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第13話 逢魔時

 集合場所で合流した三人は、鴨川沿いを北に歩いていたそうです。


 日が傾いていた。西の山の稜線に太陽がかかりかけていて、鴨川の水面が橙に染まっている。川沿いの柳の葉が風に揺れて、その影が水面を滑っていく。


 白夜さんが先を歩いている。左腕の包帯に血が滲んでいる。不死じゃなくなった腕。でも歩き方はいつもと変わらない。


 泉水さんが半歩後ろ。睦月さんはさらにその後ろ。三人の間に会話はなかった。


 町はちょうど夕暮れ時の匂いがしていたそうです。どこかで夕飯の支度が始まっている。味噌の匂い。炭の匂い。子供を呼ぶ声が遠くから聞こえる。家路を急ぐ人たちが橋の上を行き交っている。


 何の変哲もない、京都の夕暮れです。


 ——ただし、白夜さんだけは空を何度もちらちら見ていたそうです。太陽の位置を確認するように。


 それに気づいた泉水さんが聞いた。


「白夜さん。贄の刻って、いつ来るんですか」


「逢魔時。日が沈むか沈まないかの頃だ」


「もうすぐですね」


「ああ」


 白夜さんの声がいつもより短かったそうです。


---


 鴨川の四条あたりまで来たとき、路地の向こうから嫌な気配がした。


 白夜さんが足を止めた。鼻がぴくりと動いた。狐の鼻は利くんですよ。


「——おい」


 路地の暗がり。排水溝の端。じめっとした空気。そこに泥のような体がぬるりと滲み出てきた。


 花巻です。


「よぉ、白夜」


 あの粘つく声。ねっとりとした、絡みつくような調子。泥の表面がてらてら光っている。


「不死じゃなくなったんだってなぁ」


 花巻の顔——顔らしきものが、にぃっと裂けた。あの笑い方です。前に見たのと同じ。ただし、今回は声の色が違った。前は口先だけだった。からかって、突いて、反応を楽しんでいた。今回は——底のほうに、何かある。


「ずっと見てたんだぜぇ? 朝から。矢が刺さって、血が出て、治らなかった。見たよぉ。全部見てた」


 白夜さんは溜息をついた。


「……お前なぁ」


「百五十年待ったんだぜぇ。百五十年。お前が不死じゃなくなる日を。——ようやくだ」


 花巻の体が膨れ上がった。泥が泡立つように。体積が倍になる。路地を塞ぐほどの大きさになって、白夜さんたちの前に立ちはだかった。


 泉水さんが一歩引いた。睦月さんが短刀に手をかけた。


 白夜さんは——欠伸をかみ殺した。


「泉水。睦月。下がってろ」


「しかし——」


「いいから」


 花巻が襲いかかった。泥の体から腕が何本も伸びる。不定形だから切っても叩いても形が戻る。泥が飛び散って、壁にべしゃりと張りつく。路地が汚れる。


 白夜さんは一歩横にずれて、腕をかわした。二本目もかわした。三本目が脇をかすめたが——蒼い炎が灯った。右手から。指先から肘にかけて、青白い火が走る。


 火を纏った拳が、花巻の体の中心を貫いた。


 泥が弾けた。蒼い炎が泥の中で燃え上がる。花巻の悲鳴が路地に反響した。


「ぎゃあああああ! あっつ! あっつぅい!」


 花巻の体が半分以上炭化した。残りの泥がびちゃびちゃと地面に広がって、逃げようともがいている。


 白夜さんは追い打ちをかけなかった。右手の炎を消して、火の粉を払うように手をぶらぶら振った。


「……おい花巻」


「ぐ、ぐぅ……」


「お前、欠片は」


「……は?」


「欠片。持ってんのか」


 花巻は泥の体を震わせている。炭化した部分がじわじわと、しかし遅く、再生しようとしている。


「か、欠片ぁ? そんなもん……知らねぇよ……。お前を殺すほうが先だろうが……」


 白夜さんの目がね、ちらりと空を見た。


 太陽が山の稜線に沈みかけている。橙が赤紫に変わりつつある。逢魔時。昼と夜の境。


「……来るぞ」


 白夜さんの声が変わった。


---


 最初に変わったのは水面だったそうです。


 鴨川の水面。夕焼けの赤を映して、橙色に光っていた水面が——濁った。


 濁った、というのも正確じゃないかもしれません。色が変わったんじゃなくて、水面の中に何かが滲み出してきた。黒い。油のような黒が、水面の下から浮かんでくる。


 一つじゃない。


 あちこちで。川面のそこかしこに、黒い染みが広がっていく。


 非参加者には見えていない。橋の上を歩いている町人は、何事もなく歩き続けている。川沿いで涼んでいた老人は、のんびり扇を使っている。子供が石を投げて水切りをしている。石は黒い染みの上を跳ねて——何も起きない。


