第59話 夜明け
蒼い光が、泉水さんの体の中へ走ったそうです。
胸から腹へ。
腹から腕へ。
首を昇って、顎を走って、頬まで。
皮膚の下に、炎の筋が浮かぶ。
血管の代わりに、蒼い道筋が体中に広がっていく。
泉水さんの口から、声にならない息が漏れた。
再生が動こうとしていた。
千年の不死が、体の中へ入った火を押し返そうとしていた。
でも、押し返せなかった。
睦月さんが削り続けた体です。
何度も斬って、何度も再生させて、再生のたびに力を使わせた。
そのうえで最後に、白夜さんが残り全部を流し込んだ。
耐えきれるはず、なかったんでしょう。
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泉水さんの膝が折れた。
ゆっくりと。
白夜さんの手が、胸から離れる。
泉水さんの体が傾いて、片膝から地面についた。
蒼い筋が、体の表面で明滅していたそうです。
光る。
消えかける。
また光る。
でも、だんだん強くなっていく。
蒼が、赤を押し返していく。
泉水さんの指先が、崩れ始めた。
灰でした。
蒼い火に灼かれたところから、一節ずつ、肉が粒子になって散っていく。
風に乗って、琵琶湖のほうへ流れていく。
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泉水さんは、自分の手を見ていたそうです。
指が一本ずつ消えていく。
手のひらが透けていく。
その向こうに、地面の土が見える。
「なんで」
声は、まだ穏やかだったとか。
最後まで、その形を保とうとしていたんでしょうね。
千年間、自分をそう作ってきた人ですから。
「千年、待ったんだよ」
崩壊が手首へ達する。
蒼い灰が、朝前の風に攫われる。
「何回も、何回も、計画を立てて。準備して。朝霧の魂がまた現れるのを待って。雪を見つけて。睦月を見つけて」
一拍。
「——全部、うまくいくはずだったのに」
そこで、声が割れたそうです。
穏やかさの底が、最後の最後でひび割れた。
あたしね、あの人のああいう声、聞いたことがなかったんですよ。
泉水さんの目が、睦月さんを見た。
蒼い灰の向こうから。
崩れかけた体の奥から。
千年分の何かを、全部詰め込んだ目で。
「朝霧」
睦月さんは、黙っていたそうです。
「どうして——僕じゃだめなんだ」
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睦月さんは、泉水さんの前に立っていた。
短刀を握ったまま。
血だらけのまま。
左手の甲の傷も、頬の裂傷も、脇腹の痛みも、全部そのままで。
泉水さんを見下ろしていた。
「私は朝霧じゃない」
静かな声だったそうです。
怒りでも、軽蔑でも、哀れみでもない。
ただ、言った。
「私は睦月です」
それだけでした。
でも、それで十分だったんでしょうね。
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泉水さんの目が、揺れたそうです。
何を見ていたのかは、わかりません。
目の前の睦月さんを見ていたのか。
千年前の朝霧を見ていたのか。
百五十年前の雪を見ていたのか。
あるいは、そのどれでもない、自分がずっと追いかけてきた幻を見ていたのか。
あたしにはわかりません。
たぶん、泉水さん本人にも、もうわからなかったんじゃないですかね。
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崩壊が胸に達した。
蒼い灰が大きく舞い上がる。
泉水さんの体が内側から光って、輪郭が薄くなっていく。
最後に残ったのは、顔でした。
笑っていたそうです。
あの穏やかな笑顔。
柔らかい目。
百膳堂で最初に見たのと同じ顔。
千年間、誰にでも見せていた顔。
それが、蒼い灰になって散った。
風が吹いた。
琵琶湖のほうから。
冷たい、秋の終わりの風。
蒼い灰を攫って、湖のほうへ運んでいく。
山上に、二人が残った。
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白夜さんが、その場に座り込んだそうです。
立てなかったんでしょう。
全力の火を使い切って、体に何も残っていなかった。
両手がぶらんと下がっている。火はもうない。指先すら灯らない。
肩で息をしていた。
吐く息が白い。
秋の終わりの比叡山の朝は、冷えるんです。
睦月さんも、その横に座った。
二歩くらい離れて。
短刀は膝の上に置いた。握ってはいない。ただ、置いた。
二人ともしばらく何も言わなかったそうです。
琵琶湖が下に広がっている。
灰色の水面。
冬手前の、静かな湖。
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空が変わり始めたのは、それから少ししてからだったそうです。
琵琶湖の東の端。
山の稜線の向こうが、白くなる。
白から、薄い橙へ。
橙から、淡い金色へ。
朝日が昇ってきた。
稜線の上に、光の線が走る。
湖面がきらりと光った。
一筋。そこから二筋、三筋。光が水面を渡って、こちらへ向かってくる。
白夜さんが空を見上げた。
赤い月は——もうなかった。
六日間ずっと空にこびりついていた赤黒い月が、一つもない。
重たい気配もない。
結界も、影も、あの甘ったるい腐臭みたいなものも、朝日に溶けるみたいに消えていた。
