第58話 折れない刃
「でも——退きません」
睦月さんがそう言ったあと、ほんの一瞬だけ、あたりが静かになったそうです。
風は吹いていたはずなんです。比叡の東の斜面ですからね。琵琶湖からの冷たい風が、夜明け前にはよく抜ける。けれど、そのときは風の音まで遠かった。
聞こえていたのは、焼けた蔦のぱちぱちいう音と、白夜さんの荒い呼吸だけ。
泉水さんは、睦月さんを見ていた。
さっきまで白夜さんへ向けていた怒りが、そのまま睦月さんへ向いたわけではなかったそうです。もっと面倒な、もっと扱いづらい顔をしていたとか。
理解できないものを見る顔です。
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最初に動いたのは、やっぱり睦月さんでした。
白夜さんを磔にしていた蔦が、まだ数本、幹と腕に絡んだままだったそうです。睦月さんは前へ出ながら、振り向きもせず、それを二度斬った。
ぱき、と乾いた音。
火が走って、蔦が割れる。白夜さんの体が幹からずるりと滑り落ちた。
「立たないでください」
睦月さんがそう言ったとか。
前を見たまま。泉水さんから目を離さず。
白夜さんは、返事をしなかったそうです。返せなかったのかもしれません。神獣とやり合ったあとの傷が、もう笑える段階じゃなかったんでしょう。木の根元に片膝をついて、血の混じった息を吐くだけで精一杯だったとか。
でも、目は閉じなかった。
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泉水さんの周囲で、蔦がざわりと膨らんだ。
怒りに呼応した、というより——気が乱れたんでしょうね。
昨日までの泉水さんの術は、もっと綺麗だったはずです。糸を操るみたいに正確で、隙がなくて、少ない動きでちゃんと人を詰ませる。ところがこのときの蔦は、太いのも細いのも、みんな少しずつ拍がずれていた。
早すぎるのがある。遅すぎるのがある。狙いが甘いのもある。
弱くなった、とは言いませんよ。
でも、乱れていた。
そしてね。乱れていても十分強いのが、化け物ってもんです。
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蔦が来た。
正面から二本。足元から三本。頭上の木から、鞭みたいにしなる細いのが四本。ほとんど同時だったそうです。
睦月さんは、前に出た。
避けながら下がるんじゃない。前へ。蔦の間へ。狭いところへ。
右から来た一本を短刀で断つ。火を乗せる。断面が白く灼ける。
左足の前へ伸びた細い蔦を踏みつけ、その反動で半歩跳ぶ。頭上からの鞭を紙一重で外す。正面の二本目が胴を薙ぎに来る前に、その内側へ入り込む。
速かったそうです。
ただ速いだけじゃない。迷いがなかった。
狙いも決まっていた。
腹です。
さっき、自分の手ごと刺したあの傷。あそこに、もう一度、火を乗せた刃を入れる。
ざくり、と。
白い着物が裂けて、血が飛ぶ。
泉水さんの体がわずかに引けた。
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塞がる。
でも、遅い。
腹の傷のまわりに赤が滲んだまま、肉が寄る速度が鈍い。蔦も同じでした。腹の傷が開くたび、泉水さんの足元に這っていた太い蔦のうち何本かが、ぴくりと痙攣する。
睦月さんは、そこを見ていたんでしょうね。
一度開いた傷を、塞がる前に、また開く。
綺麗な戦い方じゃありません。武芸として見れば、もっと見栄えのする型もあるでしょう。急所を一撃で狙うほうが、よほど格好がつく。
でも、殺すならこっちです。
開いた傷を閉じさせない。
ただ、それだけ。
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二度目。
今度は右の肩口。火を乗せて深く裂く。
泉水さんが腕で払おうとする。睦月さんは引かない。腕を掠めながら、返す刃でまた腹へ。
三度目。
腹。
四度目。
脇腹から腹へ。
五度目。
また腹。
同じところばかりです。
まるで執念深い職人が、歪んだ釘を何度も何度も打ち直すみたいに。
泉水さんの白い着物は、もう腹のあたりが原形を留めていなかったそうです。焼けて裂けて、血で貼りついて、そこにさらに新しい血が重なる。
「——っ」
このとき初めて、泉水さんの息が乱れたとか。
穏やかな声じゃない。痛みに押し出された、ただの息です。
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睦月さんは止まらなかった。
左手の甲から流れた自分の血が、指先を伝って刃に落ちていたそうです。柄は滑る。普通なら握り直す。構えを整える。そういう一拍が入る。
でも、この人は入れない。
滑るまま握る。斬る。血が刃を伝う。泉水さんの傷に、自分の血がまた入る。
火を乗せる。斬る。火を乗せる。
やることが少ないんですよ。
少ないくせに、嫌なんです。やられる側からすると。
