第55話 血
琵琶湖側の斜面は急でした。
苔むした岩。倒木。霜を含んだ土がすべる。朝の光がかろうじて差し込んでいるのに、木立の奥は暗い。湿った石と朽ちた木の匂い。その中を、白夜さんは降りた。
背後に、気配だけがついてくる。
足音がない。枝を折る音もない。あるのは、腕が木に触れたときに鳴る、ぎし、という軋みだけ。あの大きさのものが、呼吸するみたいに無音で動くんですから、嫌なもんですよ。
白夜さんが振り返った。
「……よう」
白夜さんが言ったそうです。
「百五十年ぶりだな」
第七神獣は答えない。頭がないんですから、口もない。声もない。
八つの目だけがこちらを見ている。左に三つ。右に五つ。全部の瞳孔の開き方が違う。全部が、白夜さんだけを映している。
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白夜さんが踏み込んだ。
右の拳を、胴の中央——一番目が密集している場所へ叩き込む。
当たった。
拳が、めり込んだ。
が、その瞬間、左下の腕が白夜さんの脇腹を掴んだ。掴む、ではなく巻きつく。腕そのものが形を変えて、指の数が増えたように見えたそうです。
殴った拳を引き抜く前に、右上の腕が頭上から振り下ろされた。石を叩きつけるような音。白夜さんの体が斜面に叩きつけられて、土が抉れた。
転がる。岩に背中がぶつかる。
次が来る。
三本目の腕。横から。これは見えた。身を捻って外す。四本目。下から。地面の下をくぐるように動いてきた腕が、足首を掠めた。
鈍い。
動きそのものは鈍いんです。でも、間合いがおかしい。
腕の長さが変わる。さっきまで地面を引きずっていた腕が、すうっと縮んで速く動く。逆に、短かった腕がぬるりと伸びて、避けたはずの場所に先端が来る。間合いを測っても意味がない。拍を読んでも次がずれる。
遅いから避けられる。避けたはずなのに当たる。
百五十年前も、こうだったんでしょうね。
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白夜さんは打った。蹴った。掴みかかった。
当たるんです。胴にも腕にも、拳は届く。でも効いている感触がない。肉を叩いているはずなのに、ものが凹むだけで悲鳴がない。痛がらない。退かない。表情がないから、どれだけ傷んでいるのかもわからない。
そのくせ腕だけは正確に返ってくる。
脇腹を打たれた。膝裏を払われた。片足が崩れたところに、上からもう一本。肩を押さえつけられて、地面に頬がついた。
振り払った。蹴り上げて体勢を戻す。
立ち上がったときには、もう着流しの袖が裂けて、右の眉のあたりから血が目に入っていた。
「……相変わらず面倒くせぇ奴だな」
左手で血を拭う。右手の拳をもう一度握る。
第七神獣が近づいてくる。六本の腕が広がって、逃げ道を塞ぐように。
白夜さんは片膝をついていた。右の目に血が入って、まともに前が見えていなかったかもしれない。呼吸が荒い。肩が上下している。
それでも、右手を握り直した。
ぱち、と。
小さな音だったそうです。指先で火花が弾ける音。掌から炎が広がる。蒼い。手首まで。肘まで。
八つの目が、一斉に細くなったとか。
——この二人の決着は、もう少し先にしましょう。
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さて。山上のほうです。
睦月さんは、白夜さんが斜面を降りていくのを見なかったそうです。
見る余裕がなかった。
泉水さんの笑顔は変わらなかった。朝の散歩を楽しんでいる人みたいな穏やかさ。あの柔らかい目。白い着物の裾に、地を這う蔦が影みたいにまとわりついている。
睦月さんは短刀を抜いた。
距離は、間に五歩。
踏み込んだ。
速かった。鴉衆の踏み込みです。最短距離を、最小の予備動作で。短刀が泉水さんの胸を薄く裂いた。
白い着物に赤が滲む。
泉水さんは——目を細めた。痛みではなく、眩しいものを見たときみたいに。
傷口が、じゅるり、と塞がった。
白夜さんのときと同じ音。
睦月さんは止まらなかった。引いて、返す。もう一度。左の脇腹。今度は深い。骨に達する手応えがあった。
塞がった。音もなく。肉が寄って、皮がついて、何事もなかったみたいに。
「……睦月さん」
泉水さんの声は穏やかだった。腹を裂かれた人間の声じゃない。
「僕はあなたを苦しめたくないんです」
三度目。右肩から袈裟懸けに。短刀に乗せた火が傷口を焼く。
今度は少しだけ、肉の合わせ目が震えた。焼けた断面が赤く灼けて、ゆっくりと、粘るように接がっていく。
遅い。火で焼いた傷は、再生の戻りが鈍い。
でも、接がった。
「すぐに終わらせますから」
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泉水さんの足元から、蔦が伸びた。
三日目までの草の術とは太さが違ったそうです。腕の太さ、いや、木の根ほどもある蔦が、地面を裂きながら三方向から睦月さんへ向かってきた。