普通の空です。
白と、青と、橙の。
秋の朝の空。
山の斜面を覆っていた蔦も、色を失っていたそうです。
黒々とうねっていたのが、茶色い繊維になって、乾いた音を立てて崩れていく。
地面に食い込んでいた根も、萎れていく。
ただの山に戻っていた。
比叡山の、ただの、秋の終わりの朝です。
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白夜さんが空を見上げたまま、言ったそうです。
「……月、一つもねえな」
「……はい」
「終わったのか」
睦月さんが、少しだけ息を吐く。
「終わったみたいです」
一拍。
「……そうかよ」
白夜さんは、そこで目を閉じたそうです。
眠ったわけじゃないでしょう。たぶん。ただ、閉じた。
朝日の光が、まぶたの上に落ちていた。
睦月さんは、目を閉じなかった。
琵琶湖の向こうから昇ってくる朝日を、ずっと見ていたそうです。
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山を降りたのは、夜が完全に明けてからだったそうです。
白夜さんは左足を引きずっていた。睦月さんは左肩が上がらない。どっちもまともに立っていられる状態じゃないのに、それでも歩いた。
支え合っていた、というと少し綺麗すぎますかね。
実際は、二人ともふらふらで、たまたま同じくらいぼろぼろだったから、同じ速度で歩けていただけでしょう。
比叡の中腹まで降りたころ、下から声がしたそうです。
兵の声。田沼さんの手勢がまだ残っていたんでしょう。夜が明けるまで、逃げたくても逃げられなかった連中が、山道のあちこちでへたりこんでいた。
その中に、二人。
時継さんと、獅童さん。
時継さんは泥だらけだったそうです。
袴の裾は破けてる。草鞋は片方ない。鼻の頭は擦りむけてる。とても将軍の格好じゃない。
その隣に獅童さん。片腕。着物はぼろぼろ。頭の皿まで欠けていたとか。
でもね。
白夜さんと睦月さんの姿が見えた瞬間、獅童さんの顔が、どうしようもなくぐしゃぐしゃになったそうです。
「う、お、おおおお——!」
雄叫びじゃありませんよ。あれは。
ただの叫びです。
睦月さんが足を止めた。
止めて、もう一度見た。
「……獅童さん?」
一拍。
「獅童さん?! なんでいるんですか」
「生きてんだよ! ずっと生きてたんだよ!」
鼻水まで出してたそうです。天下一の剣士が聞いて呆れる。
時継さんも、あの人一応将軍ですよ? なのにもう、目を真っ赤にして唇を噛んで、でも上手く泣けなくて、肩だけ震えていたとか。あの人はあの人で、不器用なんですよ。
白夜さんは鼻を鳴らしたそうです。
「……片腕かよ」
「なんだコラァ! 天下一に腕の数は関係ねえんだよ!」
睦月さんはそのやりとりを聞いたあと、黙って獅童さんの前へ立って、深く一礼したそうです。
「……ご無事で、何よりです」
獅童さんは、それでまた駄目になったとか。
「お前もな! お前もだよ! っていうか白夜もだ! お前ら、お前らよ……!」
言葉にならなかったんでしょうね。
それ以上は、泣き声みたいな笑い声みたいな、妙な音しか出なかったそうです。
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さて。
ここからは、あたしの話です。
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百膳堂の朝は早いんですよ。
朝の四つ半——今で言うと午前五時ごろですかね。あたしはもう台所にいました。米を研いでいた。竈に火を入れて、出汁を引いて。
あたしは店を閉めなかった。六日間、一日も閉めなかった。客が来る保証なんかない。この辺りは結界の中ですし、日が経つにつれて人通りも減っていた。でもあたしは店を開けた。毎朝。いつもと同じ時間に起きて、いつもと同じ手順で仕込みをして、暖簾を出した。
商人ですからね。店を閉めたら、そこで終わりなんですよ。
それに——帰ってくる人がいるかもしれないでしょう。帰ってきたときに店が閉まってたら、格好がつかない。
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仕込みをしていたら、空が変わったんです。
窓の外。
赤い月が——なかった。
最初は見間違いかと思いましたよ。目を凝らした。ない。どこにもない。六つあったはずの月が、一つもない。
代わりにあったのは、普通の空です。
白くて、うっすら青い、秋の朝の空。
あたしは米を研ぐ手を止めた。
水の中に手を入れたまま、しばらく空を見ていた。
終わったんだ、と思いました。
終わった。
誰が生きて、誰が死んだかは、わからない。でも、終わった。
……それでね。
あたしは栗飯を炊いたんですよ。
鮭の塩焼きとなめこの味噌汁も用意した。昆布の佃煮も小鉢に盛った。
何の変哲もない、いつもの朝飯です。
小鈴には何も言いませんでした。あの子はまだ寝ていた。起こす必要もありません。帰ってくる奴がいるなら、そのとき起きればいい。
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戸が、がらりと開いたのは、朝の五つ半ごろだったと思います。
あたしは帳場にいました。算盤を抱えていました。何を計算してたかって?
