第54話 駒
駒を置いた、と言いましたね。
あたしも最初は意味がわからなかったんです。あの人、武器もない。術もない。戦えない。兵に指示を出すことはできても、自分で敵に立ち向かうことなんかできるわけがない。
じゃあ、何を置いたのか。
足です。
---
虎の突進を石段の狭所に誘い込んだ直後だったそうです。
百足が崖下から登り返してきた。鷲の煙が晴れかけている。蛇が木立を回り込んで、兵の左翼に近づいている。全部が同時に動き始めて、せっかく作った間合いが一気に崩れかけた。
時継は、そこで田沼を見たそうです。
「……田沼殿」
「なんだ」
「駒が、足りません」
「見ればわかる」
「もう一つ、動かせる駒があります」
田沼の目が、そこで動いた。
「何を言っている」
「私です」
田沼が、少しだけ目を細めたそうです。
「上様」
「駒です。指し手が盤に降りたら反則ですが、将棋じゃないので」
声が震えてはいたそうです。でもね、言い切ったんですよ。
「蛇は私が引きます。走って逃げるのだけは、得意なので」
---
田沼は、止めなかったそうです。
止めなかった理由を、後で人に聞かれたとき、あの人はこう言ったとか。
「止める暇がなかった」
嘘ですね。あの人が一言「ならぬ」と言えば、時継は動けなかったでしょう。
でも、言わなかった。
あの人は冷たい人です。計算で動く人です。でも、計算の中に「この男は今、止めてはいけない」が含まれたのかもしれない。
あるいは、単に、本当に駒が足りなかったのか。
まあ、どちらでもいいんです。結果、時継は走り出した。
---
時継が石段を降りた瞬間、蛇が反応したそうです。
あの人ね、刻印はないんですよ。非参加者ですから。でも、人間が動けば獣は追う。とくに、弱い個体が群れから外れるように飛び出せば。
蛇の首が、ぬるり、と時継のほうを向いた。
木の幹を巻いていた胴が、するすると解けていく。黒い鱗が、一枚一枚摺り合わさる音がしたそうです。紙が擦れるような、背筋の凍るような音。
時継の脚が止まりかけた。
そりゃ止まりますよ。振り返ったら蛇が来てるんですから。高さだけで人間の倍はある。目が合った。黄色い目。瞳孔が縦に細い。
時継の喉が、ひゅっ、と鳴ったそうです。
そこで走った。
あの人の逃げ足は四日間で実証済みです。石段を転がるように降りて、根本中堂跡の裏手へ回り込む。地面はぬかるんでいる。苔が滑る。でも時継は転ばない。転ばないんですよ、この人。剣が持てない。術も使えない。でも、転ばずに走ることだけは、信じがたいくらいにうまい。
蛇が追った。
木を薙ぎ倒しながら。
兵の左翼から蛇が消えた。
田沼がすかさず兵を動かしたそうです。「左翼を前へ。牛鬼を鐘楼跡へ追い込め」
一手。たった一手。でもその一手で、戦線がかろうじて形を取り戻した。
---
時継は走った。
蛇は速い。でも、広い場所じゃないと真っ直ぐ進めない。曲がり角が多い寺の回廊跡を縫うように走れば、少しだけ距離が稼げる。
柱の間を抜ける。壁の穴をくぐる。瓦礫を飛び越える。
——いや、飛び越えてはいなかったそうです。瓦礫に足を引っかけて、転びかけて、でも手をついて体勢を戻して、また走る。何度もそれを繰り返した。
蛇の顎が、すぐ後ろで石の柱を噛み砕いた。破片が背中に当たる。痛い。痛いけど、痛みで足が速くなる人間もいるんですよ。
「ひっ——」
情けない悲鳴だったそうです。
でもね、止まらなかった。
裏山の斜面に入る。杉の根が地面からうねっている。足場は最悪。でも時継にとっては、走りにくい場所こそ都合がいい。蛇の太い胴は根に引っかかる。木の間を縫えば、あの巨体は回り込まなければならない。
逃げて逃げて逃げ続けた男の、集大成みたいな走りでした。
格好よくはない。
全然格好よくはないんですが、あの瞬間、あの人は間違いなく戦っていた。
---
杉林を抜けて、半壊した経蔵の裏手に飛び込んだときだったそうです。
時継の足が止まった。
蛇に追いつかれたわけじゃない。
目の前に、虎がいた。
石垣の上に座っている。黒い毛並み。黄色い目。狭所から抜け出してきたんでしょうね。兵の包囲をすり抜けて、裏手に回り込んでいた。
前に虎。後ろに蛇。
時継の顔から、たぶん色という色が消えたでしょう。
足が震えた。今度は止められない震え。膝が笑う、というやつです。
虎が、ゆっくりと立ち上がった。
逃げ場は——
なかった。
経蔵の壁が背中に当たる。冷たい。苔の匂い。頭の上で鴉が鳴いた。間の悪い鴉もいたもんです。
時継が、目を閉じかけたそうです。
---
