第12話 狩り
さて。同じ日の、少し前の出来事です。
朝方、白夜さんに矢を射って、弓の弦を焼かれて逃げた男です。あの男はまだ生きてました。
東山の寺町を歩いていた。欠片を持った参加者を探して。高い場所から飛び道具で仕留めるのが得意な男ですが、弓がない。代わりに短刀の刃に毒を塗って、隠れて待ち伏せる算段だったようです。
五条のあたりの寺の前を通りかかったとき、男は足を止めた。
境内に、人影があった。
松の木の根元に、誰かが座っている。赤と黒の着物。女だ。一人。
——獲物だ。
男はそう思ったんでしょうね。女が一人、寺の境内にぽつんと座っている。欠片を持っているかもしれない。持っていなくても、殺しておけば競争相手が一人減る。
男は短刀を抜いた。刃に毒を塗った。
境内に足を踏み入れた。
石畳。苔。松の幹が並んでいる。石灯籠が二つ。奥に鳥居。静かだった。鳥の声もしない。虫の音もない。
——静かすぎる、と。
あの男はそこで気づくべきだったんですよ。寺の境内ってのは普通、鳥がいるもんです。鳩やら雀やら。それが一羽もいなかった。虫も鳴いていない。音がない。
男は気づかなかった。松の陰に身を隠しながら、女に近づいていく。あと十歩。あと五歩。短刀を握る手に力が入る。
冷たい。細い。見えない。
糸だった。
見下ろしたときにはもう遅かった。足首だけじゃない。膝にも。もう片方の足にも。いつ張られたのかわからない糸が、境内の石畳の上を、蜘蛛の巣のように這っていた。
男が声を上げようとした。口を開いた。
喉に糸が巻きついた。
音が出ない。息が通らない。吹き矢の筒が手から落ちて、石畳の上で乾いた音を立てた。
膝から崩れた。糸が腕を取り、胸を締め、体を起こすように——吊り上げた。
松の枝から垂れた糸に、男の体がゆっくりと持ち上げられていく。足が地面を離れた。
「——あら」
声が聞こえた。低くて、甘い声。
松の根元に座っていた女が、指先をちらりと動かしただけだった。
「毒の匂いがしたから、少しは面白いかと思ったんだけど」
女は立ち上がりもしなかった。座ったまま、吊り上げられた男を見上げて、首を傾げた。
「——つまらないわね」
指が動いた。
糸が締まった。
音はなかったそうです。
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その頃には、境内の奥に吊るされた体はもう何人分にもなっていたそうです。松の枝に。鳥居の梁に。蝶の標本のように。
毒矢の男だけじゃない。将軍の手勢——景虎の部下たちが何人か、欠片を複数持って行動していた一団が、この境内を通ろうとして糸にかかっていた。
織姫はその中の一人の懐から欠片を取り出して、眺めていた。
「ふうん。今日はたくさん集まったわね」
欠片を弄びながら、巣にかかった死体を見上げる。つまらなそうに。
「……でも、すぐに壊れちゃう獲物ばかり。つまらないわね」
織姫は欠片を放り上げて、受け止めた。
「あの狐のほうがよかった。切っても切っても治るの。——あれはよかったわ」
境内の入り口から、足音が聞こえた。重い足音。
卯之助が戻ってきた。右の頬は焼けただれたまま。機嫌が悪い顔をしている。
「畜生。逃げられたぜ」
「あら、お帰り。——追いかけっこ?」
「鴉の女だ。欠片持って走りやがった。検知で追いかけたが時間切れだ」
「ふうん」
織姫は興味なさそうに欠片を弄んでいる。
「お前のとこは派手にやったなぁ」
卯之助は境内を見回した。糸に吊るされた死体。血が石畳に筋を作っている。卯之助はそれを見て——笑った。
「こっちは二人しか殺れなかったってのによ。一人は黒いのに飲まれたし。つまんねぇ」
「二人? 影に飲まれたのは殺したうちに入らないわよ」
「うるせえな。手は出したんだ。——で、あの鴉女、明日もいたら俺が潰す。約束だからな」
「好きにすれば? あたしはもっと面白い獲物を探すわ」
織姫は立ち上がった。糸がしゅるしゅると指に巻き取られていく。巣が消えていく。死体だけが残って、支えを失った体が、どさ、どさと境内に落ちた。
