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第11話 追跡者

 畦道に、睦月さんだけが残された。


 清十郎さんがいた場所には何もない。黒い帯が揺れている。影の目がいくつも光っている。——でもそれだけだ。血の一滴も、刀の欠片も、布の切れ端も、何も残っていない。


 人が消えるということの意味を、睦月さんはこのとき初めて理解したんだと思います。


 死体があれば、まだ納得ができる。血が流れていれば、傷があれば、動かなくなった体があれば——その人がここにいたという証拠が残る。でも儀では何も残らない。さっきまで隣にいた人間が、声も形もなく、消える。


 ——ただし、考えている暇はなかった。


 卯之助がまだいる。


「あーあ。つまんねえ終わり方だなぁ」


 畦道の向こうで、卯之助が首を鳴らしている。焼けただれた右頬が引きつっている。


「もうちょっと楽しめると思ったんだがなぁ。——で?」


 目が、睦月さんに向いた。


「次はお前だぜ、鴉女」


 睦月さんは立ち上がった。膝が震えている。左腕の傷がまだ痛む。短刀は手にある。


 勝てない。わかっている。清十郎さんでも正面からは抑えきれなかった相手だ。暗殺の剣では。


 走るしかない。


 睦月さんは畦道を外れて、竹藪に飛び込んだ。


---


 竹藪の中を走る。


 竹が密集している。人間一人がやっと通れる隙間を縫うように。枝が顔を打つ。葉が視界を塞ぐ。足元は落ち葉と泥で滑る。


 背後で竹がへし折れる音がした。


 卯之助が追ってきている。竹藪の隙間を通れないなら、竹ごと折って進む。それだけの力がある。バキバキと、木の骨が砕けるような音が続いている。


 速くはない。竹が邪魔で、あの巨体では睦月さんほど速く動けない。


 でも、止まらない。


「逃げろ逃げろぉ! 追いかけっこだぁ!」


 嬉しそうな声だった。追いかけること自体を楽しんでいる。獲物が逃げれば逃げるほど、仕留めたときの快感が増す。そういう人間です。


 竹藪を抜けた。


 山道に出る。斜面を駆け上がる。足場が悪い。石が転がる。木の根に足をとられる。


 背後で、竹藪を突き破って卯之助が出てきた音がした。振り返る余裕はない。


 山道の曲がり角を折れた。


 ——急に、足音が止まった。


 卯之助の足音が聞こえなくなった。追ってきていない。止まったのか。諦めたのか。


 違う。


 睦月さんは走りながら気づいたそうです。卯之助は足を止めて、何かをしている。


 少し離れた場所から、卯之助の声が聞こえた。低い声。独り言。


「——へへ。見えたぜ」


 検知だ。


 卯之助が自分の刻印に血をつけた。目が赤く染まっている。瘴気の柱が見える状態。


 つまり——睦月さんが持っている欠片の位置が、卯之助にも見えている。


 走っても無駄だ。どこに逃げても、欠片が柱を立てている。卯之助はそれを追えばいい。目視で方角がわかる。距離もおおよそわかる。


 鬼ごっこですらない。目隠し鬼の目隠しが外れている。


「そっちかぁ! 山のほうだなぁ!」


 足音が再開した。まっすぐ、こちらに向かってくる。迷いなく。


 睦月さんは走った。山道を上がった。脇道に逸れた。藪を抜けた。方向を変えた。


 無駄だった。


 卯之助の足音は、常に正しい方角から聞こえてくる。欠片を捨てれば追跡は止まる。でも捨てたら、今日の日暮れに消える。清十郎さんが命を懸けて守らせた欠片を捨てることは——。