白夜さんは、たぶんそれを骨身に染みて知っていたでしょうね。
一話の夜。死ねない狐を、夜明けまで斬り続けた娘です。あのとき向けていたものを、今度は泉水さんにそのまま向けている。
そりゃあ、たまったもんじゃないでしょうよ。
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泉水さんが、下がった。
後ろへ。
比叡の山上で、千年生きた不死者が、十七の娘相手に後退した。
これね、かなり大きい場面だったと思うんです。
強い弱いの話じゃない。
気持ちで押されたんですよ。
それまでの泉水さんは、退くにしても必ず余裕を残していました。間合いを調整しているだけ、という顔で。けれどこのときの一歩は違った。逃げる人間の一歩でした。
睦月さんは、その一歩ぶん、間合いを詰めた。
容赦なく。
「なんで」
泉水さんが言ったそうです。
また一本、腹に刃が入る。傷が開く。火が乗る。
「なんで、止まらないんだ」
睦月さんは、斬りながら答えたとか。
「あなたが」
一閃。
「まだ」
もう一閃。
「立っているので」
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泉水さんの顔が歪んだ。
怒りじゃなかったそうです。恐怖でもない。もっと、その二つのあいだにあるような顔。
わからない。
理解したくない。
そういう顔。
「君は……」
言葉の続きは、蔦の音に消えた。
地面を割って、太い根が突き上がってくる。睦月さんは飛び退いた。退いた先へ、木の幹を巻いていた蔦が横薙ぎに来る。屈んで外す。しゃがんだ姿勢のまま前へ滑り込み、今度は膝を狙って斬る。
浅い。
でも構わない。
足が揺れたところで、また腹へ。
とにかく同じところです。
深く入るかどうかより、閉じる暇を与えないほうが大事だったんでしょう。
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「睦月!」
白夜さんが、そこでようやく声を張ったそうです。
止めるつもりだったのかもしれません。
あるいは、下がれと言いたかったのかもしれない。
でも睦月さんは振り返らない。
白夜さんは木にもたれたまま、肩で息をしていたそうです。立ち上がりかけて、また膝が折れた。神獣の爪だか腕だかにやられた脇腹から、また血が滲んでいたとか。
それでも目は睦月さんから外れなかった。
あの人、自分のこととなると雑なのに、人が無茶してるのを見るのは嫌なんですよ。
困ったもんです。
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泉水さんが、両手を広げた。
蔦の壁が立つ。
何重にも。一本じゃない。三重、四重。太い蔦と細い蔦が格子になって、睦月さんとのあいだを完全に塞ぐ。焼いても焼いても奥がある。切ってもまた次がある。
普通なら、ここで止まるんでしょう。
間合いを作られたら、一度引く。別の角度を探る。呼吸を整える。そういうもんです。
でも、睦月さんは止まらなかった。
火を強めたそうです。
刃に乗る火が、少しだけ大きくなった。燃え広がるほどじゃない。でも蔦を焼き切るには足りるくらい。
一枚目を焼く。
二枚目を斬る。
三枚目は肩で押し開けた。
焦げた蔦の煙の向こうで、泉水さんの目が見開かれていたとか。
そこへ睦月さんが出る。
煙を抜けて。
また腹を斬る。
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ついに泉水さんが、声を上げたそうです。
悲鳴まではいきません。あの人、最後までその一線は越えなかった。でも、息を呑む音ではない。痛みに押された声でした。
腹の傷が、大きく開く。
肉が寄らない。寄ろうとして、止まる。火が灼いて、自分の血が入り込んで、再生の速度がもう目に見えて落ちていたそうです。
蔦も同じでした。
伸びる。遅い。届く。けれど、その前にまた斬られる。
泉水さんの術は、だんだん“間に合わない”ものになっていった。
それでも化け物は化け物です。
完全には崩れない。
だからこそ、睦月さんも完全には届かない。
じりじり、じりじり削っていくしかない。
そういう戦いでした。
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空が、少しだけ白んでいたそうです。
月はまだ六つあった。
でも高くはない。赤い月たちは、もう空の端へ寄っていた。夜が終わりかけている。
時間は、泉水さんの味方です。
このまま引かれて、逃げられて、夜明けまで持ちこたえられたら面倒だったでしょう。睦月さんもわかっていたはずです。
だから、追った。
泉水さんが半歩退けば、一歩詰める。
蔦が一本来れば、二本斬る。
呼吸が乱れても、足がもつれても、構わず前へ。
このへんになると、もう気迫とか根性とかいう言葉も、少し違う気がしますね。
執着です。
相手が倒れるまでやめない、という、それだけ。
