る」
睦月さんが「はい」と答えた。短く。迷いなく。
二人とも、泉水さんの言葉には触れなかった。触れる必要がなかったんでしょう。わかっていることを、わざわざ口にする意味はない。
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「——欠片の見つけ方を見せる」
白夜さんは自分の肩の刻印に、右手の指先を当てた。そのまま短刀で掌を薄く切る。血が滲んだ。その血を、刻印に擦りつけた。
白夜さんの目の色が変わったそうです。瞳の色がすうっと赤みを帯びて——薄い朱色。血の色。
そして白夜さんだけに、それが見えた。
京の盆地のあちこちから、煙のようなものが立ち上っている。黒い、ゆらゆらとした柱。瘴気です。地面から空に向かって、細く、高く。二本、三本、五本——数えきれない柱が、盆地のそこかしこに立っていた。
「見えた。——欠片の場所を示す柱が立ってる。結界の中じゅうにな」
「俺たちには見えないが」
「ああ。刻印に自分の血をかけた本人にしか見えない。ただし長くは持たない。線香が一本燃え尽きるかどうかってところで消える。次に使えるまで一刻くらいかかる」
清十郎さんが目を細めたそうです。すぐに暗算したんでしょう。
「日暮れまでだと、四回か五回。——貴重だな」
「ああ」
「他の参加者も、同じやり方で欠片が見えるようになるのか」
「刻印に自分の血をかけた奴だけな。でも事前にやり方を知ってる奴はすぐ使うだろうし、知らなくても刻印に血がついた拍子に偶然気づく奴もいるだろ。遅かれ早かれ、他の参加者も柱を頼りに動き始める」
「つまり、柱が密集している場所には参加者も集まる。——奪い合いになるな」
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「確認する」
清十郎さんが口を開いた。声の調子が変わった。作戦を組むときの声です。
「俺たちの目標は、日暮れまでに四つの欠片を確保すること。一人一つ。今日は九十もある。数だけ見れば余裕があるが、他の参加者も同じものを狙っている」
清十郎さんはそこで一度言葉を切り、盆地を見渡したそうです。
「欲張る理由はない。四つ確保したら深追いしない。余計な戦いを避けて、全員で日暮れを迎えることだけを考える。——異論は」
白夜さんが鼻を鳴らした。
「ねえよ。俺も面倒ごとは嫌いだ」
泉水さんが頷く。睦月さんも。
「では二手に分かれよう——俺と睦月。白夜と泉水。二人一組なら戦いになっても対処できるし、検知をずらして使える。検知を二人で交互に使えば、一刻ではなく半刻ごとに確認ができる」
白夜さんは何も言わなかった。異論がないのか、どうでもいいのか。たぶん後者でしょう。
「俺と睦月が清水方面を回る。お前たちは鴨川沿いだ。——目標は一組三つ。片方が取りこぼしたときの保険に、多めに確保しておく」
「了解です」
泉水さんが答えた。任務を確認するときの声だった。
「集合は申の刻。鴨川の西岸、五条と四条の間に柳が並んでいるところがある。日暮れの一刻前だ。全員分の欠片を持ち寄って確認する。足りなければ、残りの時間で手を打つ」
そこで、白夜さんの検知が消えたそうです。目の色がいつもの気だるい灰色に戻る。柱はもう見えない。
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きれいな朝でしたよ。
あたしは店の裏口から空を見上げていたんですが——赤い月は見えませんでした。朝の光に隠れて、見えない。でも、あるんですよ。六つ。空のどこかに。
あたしにできることは、飯を炊いて、出汁を引いて、帰ってくる人たちのために膳を用意しておくことだけです。
四人分。
四つの膳を用意して、あたしは待ちました。
——全員が帰ってくることを、祈りながら。
え? あたしが祈るのかって?
そりゃ祈りますよ。客が死んだらツケが回収できないでしょう。
……冗談ですよ。
——半分は。