 杉林に入った。木が太い。幹の間を縫うように走る。卯之助の巨体なら、この林でも速度が落ちるはず。


 背後の足音が遠くなった。少し距離が開いている。


 睦月さんは走り続けた。肺が焼ける。汗が目に入る。左腕が痛い。足がもつれる。


 どのくらい走ったか。四半刻か。半刻か。


 背後の足音が——消えた。


 立ち止まる。息を殺す。心臓の音がうるさい。木々の間から空が見える。太陽が西に傾きかけている。鳥が鳴いている。


 遠くで、舌打ちが聞こえた。


「——ちっ。切れやがった」


 検知の時間切れだ。


 線香一本分。白夜さんが言っていた。あの時間が過ぎたのだ。卯之助の目からは、もう柱が見えなくなっている。


「運がよかったなぁ、鴉女」


 声が遠い。追ってこない。見えなくなった獲物を、勘だけで追い続けるのは効率が悪い。卯之助にもそのくらいの判断はできる。


「——次はねえからな」


 足音が遠ざかっていく。


 睦月さんはその場に崩れ落ちたそうです。杉の根元に背中をつけて、座り込んだ。立てなかった。


---


 どこかの祠の影で、睦月さんは息を潜めていた。


 杉林を抜けて、少し歩いた先にあった小さな祠。苔むした石の屋根。中には首のない地蔵。蜘蛛の巣。誰も来ない場所。


 座り込んで、壁に背中を預けた。荒い息を吐く。吸う。吐く。呼吸が整わない。汗が冷えて、黒装束の下で肌がざらついている。


 手が震えている。


 右手に、欠片を握りしめている。脈打っている。とくん、とくん。自分の心臓より遅い。落ち着いた脈だ。さっきまで人が死んだことなど知らないかのように、規則正しく。


 祠の中は暗い。首のない地蔵が、何も見ていない目で座っている。蜘蛛の巣が風に揺れている。遠くで、鳥が鳴いている。光が石の隙間から細く差し込んで、睦月さんの手元だけを照らしていた。


 欠片を見つめている。


 この欠片を持って逃げていれば。


 清十郎さんは時間を稼いで、その間に自分は集合場所に向かう。清十郎さんも卯之助をいなして離脱する。それが計画だった。清十郎さんの判断は正しかった。あの場で最も多くの人間が生き残れる選択だった。


 私が戻らなければ。


 清十郎さんは卯之助を正面に置いたまま、横に動いていた。逃げ道を作っていた。睦月さんが十分に離れたら、自分も撤退するつもりだった。


 睦月さんが戻ったことで、状況が変わった。


 庇う対象が目の前に現れた。卯之助の注意がそちらに向いた。清十郎さんは睦月さんと卯之助の間に体を入れなければならなくなった。そのぶん、後ろに下がることになった。結界の淵まで。


 私が、戻ったから。


 手が震えている。止まらない。欠片の脈動と、自分の手の震えと、どちらがどちらかわからなくなる。


 顔が濡れていた。汗なのか、それ以外の何かなのか。袖で拭った。拭っても止まらなかった。


 ——昨日の夜。清十郎さんが面を外させたとき、睦月さんは一瞬ためらった。面をつけていれば鴉衆でいられる。任務に徹する自分でいられる。


 今、面はない。あるのは自分の素顔と、震える手と、脈打つ欠片だけだ。


 鴉衆の面をつけていたら、こんなふうに震えなかっただろうか。面の下に感情を押し込めて、走り続けられただろうか。


 わからない。


 わかっているのは、清十郎さんの最後の声だけだ。


 ——任務を、全うしろ。


 あの声が、鉛のように腹の底に沈んでいる。


 睦月さんは目を開け、立ち上がった。


---


 睦月さんは立ち上がった。


 袖で目元を拭って、息を整えた。手はまだ震えていた。でも、立った。


 集合場所に向かわなければならない。白夜さんと泉水さんが待っている。欠片を届けなければならない。


 祠を出た。


 西に傾いた日が、杉林の隙間から斜めに差し込んでいる。木の影が長い。虫の声が戻ってきていた。


 睦月さんは歩き出した。北東へ。東山のほうへ。


 右手に欠片を握ったまま。とくん、とくん。脈打っている。

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