そこでね。
経蔵の屋根の上から、何かが落ちてきたそうです。
何かっていうのは正確じゃない。誰かです。
瓦を踏み砕いて着地した。片腕。ぼろぼろの着物。薄緑の肌。頭の皿がちょっと欠けてる。左手に刀を一本。
虎の鼻面を、着地の勢いのまま蹴り飛ばした。
虎が、一歩退がった。
一歩ですよ。あの虎が。
「——おう」
声が、でかかった。
時継が目を開けたとき、そこに立っていたのは——
「天下一の剣士、獅童様の登場だぜ」
片腕で刀を構えた、河童でした。
---
時継の口が、しばらく開いたまま閉じなかったそうです。
「し、獅童……殿……?」
「よう、将軍様」
「し、死んだんじゃ——」
「死んでねえよ」
獅童さんは虎を睨んだまま、歯を見せて笑ったそうです。
「腕だけ持っていかれた」
「腕だけ?」
「刻印がついてたのは右腕だ。影が食ったのは、そっちだけだった」
右の袖が、風に揺れた。中身はない。右腕がないんです。でも左手には刀がある。ぼろぼろだが、握っている。
時継が何か言おうとしたそうです。声にならなかった。目が赤くなりかけていた。
「お、おい、泣くなよ」
「な、泣いてません……」
「泣いてんだろうが。鼻水出てるぞ。——ちくしょう、もっとかっこよく登場するつもりだったのによ」
獅童さんが舌打ちした。
「なんで将軍様が先に来るんだよ。おかしいだろ順番が」
「す、すみません」
「謝るな! 話がおかしくなる!」
---
虎が、もう一度踏み込んだ。
獅童さんが刀で受ける。片腕。踏ん張りが効かない。体が半歩滑る。
でも、止めた。
「……片腕? 上等だろ」
低い声だった。
「天下一に腕の数は関係ねえんだよ」
蛇が後ろから迫っている。木が軋む音。
時継が振り返って、顔を引きつらせた。
「う、後ろから——」
「知ってる!」
「ど、どうするんですか」
「走るに決まってんだろ! お前さっきから走ってたんだろうが!」
獅童さんが虎を弾き飛ばして、時継の襟首を掴んだ。左手一本で掴んで、そのまま横の崖道へ引きずった。
「こっちだ! 走れ!」
「は、はいっ!」
---
そこからの二人は——まあ、ひどいもんだったそうです。
獅童さんが叫ぶ。「こっちだ! こっちを見ろ!」
虎が向き直る。
「お、おい! ほんとに来るな!」
蛇も首をもたげる。
「いや来い! 来いって言ったけど来すぎだ!」
時継がその横で全力で走っている。「し、獅童殿! 蛇が! 蛇がすごく近いです!」
「知ってるから言うな! 言うと怖くなる!」
「で、でも!」
「怖がるのは俺の仕事だ! お前は走れ!」
「獅童殿のほうが怖がってるように見えるんですが……!」
「うるせえ! 天下一は怖がっても天下一なんだよ!」
崖道を駆け下り、沢を飛び越え、朽ちた橋を渡る。橋が二人の重さで軋んで、渡り終えた瞬間に崩れた。蛇が沢の向こうで止まる。回り込むのに時間がかかる。
虎は橋なんか関係なく飛んできた。
獅童さんが沢の水を蹴り上げた。河童です。水が武器になる。飛沫が虎の目に入る。虎がたたらを踏む。その隙に二人で木立の中へ逃げ込む。
「将軍様、あっちに鐘楼の跡があった! 梁が残ってる!」
「あ、あれを落とせば——」
「そう! 虎の上に落とす!」
「で、でも、どうやって——」
「お前が囮だ!」
「え!?」
「お前、囮が得意だろうが!」
「得意じゃないです! 仕方なくやってるんです!」
「同じだ! 走れ!」
---
凸凹でした。
獅童さんは強いが、片腕だから押しが足りない。時継は弱いが、逃げ足だけは異常に速い。
二人とも怖がっている。二人とも震えている。
でもね、噛み合ったんですよ。
時継が走って獣を引きつけ、獅童さんが横から斬る。斬りきれなければまた時継が走る。獅童さんが地形を読んで叫ぶ。時継がそこへ誘い込む。
将棋と剣術。逃げ足と刃。
田沼の指示が遠くから飛んでくる。「左へ寄せろ!」それを聞いた時継が叫ぶ。「獅童殿、左です!」獅童さんが虎を左へ弾く。「わかってるから叫ぶな! 獣に位置バレんだろうが!」
ぐちゃぐちゃです。
とても英雄譚なんて言えない。泥まみれ、汗まみれ、片腕の河童と、泣きそうな将軍。
でもね。
六体の神獣が、あの二人と田沼の兵に足止めされていた。
その間に、白夜さんと睦月さんは山を登っていたんです。
---
比叡山の頂に近い場所だったそうです。
木が終わった。
地面が黒い。土の色じゃない。蔦が地表を覆い尽くしていて、その蔦が一本残らず、山の頂へ向かって這っている。
呼吸みたいに、蔦が膨らんで、縮んで。
音がする。
とくん。とくん。とくん。