知りませんよ。何か計算してたんです。手が空くと落ち着かないんですよ、商人は。
戸が開いた。
朝日が差し込んだ。
白夜さんが立っていた。
血だらけ。着流しはぼろぼろ。右の袖はほとんどない。体中に傷がある。でも立っている。
その横に睦月さん。面はつけていない。素顔。少し汚れて、少し疲れて、左手の甲には布が巻かれていた。血が滲んでいる。
その後ろに獅童さん。片腕。左手に刀をぶら下げたまま、胸を張っていた。
「邪魔するぜ!」
朝からうるさい。
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あたしは三人を見ました。
白夜さんを見た。睦月さんを見た。獅童さんを見た。
三人。
三人、帰ってきた。
小鈴が奥から飛び出してきたのは、その直後だったそうです。あたしは見てません。帳場から動いてませんから。
「獅童さん! お怪我、大丈夫ですか」
獅童さんが固まったそうです。さっきまであれだけ泣いてた男が、小鈴の顔を見た瞬間、急に固まった。
「な、なんの! かすり傷ですよ!」
「腕一本なくなってるんだけど」
白夜さんが横から刺した。
獅童さんが睨んだ。白夜さんは知らん顔で店の奥へ入っていった。
あたしは帳場から立ち上がって、奥に声をかけました。
「三人前!」
声が少し掠れていたのは、風邪気味だっただけですよ。秋の終わりは冷えますからね。
「お兄ちゃん、昨日の夜中に仕込んでたやつ、温め直すね」
小鈴が奥から言いました。
「余計なこと言わなくていいんですよ」
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膳を出しました。
栗飯。鮭の塩焼き。なめこの味噌汁。昆布の佃煮。
白夜さんが初めて睦月さんを連れてきた、一日目の夜に出したのと、ほとんど同じ献立です。
狙ったわけじゃないですよ。
秋の終わりなら栗飯を炊くし、鮭が旬なら塩焼きにする。当たり前のことです。
……当たり前のことですよ。
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白夜さんが食い始めた。
何も言わずに。箸を取って、栗飯を口に入れて、鮭をほぐして、味噌汁を啜る。いつもと同じ。百五十年変わらない食い方。
獅童さんは片手で箸を持とうとして、うまく掴めなくて、小鈴が「持ちましょうか」と言いかけて、獅童さんが「自分で食う!」と言い張って、三回落として、四回目でようやく鮭を口に入れたそうです。目が潤んでいたのは、たぶん味が染みたからでしょう。
睦月さんは——素顔のまま、箸を取った。
一日目の夜、あの人は面を少しだけ上げて食べていた。素顔は見せなかった。鴉衆ですからね。任務中に素顔は見せない。
でも、あの日は違った。
普通の顔でした。
ただの、十七の娘の顔。
箸を取って、栗飯を口に入れて、噛んで、飲み込んで、味噌汁を啜って、鮭をほぐして、口へ運ぶ。
「……おいしい」
小さな声だったそうです。
一日目の夜、あの人は何も言わなかった。おいしいとも、ありがとうとも。箸が少し速くなっただけだった。
でも、あの日は言った。
それだけの違いなんですけどね。あたしには、それで十分でしたよ。
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白夜さんが懐から何かを取り出した。
ことん、と帳場の前に置いた。
薄汚い土器の欠片。脈動はもうしていない。温度もない。ただの土器。茶色くて、汚くて、なんの変哲もない欠片。
「ほらよ。これで足りるだろ」
「……白夜さん、これ、とんでもないものですよ」
「ただの薄ぎたねえ土器だけどな。売れるだろ」
あたしは算盤を手に取りました。
商人の目になる。これはもう習性みたいなものですから。
「保存状態も良い。来歴も唯一無二。骨董としては……」
算盤の玉が鳴る。ぱちぱちぱち。
「ツケ、全額完済ですね」
間。
「おつりが出ますよ」
「お」
「おつりは利息と相殺しますからね」
「……お前なあ」
「お兄ちゃん!」
「冗談ですよ。……半分は」
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食い終わったあと、三人は座敷で寝ました。
白夜さんは座った姿勢のまま壁にもたれて目を閉じた。睦月さんは畳に横になった瞬間に落ちた。鴉衆の人は起きるのも一瞬ですが、落ちるのも一瞬なんですね。
獅童さんだけやたら寝相が悪かった。片腕でうまく体を支えられないのか、ごろんごろん転がって、白夜さんの足の上に乗り上げた。
白夜さんは目を開けずに蹴り飛ばしてました。
小鈴が布団を持ってきて、一人ずつ掛けてましたよ。
あたしは手伝いませんでした。帳場で算盤を弾いてました。
——泣いてたんじゃないですよ。
利息の計算をしてたんです。複利ってのはね、百五十年も溜めるとすごい額になるんですよ。