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「やめろ」
泉水さんが、ぽつりと言ったそうです。
睦月さんは答えない。
また腹へ。
「やめろ」
もう一度。
今度は肩口へ。浅く裂いて、そのまま腹へ返す。
「……やめろ!」
そこで、ついに叫んだ。
ああ、この人でも叫ぶんだなって、ちょっと変なところで感心したくらいですよ。
泉水さんの足元の地面が、爆ぜた。
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山が、動いたそうです。
比喩じゃありません。
東斜面の土が盛り上がり、岩が浮き、木々の根が一斉に引き剥がされる音がしたとか。地の底に張っていた蔦という蔦が、まとめて引き抜かれる。
さっきまでの術が糸なら、これは洪水でした。
形もなにもあったもんじゃない。
太い蔦。木の根。岩を抱えたままの根塊。そんなものが全部ごちゃまぜになって、ひとつの巨大な波みたいに持ち上がる。比叡の山肌そのものが、牙を剥いたようなもんです。
泉水さんが両手を地についたまま、睦月さんを睨んでいたそうです。
「それなら」
声が掠れていたとか。
「山ごと呑まれろ」
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睦月さんは——前へ出ました。
もう驚きませんけどね。
驚きませんけど、正気じゃないとは思いますよ。
第一波を斬る。
太い蔦の束。火を乗せた刃が何本かを断つ。けれど量が多すぎる。切っても後ろから次が来る。
第二波。木の根ごと。
これは身を伏せて避けたそうです。頭上を黒い塊が通り過ぎる。風圧で髪が持っていかれる。
第三波は、横からでした。
岩を抱いた根の塊。獣の頭みたいな大きさのやつが、斜面ごと抉りながら薙いでくる。
睦月さんは受けた。
短刀で受けたわけじゃありません。そんなもん、できるはずがない。体ごと、まともに。
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吹き飛んだそうです。
細い体が、木の葉みたいに。
岩へ叩きつけられ、斜面を転がり、最後は倒木に背中を打ちつけて止まったとか。短刀が手から離れかける。左手の傷がまた開く。息が肺から全部抜ける。
音が、しばらく聞こえなかったそうです。
山が唸っている。蔦が暴れている。白夜さんが何か叫んでいる。たぶんそういうのは全部あった。
でも、体の中に鳴っている音のほうが大きかったんでしょうね。
痛いでしょうよ、そりゃ。
人間ですから。
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泉水さんも、無事じゃなかったそうです。
大技を放ったあと、その場に膝をついていたとか。腹の傷から血が流れて、白い着物が完全に赤へ染まっていた。呼吸も荒い。肩が大きく上下している。
そりゃそうでしょう。
山ごと動かすなんて無茶をしたんです。しかも体の中には睦月さんの血が入っている。再生も術も鈍っている。
理性的に戦うなら、やらない手だったと思いますよ。
でも、やった。
やってしまった。
そこが、もう崩れてたんです。
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「……終わりだ」
泉水さんがそう言ったとか。
睦月さんのほうへ向けて。
優しい声ではなかったそうです。勝ったと思っている声でもない。ただ、自分に言い聞かせるみたいな、空っぽの声。
「もう、立てない」
そうかもしれません。
普通なら。
普通の十七の娘なら、ここで終わりでしょう。肋は痛い。背中も打ってる。息も上手く吸えない。左手からは血が止まらない。短刀だって半歩先に落ちていたそうです。
でもね。
この人、普通じゃないんですよ。
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睦月さんの指が、動いた。
土を掻く。
指先が短刀の柄に触れる。握る。滑る。また握る。
それから、体を起こした。
咳き込んだ。血を吐いた。たぶん口の中も切れていたんでしょう。脇腹を庇うように一度だけ背を丸めて——それでも立った。
ふらつく。
でも倒れない。
短刀を持ち上げる。刃先は下がっている。構えとは呼べない。歩くだけでやっとでしょう。
なのに、歩いた。
一歩。
また一歩。
泉水さんが、その姿を見ていたそうです。さっきまでの怒りも、苛立ちも、そのときばかりは消えていたとか。
ただ、呆然と。
「まだ……」
声が、掠れていた。
「まだ、来るのか」
睦月さんは、そこでようやく少しだけ顔を上げたそうです。
髪は乱れ、口元には血がついている。息も荒い。立っているのがやっとの体。
それでも目だけは、折れていなかった。
「……しつこいんです、私」
そう言ったとか。
あたしね、この台詞、ちょっと好きなんですよ。
可愛げのあることを言っているようで、内容はだいぶ怖いでしょう。
