↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/60

第60話 帳簿

 それから十日ほどは、ばたばたしてました。


 結界が消えたあとも、京の町は何事もなかったような顔をしてましたよ。当然です。表の人間には赤い月も結界も見えていなかった。


 でも、裏の連中は違う。


 夜中に悲鳴が聞こえなくなった、と気づいた者がいた。影がいなくなった、と気づいた妖怪がいた。


 裏社会のあちこちで噂が流れましたよ。


「終わったらしい」

「今度こそ終わったらしい」

「もう次はないらしい」


 禍神が完全に滅んだなんて、あたしにはわかりません。そんな大層なこと、飯屋の猫に判断できるわけがない。


 ただね。


 あの朝から、夜の匂いが変わったんです。


 枯れ葉と霜の匂いしかしない。あの六日間、底にへばりついていた甘ったるい腐臭みたいなものが、きれいさっぱり消えた。


 まあ、あたしの鼻が言ってるだけですがね。猫の鼻は利くんですよ。


---


 時継さんの話をしましょうか。


 あの人は——そのまま将軍になりました。


 笑っちゃうでしょう。顔が似ていただけの影武者が、祭りのあともそのまま江戸へ戻って、城に座ってる。


 でもね、やってるそうです。


 田沼さんが言ったんですよ。


「あなたが将軍です。誰がなんと言おうと」


 時継さんは泣きそうな顔で——いや、たぶんそのときも泣いてたんでしょうけど——「でも、僕は顔が似ていただけで……」なんて言ったらしい。


 田沼さんは涼しい顔だったそうです。


「顔が似ていただけの男が、化け物だらけの戦場で、自分から囮を買って出た。それを将軍と呼ばずして、何と呼ぶのです」


 いいことを言うでしょう。


 でもね、あたしは商人ですからわかるんですよ。あの人の目は、半分は本気で、半分は算盤を弾いてた。


 小心者で操りやすい将軍。政治のことはよくわからない。これほど都合のいい傀儡はない。実際、その後の田沼さんの出世は恐ろしい速さでしたよ。


 時継さんが何をしてるかっていうとね。


 将棋です。


 朝から晩まで指してるそうです。負けては「もう一局」、勝っても「もう一局」。側近が呆れてるとか。


 でも——まあ、悪くないんじゃないですかね。


 泣きながら逃げて、それでも逃げ切らずに山に残った人です。あの人なりに、背負うものは背負ったんでしょう。


---


 雅楽さんの話をしましょうか。


 ——いや、しなくていいですかね。


 雅楽さんは死にました。


 墓石には名前だけ彫ってあります。戒名はなし。辞世の句もなし。あの人はそういう飾りが嫌いそうだったので。扇子だけ一緒に埋めたと聞きました。誰が入れたのかは知りません。


 時継さんが将軍の名で、雅楽さんの死罪を取り消しました。


 死んでから取り消されても意味があるのかって話ですが、まあ、あの人なりのけじめだったんでしょう。


 雅楽さんが生きてたら何て言いましたかね。


 「へえ、律儀だね。ところで、死人の恩赦って前例あるの? ちょっと面白いかも」


 ——とか言いそうですが。


 まあ、あたしが勝手に言わせてるだけですよ。


---


 片腕をなくしたでしょう、あの人。でもね、全然気にしてないんですよ。


「天下一に腕の数は関係ねえ!」


 って、うちの店で大声を出して、近所の妖怪に「うるせえ河童」って怒鳴られてました。


 あの人ね、村にはすぐ帰らなかったんです。


 京に残った。


 なぜかって?


 先日、獅童さんがうちに来ましてね。昼時を外して、客がいない時間に。そっとあたしのところに来て、こう言うんですよ。


「大将、折り入って相談なんだが」


「はい」


「小鈴殿に……その……おつきあいを申し込みたいんだが……」


 天下一の剣士が、顔を真っ赤にして、残った片手で頭の皿を押さえてる。あの皿ね、河童は恥ずかしいときに水が減るんですよ。干上がりかけてました。


「ああ、いいんじゃないですか」


「ほ、本当か!?」


「三百両」


「は?」


「支度金です」


「た、高すぎねえか!?」


「妹は一人しかいないんでね。値引きはしませんよ」


 獅童さんは本気で悩んでました。片腕で算盤も弾けないのに、指折り数えてましたよ。五本しかない指を三回くらい折り直してた。


 もちろん冗談ですよ。——半分は。


 で、小鈴が奥から顔を出して。


「お兄ちゃん、また変なこと言ってるでしょ」


「変なことなんか言ってませんよ。商談です」


「獅童さん、気にしないでくださいね。お兄ちゃん、お金の話になると加減がなくなるんです」


 獅童さんは小鈴の顔を見て、また固まってました。皿が完全に乾いてた。


 ……まあ、うまくいくんじゃないですかね。知りませんけど。


---


 鴉衆は——まあ、いろいろあって解体されました。


 細かい事情はあたしの口からは言えませんが、将軍が替わって、裏の組織の整理がいくつかあったんでしょう。ああいう汚れ仕事の集まりは、新しい体制には都合が悪かったのかもしれません。


 ともかく、睦月さんは無職になりました。


 生まれてこのかた鴉衆しか知らない人がね、急に「明日から自由です」って言われても困るでしょう。実際、困ってましたよ。


 儀が終わって十日ほど経ったころ、睦月さんがうちに来ましてね。


 黒装束じゃない。普通の着物を着てました。


 あたしはちょっと驚きましたよ。


 儀のあいだも素顔は見ていたんです。面を外してからは、ずっと。でもね、あのときの睦月さんの顔は、まだ戦ってる顔だった。目つきが鋭くて、口元が固くて、いつ刀を抜いてもおかしくない顔。


