第56話 対等
泉水さんの膝が、わずかに折れた。
崩れ落ちたわけじゃありません。
折れかけて、止まった。
睦月さんの右手が短刀を引き抜く。刃が自分の左手の甲を抜けて、泉水さんの腹からも抜ける。血が跳ねた。睦月さんの血と、泉水さんの血と、どっちのものともつかない赤が、白い着物と黒い装束をまとめて汚したそうです。
泉水さんは片膝をついたまま、腹を押さえた。
蔦が——震えていた。
あの人の足元に這っていた太い蔦が、操り手の意志とは無関係に、ぴく、ぴく、と痙攣している。地面の下でも同じことが起きていたんでしょうね。山肌のあちこちが、呼吸でもするみたいに小さく脈打っていたそうです。
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「……効いたよ」
泉水さんが言ったそうです。
声は、まだ穏やかでした。
喉の奥まで灼かれているはずなのに、声音だけは崩れない。そこはさすが千年ものです。化け物ってのは、最後まで見栄えがいい。
「さすがに」
泉水さんの腹の傷の周りに、赤い筋が浮いていたそうです。血管じゃない。もっと禍々しいもの。皮膚の下を、睦月さんの血が灼きながら巡っているみたいな、そんな筋です。
睦月さんは短刀を構えたまま動かなかった。
左手の甲から血が流れている。指先を伝って、ぽたり、ぽたり、と落ちていく。短刀の刃も、柄も、全部赤い。
「……終わりですか」
睦月さんがそう聞いたとか。
泉水さんは、笑わなかったそうです。
でも、泣きもしなかった。
ただ、ゆっくり息を吐いた。
「終わらない」
そう言って、地面についていた手に力を込める。
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泉水さんが立ち上がった。
ゆっくりと。
片膝から、両足へ。背筋が伸びる。腹の傷口はまだ開いていた。さっきまでみたいに、じゅるり、と一息で塞がりはしない。肉が寄る。止まる。また寄る。そんな調子です。
遅い。
でも、止まってはいない。
泉水さんは傷口を見下ろして、それから睦月さんを見た。
「君の血は、禍神には毒だ」
静かな声だったそうです。
「影も嫌う。術も乱れる。中に入れば、さすがの僕でも無事ではいられない」
足元の蔦が、また痙攣した。一本、地面を這っていた蔦の先が、途中で力を失って垂れたそうです。
「再生も、術も、鈍る」
一拍。
「でも——それだけだ」
その言葉どおり、腹の傷が、遅れながらも閉じていく。
完全には塞がりきらない。血も滲んでいる。でも、開きっぱなしではない。たしかに戻っている。
睦月さんの目が、ほんの少しだけ細くなった。
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泉水さんが一歩、前に出た。
蔦の動きはさっきより鈍い。山と繋がっている感覚も、少し弱まっていたはずです。でもなくなってはいない。一本駄目になっても、別の根がある。別の蔦がある。山そのものを土台にしている化け物は、しぶとい。
「残念だったね」
泉水さんの声は、まだ少しかすれていたそうです。
「僕は止まらない。夜明けまで保てば、それで戻る」
睦月さんは答えなかった。
左手の血が、まだ止まっていない。傷を押さえもせず、ただ短刀を握っていた。血で柄が滑る。滑るまま、握る。
「……そうですか」
それだけ言ったとか。
泉水さんは、その返事に少し首を傾げたそうです。
「絶望しないんだね」
「してますよ」
静かな声でした。
「してますけど」
睦月さんが、短刀を握り直す。
「……十分です」
泉水さんの目が、そこで初めて揺れたそうです。
「何が」
睦月さんは、まっすぐ泉水さんを見ていた。
「対等に殴り合えます」
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あたしね、その話を聞いたとき、思わず帳場で手が止まりましたよ。
何言ってんだこの娘、って。
普通は逆でしょう。切り札が効かなかった。化け物はまだ立ってる。絶望する場面です。泣くなり喚くなり、せめて青ざめるくらいはする。
なのにこの人、「十分です」と来た。
再生が遅くなった。それだけでいい、と。
あとは自分の腕で削り切る、と。
いや、言ってることが狂人なんですよ。
でもね、睦月さんは、最初からそういう人だったでしょう。
死なない相手を一晩中斬り続けた人です。白夜さんを前にして、任務のためだからと朝まで止まらなかった。あの時点でもう、まともな理屈で動いていない。
泉水さんは、たぶんそこでようやく気づいたんでしょうね。
目の前にいるのは、優しくて脆い“代わり”なんかじゃない。
折れない、別の何かなんだって。
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泉水さんが、一歩引いた。
後ろへ。
理屈じゃなかったと思いますよ。
反射です。
千年の不死者が、自分を殺せないはずの十七歳の娘を前にして、半歩ぶん距離を取った。
泉水さん自身、その一歩に驚いたんじゃないですかね。
「……君は、おかしいよ」
声が、少し低くなっていたそうです。
「もう僕を殺す手段はない。わかっているよね」
「でも、斬れます」
睦月さんはあっさり言った。
「今なら、塞がるのが遅い。火を乗せればもっと遅い」
短刀の刃先が、わずかに上がる。
「だったら、終わるまで斬れます」
泉水さんの顔から、あの柔らかな笑みが一枚剥がれたそうです。
怒りでもない。軽蔑でもない。
理解できないものを見る顔でした。
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そのときです。
背後で、重いものが倒れる音がした。
ずん、と。
岩が揺れるような、腹にくる音。
泉水さんの目が、睦月さんから離れて、背後へ向いた。
「……神獣は?」
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白夜さんが立っていた。
琵琶湖側の斜面を、下から登ってきたんでしょう。木立の影を背負って、血まみれのまま。
ひどい有様だったそうです。
着流しの右袖はほとんど残っていない。肩から腹にかけて、深く抉られた痕が何本も走っている。銀の髪は血で赤黒く固まって、片目の上の傷からまだ血が落ちていた。左足を少し引きずっていたとか。
それでも、立っていた。
両手に蒼い火の残りが灯っていた。強くはない。揺れている。今にも消えそうな火。
でも、消えてはいない。
白夜さんは親指で後ろをしゃくったそうです。
その先——斜面の下、木立の奥に、人の形をしていたものが崩れていた。頭のない胴。六本の腕。ばらばらに散らばった指。八つあった目は、全部閉じていた。
「知らねえよ」
白夜さんが言ったとか。
息が荒い。声も掠れている。立っているだけで精一杯に見えたそうです。
「もう、くたばってるだろ」
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泉水さんは、白夜さんを見ていた。
血まみれの狐を。
それから睦月さんを見た。短刀を構えたまま、左手から血を垂らしている娘を。
前に睦月さん。後ろに白夜さん。
どっちもぼろぼろでした。
睦月さんは自分の手を貫いた傷から血が止まらない。白夜さんは神獣とやり合ったせいで、全身が傷だらけだ。
普通なら、もう立っていられない。
でも立っていた。
並んでいた。
泉水さんは——初めて、笑わなかった。




