第57話 紛い物
泉水さんは——初めて、笑わなかった。
前に睦月さん。
後ろに白夜さん。
どちらも満身創痍です。睦月さんは左手から血を垂らしたまま短刀を握っているし、白夜さんは肩から腹にかけて傷だらけ。立っているだけでも偉い有様だったそうです。
なのにね。
泉水さんの顔から笑みが消えたのは、二人の傷のせいじゃなかったんでしょう。
傷ついてるのに退かない。
ぼろぼろなのに、まだ来る。
たぶん、その事実のほうが、あの人には堪えた。
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最初に動いたのは睦月さんでした。
躊躇いはなかったそうです。
右足を踏み込み、短刀を下から撥ね上げるように振るう。狙いは泉水さんの右脇腹。火を薄く乗せた刃が、白い着物を斜めに裂いた。
泉水さんが半歩退く。
傷は入った。浅くはない。腹の横に赤い線が走って、すぐに血が滲む。
でも、その背後から蔦が来る。
地面を割って生えた太い蔦が三本。一本は睦月さんの足首を狙い、一本は胴を薙ぎ、もう一本は顔の高さへ真っ直ぐに。
睦月さんが身を沈めて避ける。
その上を、蒼い火が走ったそうです。
白夜さんでした。
横合いから踏み込んで、炎を纏った拳を泉水さんの側頭部へ叩き込む。さすがにこれは効いた。骨の鳴る音がして、泉水さんの頭が大きく振れた。白い髪が乱れる。体がよろめく。
そこへ睦月さんがもう一歩。
正面から喉元を狙う。短刀の先が皮膚を割って、火が乗る。
いい連携です。
十分、上手い。実戦でその場合わせにできるものじゃない。
でも、上手いだけでは足りなかったそうです。
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泉水さんの両足のまわりで、蔦が輪を描いたとか。
円です。
きれいな円。
地面に這っていた何十本もの蔦が、一瞬で外向きに広がって、二人とのあいだに壁を作った。高さは人の胸ほど。格子のように編まれた緑の壁が、ぐるりと泉水さんを囲む。
睦月さんの短刀が、その隙間に突き込まれる。
火が走って、数本が焼けた。
でも焼けた箇所の横から、もう別の蔦が伸びる。
白夜さんが飛び越えようとすれば、上から枝に巻きついていた蔦が鞭みたいにしなる。
前にも後ろにも蔦。
上にも下にも蔦。
しかも泉水さん本人は、その中心でほとんど動かない。
再生が鈍ったのは本当でしょう。術も少し乱れている。
でも、止まってはいない。
ここが化け物の嫌なところですよ。
十分弱ったはずなのに、十分強いままなんですから。
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白夜さんが舌打ちしたそうです。
「ちっ、面倒くせぇな」
炎を纏ったまま格子へ拳を叩き込む。焼ける。裂ける。焦げた蔦が崩れる。
その穴に睦月さんが滑り込む。
うまい。
腰を落として懐へ入り、右から左へ短く払う。火の刃が泉水さんの脇腹をもう一度裂いた。続けて返す刃。今度は肩口。
泉水さんの白い着物は、もうあちこち赤く染まっていたそうです。
それでも、泉水さんは睦月さんだけを見ていた。
「どうして、そんな顔ができるんだろうね」
睦月さんは答えない。
三度目の斬撃。首筋狙い。
泉水さんが腕で受ける。血が飛ぶ。受けた腕に、白夜さんの拳が横から入る。蒼い火が爆ぜて、腕ごと体が弾かれた。
ここで決まってもおかしくなかった。
そういう手応えだったそうです。
でも、決まらない。
泉水さんの足元から太い蔦が二本立ち上がって、白夜さんの足を払った。
同時に別の蔦が睦月さんの手首へ絡みつく。
両方とも、ほんの一瞬だけ動きが止まる。
その一瞬で十分でした。
泉水さんが後ろへ退き、間合いが離れる。裂かれた傷が、じわじわと閉じはじめる。
「……惜しい」
そう言った声は、少しかすれていたそうです。
でも、笑いはなかった。
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「あなたは、朝霧じゃない」
唐突だったそうです。
睦月さんが蔦を断ち切った、その直後。泉水さんは傷口を押さえたまま、じっと睦月さんを見て、そう言ったとか。
「最初から、わかっていた」
睦月さんの眉が、わずかに寄る。
白夜さんが横から飛び込もうとした。
でもその足元へ蔦が絡む。深追いはできない。
泉水さんは、睦月さんから目を逸らさなかった。
「顔が似ているだけだ。仕草も違う。声も違う。目も違う。あの人は、あなたみたいに、そんな目で僕を斬らない」
睦月さんの息が、ほんのわずか乱れたそうです。
痛かったでしょうよ。
だってその通りですからね。
似ていたって、同じじゃない。本人が一番わかっていることを、敵に突きつけられるのは嫌なもんです。
でも、泉水さんはそこでやめなかった。
「あなたは紛い物だ」
睦月さんの喉が、小さく上下した。
「粗悪品の」
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静かになったそうです。
蔦の擦れる音だけがしていた。
風も鳥も、遠かった。
その静けさを切ったのは、白夜さんでした。
「くだらねえな」
低い声だったとか。
いつもの投げやりな響きはなくて、妙に平らだったそうです。
その平らさが、かえって怖かったんじゃないですかね。
泉水さんの視線が、白夜さんへ動く。
白夜さんは蒼い火を纏った右手を下げたまま、ゆっくり一歩ずつ近づいてきた。足を引きずってはいる。でも止まらない。