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白夜さんが、木にもたれたまま笑ったそうです。
喉の奥で、短く。
たぶん痛かったでしょうし、たぶん腹も立っていたでしょう。でも、それ以上に、妙に納得したんじゃないですかね。
自分が一晩中やられたことを、今度は隣で見ているんですから。
白夜さんは手をついて立ち上がった。
ふらつく。片足が少し流れる。それでも立つ。
右手に、火が灯る。
蒼い火でした。さっきよりも小さい。なのに、芯だけはやけに白く見えたそうです。
その火を見たまま、白夜さんが言ったとか。
「お前——知らなかったのか」
泉水さんが、そちらを見る。
白夜さんは口の端の血を拭いもせず、顎で睦月さんをしゃくったそうです。
「そいつ、面倒でしつこいんだよ」
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白夜さんがそう言ったあと、泉水さんは何も返さなかったそうです。
返せなかったのかもしれませんね。
前には睦月さん。
後ろには白夜さん。
どっちも満身創痍です。睦月さんは吹き飛ばされたあとの血と土で汚れたまま、それでも短刀を握っている。白夜さんは神獣と泉水さんに削られて、もう火の残りかすみたいなものしか纏っていない。
なのに、どっちも退かない。
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睦月さんが、また前へ出た。
息は荒い。左手の血はもう袖の先まで濡らしていた。脇腹を庇っているのも見えたそうです。
それでも足は止まらない。
泉水さんの足元から蔦が走る。
正面から二本。足元から一本。頭上から細いのが三本。
睦月さんは一番太いのを斬った。火を乗せる。断面が白く灼ける。
避けきれなかった一本が肩を掠めた。布が裂ける。血が滲む。
それでも止まらない。
踏み込む。
短刀が、泉水さんの腹へまた入ったそうです。
同じところでした。
自分の手ごと刺した、あの傷。
泉水さんの顔が、引きつった。
「やめろ」
泉水さんが言ったとか。
穏やかな声ではありませんでした。
でも叫びでもない。
痛みと焦りを、どうにか形だけ取り繕った声です。
睦月さんは答えない。
短刀を引いて、返す。
また腹。
火が走る。
肉が焼ける。
再生が来る。遅い。
塞がる前に、もう一度。
同じことの繰り返しです。
でも、それでよかったんでしょうね。
派手な必殺の一撃じゃない。
ただ、閉じるより早く、もう一度開く。
それだけを繰り返す。
やられる側には、一番嫌なやつですよ。
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白夜さんも動いていたそうです。
派手には見えなかったとか。
もうそんな余力はなかったんでしょう。
左足を少し引きずりながら、横へ回る。
睦月さんの真正面と、少しずつ角度をずらしていく。
炎は両手に灯っていた。蒼い火。けれど芯だけが、妙に白く見えたそうです。
説明なんていらないでしょう。
残り全部を燃やした火、ってやつです。
泉水さんはそれに気づいていた。
だから蔦を白夜さんへ向けようとした。
でも、向けるたびに睦月さんが腹を裂く。
前を見れば横から火が来る。
横を見れば前から刃が来る。
そうやって、少しずつ、少しずつ、逃げ場が削られていったそうです。
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泉水さんの蔦が、ついに乱れきった。
太いのが一本、見当違いの岩を叩き割る。
細いのが二本、宙で絡まって千切れる。
地面の下から来た根が、半ばまで伸びたところで力を失って垂れた。
血のせいでしょう。
火のせいでしょう。
でもそれだけじゃない。
感情ですよ。
千年積もった執着が、最後の最後で手元を狂わせていた。
「……なんで」
泉水さんが呟いたそうです。
誰に向けたのかは、わかりません。
睦月さんか、白夜さんか、自分自身か。
「なんで、そんなに」
睦月さんが、また腹を裂く。
血が飛ぶ。
火が散る。
泉水さんの膝が、わずかに落ちる。
そこへ、白夜さんが間合いを詰めた。
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速かったそうです。
神獣とやり合ったあとの、あのぼろぼろの体で出る速さじゃなかった。
狐火が地を滑るみたいに、音もなく、横から泉水さんの懐へ入る。
泉水さんがようやくそちらを向いた。
蔦が一斉に白夜さんへ走る。
遅かった。
白夜さんの右手が、泉水さんの胸を掴んだ。
左手が腹の傷に触れた。
睦月さんが開き続けた、あの傷口に。
白夜さんは笑っていなかったそうです。
怒ってもいなかった。
ただ、ひどく静かな顔で泉水さんを見ていたとか。
「代わりなんか、どこにもいねえよ」
低い声でした。
「いるのは、今ここにいる奴だけだ」
そのまま、両手に残っていた火を——全部、押し込んだ。