伏見で見た地下空洞の脈動と、同じリズム。
もっと、大きい。
白夜さんが足を止めた。
睦月さんも止まった。
二人の前に、岩場が開けていた。比叡山の東斜面。琵琶湖が下に広がっている。冬手前の灰色の水面。朝の光が弱く差している。
その岩場の縁に、一人、立っていた。
背を向けている。
細い体。茶色がかった短い髪。鴉装束はもう着ていない。白い着物。蔦が裾から足元へ流れている。まるで山そのものが、この人を着せ替えたみたいに。
琵琶湖を見ていた。
穏やかな姿勢だったそうです。朝の散歩で湖を眺めている旅人みたいな。
白夜さんが、低く言った。
「……泉水」
振り向いた。
笑っていた。
あの、柔らかい笑顔。九日前に百膳堂で初めて見たのと同じ顔。何も変わっていない。千年の不死者が、十七歳みたいな顔で笑う。
「ここまで来てしまいましたか」
「当たり前だろ」
白夜さんの声は低かった。
泉水さんは少しだけ首を傾げた。
「時継さんが神獣を抑えてくれたんですね。……意外でした。あの方にそんな力があるとは」
「力じゃねえよ。あいつは逃げてるだけだ」
「ふふ。逃げるのも力のうちですよ。——白夜さんがそれを言いますか」
---
泉水さんの目が、白夜さんから睦月さんへ移ったそうです。
やわらかい目。
でも、やわらかいだけじゃなかった。何か、もっと奥の深いところが動いている目。千年分の何かが、あの瞳の底に沈んでいる。
睦月さんは、面をつけていなかった。素顔のまま。短刀の柄に手を添えている。握ってはいない。ただ、触れている。
「泉水さん」
「はい」
声は静かだったそうです。
「終わりにしましょう」
一拍。
泉水さんの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
「終わりませんよ」
穏やかに。
「不死ですから」
---
風が吹いた。
琵琶湖のほうから、冷たい風。冬の匂いがする。水の匂い。枯れ草の匂い。もうすぐ、この山にも雪が来る。来年の話をすればいいのに、この場にいる三人は、夜明けまでの数刻のことしか見ていない。
泉水さんが、視線を白夜さんに戻した。
「邪魔をしないでくださいね、白夜さん」
声が、少しだけ変わったそうです。
やわらかさは同じ。でもその下に、何か硬いものが差し込まれたような。
「僕と睦月さんの話ですから」
「お前と睦月の話なんかねえよ」
「ありますよ。千年分」
白夜さんが舌打ちした。
泉水さんは片手を持ち上げた。
右手。指が開く。
その瞬間、山の東斜面——琵琶湖側の暗がりの奥で、何かが動いた。
音じゃなかった。
気配です。
重い。重いのに、形がない。影みたいに薄いのに、圧だけが分厚い。
白夜さんの表情が変わったそうです。
見てなくても、わかったんでしょうね。体が覚えている。百五十年前に、この気配を浴びている。
斜面の暗がりから、それが出てきた。
人の形をしていた。
人の形をしているだけだった。
頭がない。胴は黒い。影で編んだみたいな表面に、目がある。目だけがある。左に三つ。右に五つ。大きさもばらばらで、まばたきの間隔もそれぞれ違う。全部がこちらを見ている。
手が多い。右に四本。左に二本。左右非対称で、長さも太さも揃っていない。一番長い腕の先が、地面を引きずっている。
第七の神獣。
人型異形。
百五十年前、雪を殺したもの。
泉水さんが、静かに言った。
「思い出深い相手でしょう?」
白夜さんの拳が鳴った。骨がきしむ音。
「……お前」
「あの子を最後に奪ったのは、これですよ。雪さんを」
白夜さんは何も返さなかった。
言葉の代わりに、蒼い火が手に灯った。
第七神獣が動いた。ゆっくり。でも確実に、白夜さんのほうへ。六本の腕が、一斉にこちらを向く。八つの目が、白夜さんだけを見る。
睦月さんが一歩前へ出ようとした。
「——行くな」
白夜さんが言った。振り返らずに。
「お前の相手はそっちだろ」
泉水さんを、顎でしゃくった。
睦月さんの足が止まった。
一拍。
「……白夜さん」
「死なねえよ」
短かった。
蒼い火を纏ったまま、白夜さんは斜面を降り始めた。第七神獣がそれを追う。琵琶湖側の暗い斜面へ、二つの影が吸い込まれていく。
---
山上に、二人が残った。
泉水さんが、睦月さんを見ていた。
睦月さんが、泉水さんを見ていた。
朝の光。風。蔦の脈動。
遠くの斜面で、何かが激しくぶつかる音がした。
白夜さんの戦いが、もう始まっている。
睦月さんの指が、短刀の柄を握った。
今度は、触れるだけじゃなかった。
——その話は、次にしましょう。




