第10話 任務
さて、清十郎さんと睦月さんのほうです。
二人が目指したのは、結界の淵に近い地域でした。
山の上から見たとき、柱の数が少なかった方角。欠片が少ないということは、競争相手も少ないだろうと。ただし、結界に近いぶん、別の危険がある。
清十郎さんは黙って歩いていた。あの人は無駄口を叩かない人です。前だけを見て、足音を殺して歩く。額の傷が朝日に白く光っている。
睦月さんも黙っていた。五歩後ろ。目は周囲を警戒している。
「検知を使う。——睦月、先にお前が使え」
「はい」
睦月さんは右腕の刻印に、短刀で切った指先の血を擦りつけた。
何も起きなかったそうです。
目の色が変わらない。柱も見えない。刻印が血を弾くように——滲みはするのに、反応しない。
もう一度やった。深く切って、多めの血をつけた。
変わらない。
「……すみません。動作しません」
「……」
清十郎さんは睦月さんの刻印を見た。血がついている。手順は間違っていない。白夜さんと同じことをしているのに、反応がない。
「謝ることではない。何か発動の条件があるのかもしれん」
「でも、これでは——」
「朝、山の上から柱の位置は確認した。大まかな方角はわかっている。検知なしでも、ここまで来れば地道に探せるだろう」
清十郎さんはそれ以上追及しなかった。使えないものは使えない。嘆いても状況は変わらない。
睦月さんは自分の右腕を見ていた。血に濡れた刻印。同じ刻印なのに、なぜ自分だけ。
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結界の淵は、思っていたよりも近かった。
東山の裾を南に下って、宇治の方角に向かっていくと、風景が変わる。木々が途切れて、田畑が広がる。その先に——
黒い帯が、たなびいている。
山の上から見たときは遠くにぼんやりと見えていたものが、近づくと全然違う。
霧じゃないんです。色が違う。質が違う。空気が——重い。近づくほどに、体が重くなるような感覚があったと睦月さんは言ってました。胸が圧されるような。耳の奥がざわざわするような。
黒い帯の向こうは、普通の風景が続いている。田んぼ。道。遠くに家屋。
その普通の風景の中を、農夫が一人歩いていた。鍬を担いで、あぜ道を。黒い帯の中を、何事もなく通り抜けて、こちら側に出てきた。
農夫にはあの黒い帯が見えていない。
すれ違いざまに「おはようさん」と声をかけられたそうです。清十郎さんが小さく頷いた。農夫は何も気づかずに歩いていった。
非参加者には見えない。非参加者は行き来できる。
参加者だけが、あの淵の向こうに出られない。
「……」
睦月さんは黒い帯の際に立っていたそうです。手を伸ばせば届く距離。帯の表面がゆらゆらと揺れている。水面のようでもあり、煙のようでもある。
——その中で、何かが蠢いている。
目、だったそうです。無数の目。帯の向こう側に、黒い影がいくつも浮かんでいて、その影の表面に、ぎょろりとした目が光っている。こちらを見ている。待っている。
「……あれが、影ですか」
「近づくな」
清十郎さんの声は硬かった。
「あの向こうに出たら、二度と戻れん」
影の目がね、睦月さんを見つめていたそうですよ。何の感情もない目。飢えでも怒りでもない。ただ、そこにいる参加者を、じっと見つめている。獲物を待つというのとも違う。もっと——もっと古い何か。
ちょうどあたしの店に野良猫が来るでしょう。猫が塀の上に座って、ただじっと庭を見ている。魚を狙っているわけじゃない。ただ、見ている。何を考えているのかわからない。人間には理解できない。——あれに近い。
ただし、あの影に掴まれたら、猫にかじられるのとは訳が違いますがね。
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結界の淵に近い場所で、欠片を一つ見つけた。
竹藪の中。折れた竹の根元に、埋もれるようにして。
欠片を拾い上げた睦月さんの手に、あの脈動が伝わる。とくん。とくん。
「……一つ確保」
「よし。集合場所に戻る。急ぐぞ」
日はもう高く上がっている。昼過ぎ。集合は申の刻——日暮れの一刻前。まだ時間はあるが、余裕があるわけじゃない。
清十郎さんが先を歩く。睦月さんが後ろからついていく。竹の葉が風に鳴っている。
竹藪を抜けて、畦道に出たところだった。
前方から、足音が聞こえた。
重い足音。地面が揺れるような。一歩ごとに砂利が跳ねている。
清十郎さんが立ち止まった。
畦道の向こうから、巨大な影が近づいてくる。
卯之助だった。
顔の右半分が焼けただれている。昨日、白夜さんの炎で焼かれた跡がそのまま残っている。皮膚が赤黒く泡立って、右目の周りが引きつれている。
それでも笑っている。獲物を見つけた笑い。参加者が二人、畦道の上を歩いている。欠片を持っているかもしれない。それだけで十分だった。
「よぉ! いたいた、こんなとこにも虫がいやがる」
足が速くなる。歩きから、小走りに。畦道が揺れる。
清十郎さんは刀を抜いた。短刀を逆手に。重心を落とす。
卯之助の足が——止まった。
笑みは消えていない。でも、目の動き方が変わった。清十郎さんの全身を、上から下へ。黒い装束。短刀の構え。無駄のない重心の落とし方。
あの日の五条大橋。あの女の剣も、こういう構えだった。急所を突く、あの嫌な間合いの取り方。
