第53話 神獣
比叡山までの道は、思ったより静かだったそうです。
嫌な静かさでした。鳥の声がしない。虫も鳴かない。霜を踏む足音と、兵の甲冑がかちゃかちゃ鳴る音だけが、山道の冷えた空気に吸い込まれていく。
朝の光は出ている。出ているのに、薄い。曇ってるわけじゃないんですよ。空は白い。ただ、光に力がない。陽が昇ったのに冬の夕方みたいな色をしている。
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道中、白夜さんと睦月さんが少しだけ言葉を交わしたそうです。
「白夜さん」
「ん」
「……もし、私が泉水さんを止められなかったら」
「止めるんだろ」
「……はい」
「じゃあ、その話いらねーだろ」
一拍。
「絶対に死ぬなよ」
白夜さんはね、気づいてないんですよ、たぶん。儀が始まってから「死ぬなよ」が口癖になってることに。
睦月さんは黙って頷いたそうです。
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比叡山の麓に着いたとき、最初に変わったのは匂いだったとか。
土の匂いが消えた。
秋の山なら、落ち葉の湿った匂い、木の皮の匂い、それくらいはするでしょう。でも、そのどれもしなかった。代わりにあったのは、もっと深いところの匂い。地面の下の、石と水と、何か腐りかけたものが混じったような。
白夜さんが鼻を鳴らした。
「……嫌な匂いだな」
山道を上がるにつれて、木が変わっていったそうです。紅葉も楓も、枝が黒ずんでいる。枯れているんじゃない。色が抜けている。幹の表面に、細い亀裂が走っている。その亀裂に沿って、蔦が這っていた。
泉水さんの蔦。
太いものじゃない。髪の毛みたいに細い蔦が、地面から木の根へ、根から幹へ、幹から枝へ、少しずつ山全体を覆い始めていた。
睦月さんがそこで、一度だけ足を止めたそうです。
蔦を見ていた。
それ以上は、何も言わなかったとか。
田沼が、足を止めずに兵へ言った。
「固めすぎるな。三間ずつ開けろ」
短い。いつも通りの声でした。密集すると一撃で全滅する。かといって散りすぎれば統率が取れない。三間。ちょうど槍一本分の間合い。
時継は、田沼の後ろにいた。
拳を握っていた。膝が、見てわかるくらいに震えていた。
ただ、いつもと少しだけ違ったのは、逃げていなかったことでした。
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石段が見えてきた頃だったそうです。
白夜さんが、足を止めた。
「……来た」
低い声だった。
地面の振動。遠くの、だが確かに近づいてくる重いもの。石段の向こう、尾根の陰から、何かがこちらを見ている気配がした。
影が走った。
尾根の向こうから、一直線に。
黒い。速い。
虎だった。尾根の上に立って、こちらを見下ろしている。動かない。立っているだけ。それが余計に怖い。
兵の何人かが、槍を構えた。穂先が揺れている。
と、足元が割れた。
石段の脇の地面が、内側からめくれるみたいに裂けて、その隙間から黒い節が突き出した。百足。地面の下を這ってきていた。
悲鳴が上がった。同時に、空からも来た。
影が落ちる。鷲が翼を広げて山の上空を旋回していた。
遠くの沢筋で水が跳ねる音。鐘楼跡のあたりから石が崩れる音。木々が軋む。何かが、山のあちこちで動いている。
六体。
全部いた。
白夜さんが舌打ちした。
「泉水が呼んだんだろ。あいつ、もう神獣を従えやがる」
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兵が右往左往し始めた。
当然でしょうね。虎が正面。百足が足元。鷲が上空。残りが左右と後方。どこを向いても獣がいる。槍を構える方向が定まらない。
田沼が指示を出した。短く、的確に。左翼を石段の横へ。右翼を杉の並木沿いに。虎に対しては正面から当たるな、迂回しろ。
でも、六体を同時に捌ける指示なんか、人間にはない。田沼でも、足りなかった。
兵が二人、百足の一撃で吹き飛ばされた。鷲が急降下して、右翼の端にいた兵の肩を鉤爪で裂いた。悲鳴。血。石段に赤が散る。
壊れかけていたそうです。
戦線が。
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時継が何かを言いかけたそうです。
口が開いた。でも、声にならなかった。喉まで来て、止まった。
虎が尾根を降り始めた。石段をゆっくり、こちらへ。