「そいつは朝霧じゃねえだろ。最初っからよ」
泉水さんの眉が、初めて険しくなったそうです。
「……お前には関係ない」
「あるだろ」
白夜さんが吐き捨てた。
「雪も、朝霧も、睦月も。お前の都合で生きてたわけじゃねえ」
その瞬間だったそうです。
泉水さんの周囲の蔦が、ぶわ、と膨らんだのは。
怒りだったんでしょうね。
それまで抑えていたものが、そこで一気に噴いた。
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蔦が白夜さんへ殺到した。
太いのが四本。細いのが十数本。
地面から、木から、背後の岩陰から。四方八方。
白夜さんが前へ出る。
避ける気じゃなかったそうです。真正面から焼き払うつもりだったんでしょう。蒼い火が一段強くなる。
でも、さすがに数が多すぎた。
一本を焼く。二本目を裂く。
三本目が肩に食い込む。
四本目が足首を払う。
細い蔦が腕へ、胴へ、首へ。
あっという間に絡め取られた。
白夜さんの体が、後ろの大木へ叩きつけられる。
背中で幹が鳴る。太い蔦が胸と両腕を十字に縛り上げ、そのまま幹へ磔みたいに押しつけたそうです。
「——ッ」
声にならない息が漏れる。
火はまだ消えていない。けれど、さっきまでみたいな勢いはない。
神獣とやり合ったあとの傷が、ここで一気に響いたんでしょう。
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「邪魔なんですよ、お前は」
泉水さんが言ったとか。
今度の声には、もう穏やかさがなかったそうです。
かといって怒鳴りもしない。
静かなんです。でも静かすぎて、底の泥が見えるみたいな声だったとか。
「雪も」
一歩。
「睦月も」
また一歩。
「どうして、お前を見る」
白夜さんは、口の端の血を吐いたそうです。
「知らねえよ」
「知ってるでしょう」
泉水さんの蔦が、白夜さんの首へ巻きつく。ゆっくり。逃げ道を塞ぐように。
「僕はずっと待っていた。ずっと探していた。ずっと取り戻そうとしていた」
睦月さんが動こうとする。
その足元へ蔦が這う。膝の高さまで一気に巻きついて、動きを止める。
「なのに」
泉水さんの視線は、白夜さんに固定されたまま。
「いつだってお前がいる」
大木の根元から、杭みたいに尖った蔦が生えはじめたそうです。一本、二本、三本。白夜さんの腹と胸を狙う高さに、真っ直ぐ。
ああ、あれは殺す気だったでしょうね。
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白夜さんは、笑ったそうです。
大したもんですよ。
首を絞められて、腹を貫かれそうになって、全身傷だらけで、それでも笑った。
「……はっ」
血の混じった息と一緒に、短く。
「——千年かけて辿り着いたのが、それかよ」
泉水さんの顔が、ぴくりと引きつる。
「俺は百年で気づいたぞ」
白夜さんが顔を上げる。
片目だけで、真っ直ぐ泉水さんを見る。
「死んだ奴の代わりなんか——どこにもいねえって」
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その一言で、空気が変わったそうです。
蔦の動きが、荒くなった。
さっきまで泉水さんの術は、いかにも理路整然としていたんですよ。壁を作る。退路を塞ぐ。間合いを測る。相手の癖を読む。
それが崩れた。
細い蔦が意味もなく地面を叩く。太い蔦が一拍早く伸びて、石にぶつかって砕ける。杭状の蔦も、真っ直ぐ白夜さんの急所へ向かっていたのが、わずかにぶれた。
感情で手元が狂っていたんでしょう。
「黙れ」
泉水さんが言った。
あたし、あの人のその声を聞いたことがなかったんです。
抑えていた何かが、音になって漏れたみたいな、そんな声でした。
「黙れ」
杭が、白夜さんの胸へ走る。
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睦月さんが、それを斬った。
横から飛び込んで。
足の蔦を、火で焼き切ったんでしょう。遅れて漂ってきた焦げ臭さでわかったそうです。次の瞬間には睦月さんが白夜さんの前へ出ていた。
短刀が閃く。
一閃。
二閃。
三閃。
迫っていた杭を全部叩き落とす。火が走る。焼けた蔦が弾けて、炭みたいな欠片が散った。
でも、それで終わりじゃない。
泉水さんのまわりの蔦が、いっせいにこちらを向く。
睦月さんは息を整えもせず、さらに一歩前へ出た。
白夜さんを庇う位置へ。
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「どいてください」
睦月さんが言ったとか。
白夜さんへ、ではありません。
泉水さんへ向かって。
「その人を殺すなら、先に私を殺してください」
泉水さんの目が細くなる。
「あなたでは、代わりにならない」
睦月さんは、そこで首を振ったそうです。
小さく。
でも、はっきりと。
「知ってます」
即答だったとか。
「私は朝霧じゃない。雪でもない」
左手から血が落ちる。
短刀の切っ先からも、赤い雫が垂れる。
睦月さんは、それを気にもしなかったそうです。
「私は私です」
一歩も退かない。
背中越しに、白夜さんの荒い呼吸が聞こえる。
前には泉水さん。
その周囲に、怒りでざわつく無数の蔦。
それでも、退かない。
「でも——」
睦月さんが短刀を構え直す。
火が、刃に灯る。
「退きません」