一本目。右から。横に跳んで外す。
二本目。足元から。踏み込みの着地を狙ってきた。これは間一髪でした。左足が蔦の先端を踏んだ。踏んだ瞬間に蔦が巻きつこうとして、靴ごと引き抜いた。
三本目は、上からだった。
頭上の木に這っていた蔦が、むちのようにしなって真上から降ってきた。
短刀で斬る。火で焼く。断面が一瞬白く灼けて、焦げた草の匂いが散った。
でも、別のところからもう一本。別の木から。別の地面から。
次から次に来る。
太い。速い。そして、泉水さん本人はほとんど動かない。
「再生するんです。僕も、蔦も」
泉水さんは岩の上に立ったまま、片手を軽く下ろしている。指が動くと蔦が動く。まるで糸繰りでした。
織姫さんの糸に似ていたそうです。決定的に違ったのは、太さと、数。
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睦月さんは斬った。焼いた。走った。
蔦を断つたびに火を乗せる。焼けた蔦は再生が遅い。でもゼロにはならない。焼いた端から新しいのが地面を割って生えてくる。
一本断つ間に二本伸びる。
そういう戦いだったそうです。
泉水さんは余裕を崩さなかった。蔦を操りながら、こちらを見ている。あの穏やかな目で。
「もう十分でしょう、睦月さん。わかっているはずです」
睦月さんは答えなかった。
蔦を跳び越えて、泉水さんの懐に入ろうとした。近づけば——近距離で斬れば、再生する前にもう一度斬れる。
太い蔦が横から薙いだ。腹に入った。
体がくの字に折れて、岩の上を転がった。
起き上がる。口の中が切れていた。血の味がした。
また踏み込む。
蔦の隙間を縫う。四本をかいくぐって泉水さんに肉薄する。短刀を突く。肩に入る。深い。火を乗せる。
肉が震えた。再生が来る。遅い。火で焼いた傷は、やはり戻りが鈍い。
でも、その一瞬のあいだに、蔦が背後から来た。
首を巻かれた。
引き戻される。泉水さんから離される。投げられるように。地面に背中がついた。土煙。石が背骨に当たる。痛い。
すぐに起き上がる。
起き上がったとき、視界の端に——結界の淵が見えたそうです。
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近かったんです。
ここは比叡山の東斜面。琵琶湖側。結界の端。
斜面の向こう、琵琶湖を望む崖の先に、空気が歪んでいる場所があった。赤黒い脈動が薄く滲んで、影が蠢いている。結界の淵。あれを越えた参加者は、影に引きずり込まれる。
泉水さんも参加者だった。
儀は、まだ終わっていない。夜明けまでは終わらない。参加者である泉水さんも、結界から出れば死ぬはず。
睦月さんの目が、一瞬だけ結界の淵に向いた。
それから、泉水さんに戻った。
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睦月さんが動いた。
まっすぐ泉水さんへ——ではなかった。
右に跳んだ。蔦が来る方向の、さらに右。泉水さんから見ると、結界の淵とは逆の方向。
蔦が追いかける。当然です。睦月さんが動けば蔦もそちらへ向く。
ここで睦月さんが方向を変えた。右へ跳んだ勢いのまま、体を返して左へ。弧を描くように走る。泉水さんの背後へ回り込む軌道。
蔦は直線で追う。曲がるのに一拍かかる。その一拍が間合いになった。
泉水さんの右側——結界の淵のほうが、がら空きになった。
睦月さんが蔦の隙間を抜けて、短刀を突いた。
狙いは泉水さんの体ではなかった。
足元です。
短刀が泉水さんの足元の岩を抉った。火を乗せた刃が岩の表面を焼く。足場が崩れる。
同時に、体当たり。
睦月さんの肩が泉水さんの胸に入った。体重を全部乗せて、押し出す。
泉水さんの体が浮いた。
崖のほう——結界の淵のほうへ。
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泉水さんの笑顔が消えた。
足が岩から離れていた。体が傾いている。後ろには結界の淵。赤黒い脈動が、もう手の届く距離で蠢いている。
蔦が動いた。
泉水さんの足元から、背後から、四本同時に。
でも——一拍遅れた。
泉水さんの体が、結界の淵を越えかけた。背中の着物の裾が、赤黒い脈動に触れたそうです。影が反応した。ぐにゃりと膨らんで、泉水さんの裾を舐めるように伸びてきた。
蔦が泉水さんの胴を掴んだのは、そのあとでした。
四本の蔦が体を支えて、ぐい、と引き戻す。影の手が裾から剥がれる。
際どかった。
あと半拍遅ければ、影が泉水さんの体を掴んでいたでしょう。
蔦に支えられたまま、泉水さんがゆっくりと岩の上に降り立った。着物の裾が、影に舐められたところだけ黒く変色していたそうです。
そこでね。
あの人の顔から、ほんの一瞬だけ、あの穏やかな笑みが消えたんですよ。
「……本当に」
声は静かだった。
「小賢しいことをしますね」
怒鳴りはしない。顔を歪めもしない。でもね、あれはたしかに、いらだった声だったでしょう。
「でも、無駄ですよ」