「——明日は欠片が減るわね。そうすると、みんな必死になる。必死な顔って好きなの。目が綺麗になるのよ、追い詰められた人間って」
織姫は石段を降りていく。卯之助がその後をついていく。夕暮れが近い。空が赤い。
境内には死体だけが残されたそうです。
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もう一つ、別の場所の話を。
二条城。
将軍——徳川家治は、この日を上機嫌で過ごしていたそうです。
本丸御殿の奥。畳の上に、欠片が並べてある。配下が集めてきたものです。十いくつ。将軍は自分の分を一つ手に取り、残りを田沼に管理させていた。
碁盤の上に配置するように、欠片を畳に並べている。大きい順に。形ごとに。何の意味があるかはわかりませんが——将軍は碁や将棋が好きな人ですからね。並べること自体が楽しかったのかもしれない。
「上様。本日の集計でございます」
田沼が控えている。巻物を広げて、帳簿のように。
「配下の参加者三十名のうち、二十四名が欠片を確保。うち十八名が二つ以上。余剰分が上様のお手元にございます」
「六名が一つしか取れなかったのか」
「はい。東山方面で何者かに襲撃された者が数名。欠片を奪われております」
「ふん」
将軍は欠片を弄びながら、田沼を見た。
「織姫とやらか」
「おそらくは」
「放っておけ。明日は減るのだろう、欠片の数が。——六名のうち何人かは消えるだろうが、残りが働けばよい」
将軍の声にね、怒りはないんですよ。苛立ちもない。駒が六つ減るかもしれない。それだけのこと。帳簿の数字が一つ変わるのと同じ感覚で言っている。
「時継」
将軍が呼んだ。
座敷の隅で、時継が縮こまっていた。畳の縁を指でなぞっている。視線を上げない。
「茶を持て」
「は、はい……」
時継が立ち上がる。膝が少し震えている。茶器に手を伸ばして——茶碗を落としそうになる。かろうじて両手で受け止めた。
「……まったく。その手の震えはなんだ。余の影武者が、そんな体たらくでどうする」
「申し訳ございません……」
「影武者ならば堂々としろ。余を演じるのだぞ」
「は、はい……」
時継が震える手で茶を注いでいる。将軍はそれを見もしない。もう興味を失っている。
田沼だけが、時継をちらりと見た。
——あの目がね、あたしにはちょっと引っかかるんですよ。
田沼が時継を見る目。あれは「使えるかどうか」を測る目でした。景虎が白夜さんを見た目と同じ種類の。ただし、田沼のほうが——もう少し、長い目で見ていた。もう少し先の帳簿を、頭の中で広げていた。
そんな気がしたんですが。
まあ、あたしの勘が当たるとは限りませんがね。
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睦月さんが集合場所に着いたのは、ぎりぎりだったそうです。
日が暮れかけていました。
鴨川の西岸。四条と五条の間の、柳が並ぶあたり。約束の場所に、白夜さんと泉水さんがすでにいた。
白夜さんは柳の幹にもたれて座っていた。左腕に包帯が巻かれている。泉水さんはその隣で、川面を見つめていた。
睦月さんが畦道のほうから現れたとき、白夜さんが目を開けた。
「……遅かったな」
泉水さんが立ち上がった。
「睦月さん! よかった、無事で——」
泉水さんの言葉が止まった。
睦月さんは一人だった。
「……清十郎さんは」
睦月さんは答えなかったそうです。
懐から欠片を取り出して、差し出した。一つ。
白夜さんは睦月さんの顔を見た。目を。
何も聞かなかった。
泉水さんが「……そう、ですか」と言った。小さな声で。欠片を受け取る手が、少し震えていた。
「これで四つ。——全員分、あります」
白夜さんは何も言わない。懐から三つの欠片を出して、一つを睦月さんに渡した。一つを泉水さんに。一つを自分で持った。
「……もうすぐ日暮れだ」
それだけ言った。
鴨川の水面が茜色に染まっている。柳の葉が風に揺れていた。
睦月さんの手が、まだ震えていたそうです。
——次の話は、あの夕暮れの先のことです。