 でも、あの日店に入ってきた睦月さんは、ただの十七歳の娘でした。


 ちょっと目つきが鋭いのと、手のひらに刀ダコがあるのを除けば。


「喜兵衛さん、その……仕事は、ありますか」


「仕事? うちの? ——洗い場なら人手が足りてませんが」


「やります」


 即答でした。暗殺者から洗い場。落差がすごい。


 でもね、睦月さんはまじめに働きましたよ。皿を割らないし、残飯を出さないし、客が酔って暴れたら刀ダコのある手で首根っこ掴んで外に放り出す。


 最後のは洗い場の仕事じゃないんですが、まあ、助かりました。


「お給金は月末締めの翌月払いです。前借りは利息がつきますからね」


「……はい」


「冗談ですよ」


「……冗談、ですか」


「睦月さん、そういうところですよ」


 冗談が通じない。頑固。まじめ。不器用。


 まあ、あの人はあの人のままでしたね。


 ただね、一つだけ変わったことがある。


 小鈴と二人で洗い場にいるとき、たまに笑うようになったんですよ。声を出して笑うんじゃない。口の端が、ちょっと上がるだけ。


 小鈴が何か言って、睦月さんの口元がふっと緩む。


 鴉衆にいたころの睦月さんには、たぶんなかった顔です。


 あたしはそれを見て——まあ、何も言いませんでしたよ。


 洗い場の様子を覗き見るほど暇じゃない。帳場にいたんです。


 帳場から洗い場は、ちょっと覗けば見えるんですけどね。


---


 白夜さんは——相変わらずです。


 不死じゃなくなりました。


 傷は治らないし、歳もとる。寒い日に古傷が痛むとか、そういう普通のことが起きるようになった。


 でもね、百五十年不死だった男が、急に普通の体になって何が変わったかっていうと、別に何も変わらない。


 ふらっと店に来て、「飯」って言って、食って、出ていく。


 前と違うのは、「ツケで」って言わなくなったことくらいですかね。あと、おかわりするようになりました。


 白夜さんが、おかわりですよ。


 百五十年の付き合いで、あの人が「もう一杯」って茶碗を差し出したの、儀のあとが初めてです。


 不死の体は、たぶん腹が減らなかったんでしょうね。食えるけど、食わなくても死なない。だから前は一膳で終わりだった。


 今は違う。


 普通に腹が減る。普通に食う。普通に勘定を払う。


 それだけのことなんですけどね。あたしとしては、おかわり分の勘定がつけられるので助かってますよ。


 白夜さんと睦月さんが一緒になったかって?


 なりませんよ。そういう話じゃないんです。


 でもね、たまに鉢合わせるんですよ、うちの店で。


 睦月さんが洗い場から出てきて、白夜さんが飯を食ってる。


「相変わらずですね」


「うるせえよ」


 それだけ。それだけの会話で、睦月さんは奥へ戻っていくし、白夜さんは飯の続きを食う。


 恋仲じゃないし、仲間ってのとも少し違う。


 なんて言うんですかね。


 あの六日間を一緒に生き延びた、というだけの関係。


 それ以上でも以下でもない。


 でも——あたしはね、それでいいと思うんですよ。


 だって、白夜さんはもう不死じゃない。歳をとる。いずれ死ぬ。睦月さんも転生なんかしない。一回きりの命です。


 二人ともやっと、普通の時間を生きている。


 その普通の時間の中で、たまに同じ飯屋で鉢合わせて、二言三言交わして、それぞれの帰り道に戻っていく。


 百五十年待ち続けた男と、千年追いかけられた魂が、やっとそれぞれの足で歩いてるんです。


 あたしはそれを、帳場から眺めているだけでいい。


---


 ——さて、これでおしまいです。


 長い話にお付き合いいただきました。


 お茶、冷めてませんか? 淹れ直しますよ。


 お代はいただきますけどね。


 どこまで本当かって?


 あたしにもわかりませんよ。あたしが見たのは、店に来た人間の顔と、出した飯と、帳簿の数字だけです。


 全部あとから聞いた話です。白夜さんは「面倒くせえ」しか言わないし、睦月さんは「任務の範囲です」しか言わないし。あの二人の話をつなぎ合わせて、足りないところはあたしが埋めた。


 与太話ですよ。


 猫又の飯屋の主人が語る、与太話。


 でもね。


 帳簿だけは本当です。


 明和四年、秋。白夜殿、飲食代および宿泊費、百五十年ぶん。


 ——完済。


 これは帳簿に書いてある。帳簿は嘘をつきません。


 あたしはつきますが、帳簿はつかない。


---


 それじゃ、今日はこのへんで。


 またいらしてください。飯は出します。勘定はつけます。愚痴も聞きますよ。


 あ、ツケはもう受けませんからね。


 次に百五十年待たされたら、さすがにあたしも死んでますよ。猫又にだって寿命はあるんですから。


 ……まあ、気の長い商売ではありますがね。


---


 ——おや。


 いい月ですね、今夜は。


 白い月ですよ。普通の、白い月。ひとつだけ。


 あたしはね、月を見るたびに数えるんですよ。いくつあるか。


 ひとつでしょう。


 ああ、よかった。


 それじゃ、おやすみなさい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。