「……あ?」
卯之助の口の端が、じわりと上がった。
「その構え——鴉か」
清十郎さんは答えなかった。
「面がねえから一瞬わかんなかったが、その黒い格好と、その剣。見覚えがあるぜ」
卯之助は首を鳴らした。ごきり、と太い骨の音。焼けた右頬がひきつる。あの火傷が痛むのか——いや、痛みで笑っているのか。区別がつかない。
「昨日の橋で、あの狐と一緒にいた連中だろ。……ああ、嬉しいねぇ」
一歩。地面が鳴った。
清十郎さんが口を開いた。短く。
「睦月。お前は欠片を持って走れ」
「しかし——」
「命令だ」
清十郎さんの声にね、迷いがなかったそうです。状況を見て、判断して、指示を出す。隊長の仕事。
「俺が時間を稼ぐ。集合場所に行け」
睦月さんは一瞬だけ清十郎さんの背中を見た。織姫の糸で切られた腕と肩に布が巻かれている。朝から血が滲んでいた。万全じゃない。
「走れ!」
睦月さんは走り出した。
欠片を懐に押し込んで、来た道を戻るように。竹藪の方角ではなく、北東——東山のほうへ。結界の淵から離れる方向へ。
背後で、金属がぶつかる音がした。清十郎さんの刀が卯之助の拳を受けた音。鈍い音。重い音。
続けて二度、三度。清十郎さんの剣は速い。しかし卯之助の体は分厚い。急所を突いても、浅い。
睦月さんは走っている。走っている。畦道を走っている。息が荒い。汗が額から顎を伝って落ちる。
背後で、何かが砕ける音がした。
地面を叩く音。人の体が何かにぶつかる音。
睦月さんの足が——止まった。
走れ。走れ。命令だ。欠片を持って、集合場所に行け。それが任務だ。清十郎さんの判断は正しい。二人で残っても勝てない。一人が欠片を持って逃げるのが最善だ。
わかっている。
背後で、もう一度。体が地面に叩きつけられる音。
走れ。
足が動かない。
睦月さんは振り返った。
「清十郎さん!」
走った。来た道を。引き返した。
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清十郎さんは畦道の端で刀を構えていた。
片膝をついている。左肩から血が流れている。卯之助の拳を受けて、体ごと弾かれたのだ。それでも刀は手放していない。
卯之助が迫る。一歩。二歩。地面が震える。
「いい根性じゃねえか。——でもよぉ、そろそろ終わりだぜ?」
清十郎さんは卯之助の正面に立ちながら、横に動いていた。少しずつ。卯之助の体を盾にして、睦月さんが逃げた方角を塞がないように。
そこに、睦月さんが戻ってきた。
清十郎さんの目が動いた。一瞬だけ。
何も言わなかった。怒りも、失望も、顔には出さなかった。ただ、一瞬だけ目を閉じた。
卯之助が睦月さんを見た。
黒い装束。短刀を握った手。さっきの男と同じ構え。同じ剣。
「——おお」
卯之助の顔が、ゆっくりと歪んだ。笑みが深くなる。焼けた頬の傷が引きつれて、歯が見えた。
「戻ってきたのかよ、鴉女」
逃げた獲物が戻ってくるのが、あの男には楽しいんでしょう。——あたしにはちょっとわからない感覚ですがね。
「嬉しいぜ。昨日の分もまとめてやってやる」
巨体が方向を変えた。睦月さんに向かって突進する。
清十郎さんが間に入った。
卯之助の拳が来る。清十郎さんの刀が弾く。しかし重い。重すぎる。足が滑る。後ろに下がる。
背中に——あの空気を感じたそうです。重い。圧される。耳の奥がざわざわする。
結界の淵。
知らないうちに押し込まれていた。卯之助の圧力に後退するうちに、結界の境目まで来ていた。
卯之助はそれを知っていたのか。それとも偶然か。——たぶん、偶然でしょう。あの男にそこまでの計算はない。ただ、殴りたい方向に殴っていただけだ。
「清十郎さん! 後ろ——!」
清十郎さんは振り返らなかった。振り返る必要がなかった。背中で感じている。黒い帯。影の目。
卯之助のもう一撃が来る。
清十郎さんは——受けなかった。
刀を引いて、体を開いて、卯之助の拳をすり抜けるように避けた。同時に左手で睦月さんの肩を掴んで、前に——結界の内側に向かって、突き飛ばした。
睦月さんの体が転がった。畦道の泥の上に。
顔を上げたとき、清十郎さんは結界の向こう側にいた。
黒い帯を、一歩、越えていた。
「——清十郎さん!」
影が動いた。
黒い帯の中の無数の影が、一斉に清十郎さんに向かった。手が伸びる。何十本もの、黒い手。足首を掴む。膝を掴む。腰を、胸を、腕を。
清十郎さんの体が沈んでいく。泥に沈むように。黒い影の中に、ゆっくりと。
抵抗はしなかったそうです。
刀を握ったまま。背筋を伸ばしたまま。
影に引きずり込まれながら、清十郎さんは振り返った。
睦月さんを見た。
「——任務を、全うしろ」
声は静かだった。
……清十郎さんはね、最後まであの人でしたよ。
「任務を全うしろ」。隊長の言葉です。鴉衆の命令です。あの人には、それ以外の言い方ができなかったんでしょう。
でもね、あたしはあの夜のことを覚えてるんですよ。伝令の紙を読んだあと、面を外させたときのこと。「目立つから」とだけ言って、本当のことは言わなかった。
あの人はいつもそうだった。気持ちを、任務の言葉に包んで渡す人だった。
「任務を全うしろ」。あれが——清十郎さんなりの、最後の言い方だったんだと思いますよ。
影が清十郎さんの顔を覆った。目が見えなくなった。口が見えなくなった。
消えた。
死体は、残らなかった。