 参加者にだけ、見えている。


 黒い染みが形を成し始めた。水面から手が伸びる。頭が出てくる。肩が出てくる。人の形をした影が、鴨川の水の中からゆっくりと立ち上がっていく。


 一体じゃない。何十体も。川面じゅうに。


 同時に、路地の暗がりからも。壁の影からも。地蔵の後ろからも。建物の軒下からも。あらゆる影という影から、黒い手が伸び始めた。


 結界の淵で見たあの目。あの影。あれが今、町じゅうに溢れ出している。


「贄の刻だ」


 白夜さんが低い声で言った。


「欠片を持ってろ。離すな。絶対に」


 睦月さんは懐の欠片を握りしめた。脈打っている。とくん、とくん。


 泉水さんも自分の欠片を確認した。「持ってます」と短く答えた。


 影が近づいてくる。


 鴨川から上がってきた影が、川岸をゆらゆらと歩いている。歩いている、というか——滑っている。足があるのかないのかわからない。地面を滑るように、こちらに向かって。


 そして——影が三人の前で止まった。


 影の手が伸びた。白夜さんの懐に向かって。


 白夜さんは動かなかった。


 影の手が懐に入る。欠片を掴む。引き出す。白夜さんの手から欠片が離れる。


「——取られた、じゃなくて、回収されたんだ」


 白夜さんはそう言ったそうです。影に欠片を渡しながら。抵抗するなという意味でしょう。


 睦月さんの前にも影が来た。手が伸びる。黒い指が懐に入る。欠片が引き出される。冷たかったそうです。影の手が触れたところが。骨まで冷たくなるような。


 泉水さんの欠片も、同じように回収された。


 影はそれぞれの欠片を手に取ると、来たときと同じように——滑るようにして去っていった。川に戻るもの。路地に消えるもの。壁の影に溶けるもの。


 そして。


 三人の腕の刻印が変わった。数字が消えて、あの読めない紋様——最初の夜にできた印に戻った。


---


 花巻は。


 花巻は路地の隅で、泥の体を広げたまま倒れていた。半分炭化して、残りの半分がぐずぐずに溶けている。動けない。


 でも生きていた。


 花巻の刻印は——腹のあたりに刻まれていたそうです。数字は、さっきまで出ていた。でも欠片は持っていない。


 影が花巻の前に来た。


 一体。


 花巻の目——目らしきものが見開かれた。泥の体がびくりと震えた。


「……え」


 影の手が伸びた。欠片を探している。花巻の体のあちこちに触れる。ない。欠片がない。


 影の手が止まった。


 そして——花巻の腹へ向かった。刻印のある場所へ。まっすぐに。


 掴んだ。


「待っ——おい、待て、何しやが——」


 泥の体が引きずられていく。路地の暗がりに向かって。影の中に向かって。


 花巻が暴れた。泥の腕を伸ばして地面にしがみつく。石畳に爪の跡が残る。いや、爪じゃない、泥の指が石を削っている。


「やめろ! やめろやめろやめろ! 俺は——俺はまだ——」


 花巻の声が途切れた。


 影が花巻を飲み込んだ。音もなく。泥の体が影の中に沈んでいって、最後にぴくぴくと動いた指先が消えた。


 路地に残ったのは、湿った跡だけだった。


 清十郎さんのときと同じ。何も残らない。声も、形も、影も。さっきまでそこにいたものが、消える。


---


 白夜さんは花巻が消えるのを、最初から最後まで見ていたそうです。


 花巻のことを悼まなかった。茶化しもしなかった。何の表情も浮かべなかった。


 ただ、空を見上げた。


 赤い月。


 ——五つ。


 六つあったものが、五つになっていた。一つ消えている。


「……行くぞ」


 白夜さんはそれだけ言って、歩き出した。


 泉水さんが後を追った。睦月さんも。三人とも無言だった。


 鴨川の水面からは影が消えていた。夕焼けも消えかけて、空は薄い紫色になっている。最初の星が瞬き始めている。


 橋の上では、町人がまだ歩いている。何も知らない。何も見えていない。今の今まで、自分たちのすぐ隣で人が消えたことを、誰も知らない。


 世界は何も変わっていない。


 ——あたしはね、あの日の夕方、店の裏口から空を見上げたんですよ。


 月が五つになっていた。


 ああ、一日が終わったんだと思いました。何人消えたか、数えたくなかった。


 とにかく飯を作らなきゃいけないんです。帰ってくる人たちのために。帳場を閉めて、算盤を置いて、台所に立つ。出汁を引いて、米を炊いて、秋刀魚を焼く。やることは変わらない。人が何人消えようが、飯は炊かなきゃいけない。


 四人分の膳を並べて、あたしは待ちました。


 ——全員が帰ってくると、信じて。

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