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泉水さんが一歩、前に出た。
距離が縮まる。
「僕の体はこの山と繋がっています」
蔦が、地面の下で脈打っていた。根を伸ばし、岩を割り、木を抱き込んで、山そのものに食い込んでいる。
「根がある限り、僕は落ちない」
睦月さんは短刀を構え直した。呼吸が荒い。脇腹を打たれたところが痛んでいるはずです。
泉水さんが手をかざした。
あの仕草。地面に触れるまでもなく、蔦が動く。
睦月さんの右腕に蔦が巻きついた。
短刀を握った手ごと。
次に、首。
左右から二本。交差するように巻きついて、締まる。
「——ッ」
声が出なかったそうです。喉を絞められれば声は出ない。
短刀を振ろうにも、右腕が動かない。蔦が手首から肘まで巻きついて、刃の向きすら変えられない。
首の蔦が、じわりと締まっていく。
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泉水さんが近づいた。
三歩。二歩。一歩。
睦月さんの前に立った。手を伸ばせば触れる距離。
「次の転生で会いましょう、睦月さん」
やわらかい声だったそうです。
「今度は——もう少しうまくやります」
泉水さんの手が、睦月さんの頬に触れようとした。
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睦月さんの左手が動いた。
右腕は蔦に巻かれている。短刀は使えない。
でも左手は空いていた。
左手が自分の右手首に触れた。蔦の上から。指先に火が灯る。小さい火。四日目に覚えた、あの、蛍よりちょっと明るいくらいの火。
蔦が燃えた。
乾いた草が焼ける匂い。蔦がびくりと痙攣して、ほんの一瞬だけ力が緩む。
その一瞬で、右手を引き抜いた。
短刀が自由になる。
首の蔦を、刃で断つ。火が乗る。ぱきん、と枯れ枝が折れるみたいな音。
首が自由になった。
空気が入る。
全部で——二拍。
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泉水さんの手が、まだ頬の前にあった。
睦月さんの頬には届いていなかった。
二拍。それだけの時間しか経っていない。
睦月さんは首の蔦を断った勢いのまま、前に出た。
半歩。
左手の平を、泉水さんの腹に押し当てた。下から。掬い上げるように。
それからもう半歩。左手を押し当てたまま、右手の短刀を——自分の左手の甲に、突き立てた。
刃が手の甲を貫いた。そのまま止まらず、泉水さんの腹に沈んだ。
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音がなかったそうです。
短刀が左手を貫通している。刃が橋になっていた。睦月さんの血が、左手の甲から刃の溝を伝って、泉水さんの腹の傷口へ——流れ込むのではなく、押し込まれていた。
睦月さんが柄を握る右手に、さらに力を込める。
血が、刃に沿って、傷口の奥へ送り込まれていく。
泉水さんの体が、びくりと跳ねた。
笑顔が消えた。
消えたのは、痛みのせいじゃないとあたしは思いますよ。刺されるくらいなら、もう何度もされている。千年生きてるんですから。
消えたのは——体の中で、何かが灼けたからでしょう。
「——ぁ」
泉水さんの口から、声にならない息が漏れた。
目が見開かれていた。穏やかさが剥がれて、その下にあったものが一瞬だけ見えた。
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「血……ですよね」
短刀を押し込んだまま。自分の手を貫いたまま。泉水さんの顔を真正面から見て。
「巫女の力の正体は」
泉水さんの目が、ぐらりと揺れた。
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いつ気づいたのかは、あたしも知りません。
ただ、儀が始まる前、影の手が睦月さんの血を避けたこと。刻印に血をかけても検知が行えなかったこと。そして雪さんの墓参り。普通、儀の参加者が死ねば、影が引きずり込んで、死体は残らない。なのに雪さんの体は残った。白夜さんが抱き上げることができた。
血まみれだったからでしょうね。
巫女の血に濡れた体を、影は連れていけなかった。
あの人は、ずっと考えていたんでしょう。
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「そうではありませんか」
睦月さんの声は静かでした。
自分の手の甲から血が流れている。短刀を通じて、それが泉水さんの体の中に入り続けている。
「……泉水さん」
泉水さんは何も答えなかった。
穏やかな顔がなかった。目が開いている。口が開いている。体の内側で、何かが灼かれている。
蔦が——泉水さんの周囲を覆っていた蔦が、震えていたそうです。操り手の意志ではなく、痙攣するように。
泉水さんの膝が、わずかに折れた。