もう一度、口が動いた。
「——右へ寄せてください」
小さな声だった。兵には届かなかったかもしれない。
でも、田沼が聞いた。
「何と言った」
「虎を……右の石段へ寄せてください。狭いところへ入れたほうが、あれは動けなくなる」
田沼がそこで一歩、前に出た。
「上様のご下知だ」
短く。
「動け」
兵が動いた。
命令系統として機能した、というより、あの場で他に従うべき声がなかったんでしょうね。
時継は、そこで止まらなかった。
「百足を崖側へ寄せろ……渡り廊下の柱を切れ。崩して落とせ。下へ落ちれば、あれは回り込むのに時間がかかる」
「退路は——」
「左の庭跡へ抜ける!」
声が裏返った。
「蛸を池から上げるな! 石橋を落として向こうに止めろ! 材木を持て、縄を持て!」
「鷲に槍を向けるな! 火を焚け、煙を上げて目を潰す! 屋根に入れ、広い場所に出るな、路地へ散れ!」
噛んでいた。言葉の端々が震えて、途中で何度も息を呑んでいた。英雄の声じゃない。逃げ足だけで生き延びてきた男の、恐怖まみれの声だった。
でもね。
指示は通ったんですよ。
虎が石段の狭所に入った。壁と壁の間で、あの速い横跳びが封じられる。百足が崖側へ落ちた。鷲が煙に巻かれて高度を上げた。牛鬼は鐘楼跡の瓦礫に足を取られた。
全部が成功したわけじゃない。石橋を落とそうとした兵は蛸の触手に巻かれて沢へ引きずり込まれた。崖へ百足を追った兵は、二人が地面ごと崩れて落ちた。
人は死んだんです。
それでようやく、全滅だけは免れた。
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田沼が、短く言ったそうです。
「——上様」
時継が、びくりとした。
「……将棋でございますか」
「わ、私は……」
「駒を捨てず、利きを通す」
田沼が、少しだけ口元を動かした。
「上様らしいお指し方です」
それだけでした。
時継は何か返そうとしたそうですが、声が出なかった。頷くのが精いっぱいだったとか。
田沼は、もうそれ以上は何も言わなかったそうです。視線はすでに前を向いていた。
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時継は震えながら、声を出し続けたそうです。
「全軍、引くな! 私がここにいる!」
声が裏返っていた。でも、届いた。
兵はもう、否定する余裕もなかったんでしょうね。景虎はもういない。田沼は武人じゃない。他に声を出せる人間が、あの場にはいなかった。
時継は剣を持てない。術も使えない。前に出ることもできない。
でも、石段の上に立って、震える声を張り上げ続けることはできた。
あの声は将軍の声じゃなかったとあたしは思いますよ。
ただ、あれは時継さんの声でしたね。偽物の将軍の、本物の声。
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神獣の進路がずれた瞬間が、あったそうです。
ほんの少し。虎が狭所で動けない。百足が崖下で登り返している。鷲は煙を嫌って旋回を繰り返している。蛇が木立に絡まって進路を変えている。
山の中腹から根本中堂跡へ抜ける一本の道が、ほんの数十秒だけ、空いた。
田沼が見た。
「今だ。行け」
白夜さんが走り出した。
走り出す前に、ほんの一瞬だけ時継のほうを見たそうです。
時継はまだ立っていた。唇だけが白い。
白夜さんは何も言わなかった。
一拍。
視線を切って、走った。
睦月さんが白夜さんの後を追った。追った、というより、ほぼ同時だったとか。田沼の声が出る前から、半歩前に出ていた。神獣の混乱の中で、睦月さんはずっと泉水さんの気配だけを探していたんでしょうね。道が空いた瞬間、誰より先に身体が動いた。
二人の姿が、神獣の影の間を縫うように消えていった。
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石段の上に、時継が残った。
田沼が残った。
兵が残った。
そして、六体の神獣が残った。
白夜さんと睦月さんが抜けた隙間は、もう閉じ始めていた。虎が向き直る。百足が崖を登り返してくる。牛鬼の足音が近づいている。
時継は、そこでもう一度、戦場を見たそうです。
兵が足りない。
駒が足りない。
盤面を回すには、もう一手——もう一つの駒が、必要だった。
時継が何を見て、何を決めたか。
ただ、このあとの話を聞いた限りでは。
あの人は、自分を盤の上に置いたそうです。
——その話は、次です。




