第52話 夜明け前
伏見の山を少し下ったところで、白夜さんたちは一度足を止めたそうです。
鳥居が途切れて、木立の向こうに結界の淵がかすかに見える場所でした。
黒い帯。
最初の日、東山の高台から見たでしょう。京の町をぐるりと囲む、あの嫌な霧みたいなやつです。
赤い月は、もうなかった。
空は白み始めている。山の端も、鳥居の朱も、朝の色に戻りかけている。
なのに、あの黒い帯だけがまだそこにある。
終わった朝の顔をしていないんですよ。
それで白夜さんが、舌打ちしたそうです。
「……ちっ」
短い舌打ちだったとか。長々しく苛立つ元気もなかったんでしょうね。六日目まで生き延びて、織姫を斬って、百足から逃げて、無幻まで片づけて、そのうえ最後に泉水がああなった。疲れてないわけがない。
白夜さんは空じゃなく、結界のほうを見たまま言ったそうです。
「前と同じだ」
一拍。
「夜明けが来るまで、俺たちはここから出られねえ」
睦月さんが、少しだけ眉を寄せた。
「……赤い月は、全部消えました」
「ああ」
「なら、なぜ——」
「知らねえよ」
白夜さんは、そこで吐き捨てるみたいに言ったそうです。でも、知らないなりにわかってることはあったんでしょうね。前回の儀の勝者ですから。
「前もそうだった。最終日の贄の刻が終わって、禍月が全部消えても、すぐには結界が解けなかった。夜明けまで続いた」
田沼が、それを聞いて口を開いたそうです。
「つまり、禍月を消すだけでは儀は閉じぬ、ということか」
静かな声でした。いかにもあの人らしい声ですよ。目の前で世界が終わりかけていても、まず理屈の形に直そうとする。
「たぶんな」
白夜さんが言う。
「理由は知らねえ。ただ、終わってねえ」
「理由なら、あるのかもしれぬ」
田沼はそう言って、結界のほうを見たそうです。
「禍月は一つずつ減った。だが、最終日の贄の刻が終わったあとも、夜明けまで儀が続く。ならば、禍月を回収することだけでは足りぬのだろう」
時継が、小さく息を呑んだとか。
「……足りない?」
田沼は頷いた。
「夜明けまで、儀を続けること自体に意味がある」
白夜さんは黙っていたそうです。否定もしない。前もそうだったのなら、その仮説は筋が通っている。
睦月さんが低く言ったとか。
「禍月の力を……馴染ませるために」
田沼が、少しだけ目を細めた。
「そう考えるのが自然だ」
一拍。
「泉水は、前倒しで依り代になった」
その名が出た瞬間、空気が少しだけ重くなったそうです。
「本来なら、夜明けを待ってから触れるつもりだったはずだ。だが、包囲を逃れるために神器を取り込んだ。だから完全ではない」
白夜さんが鼻を鳴らした。
「未完成のまま、出ちまったってことか」
「そうだ」
「なら、夜明けまでに潰せばいい」
田沼は頷いた。
「逆に言えば、夜明けを越えれば終わる」
田沼は、即座にそちらを見たそうです。
「終わる」
時継の顔が、少しだけ明るくなりかけた。
「悪い意味で、だ」
その一言で、また青くなったとか。
田沼の声は低かった。
「結界が残っているのは、あれもまた儀の内にあるからだ。夜明けまで生き延びれば、あれは完成する」
「完成したら」
「結界の外へ出るだろう」
誰も、すぐには何も言わなかったそうです。
京だけじゃ済まない。
裏も表もない。
人間も妖怪も関係ない。
そこまで言葉にしなくても、その場にいた全員が、もう同じ景色を見ていたんでしょうね。
白夜さんが、低く言ったそうです。
「夜明けまでに倒すしかねえな」
誰も反対しなかった。
反対しても、別の道なんか残っていませんでしたから。
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「倒すっつったって、あいつ不死だぞ」
白夜さんが言った。
それは、愚痴じゃなかったでしょう。事実です。切っても、焼いても、すぐに戻る。さっきまで目の前で見てきたことですからね。
「ならば、不死ごと退けるしかない」
田沼が答えたそうです。
「伝承では、禍神を砕いた巫女の力のみが、それを成すとある」
白夜さんの目が、そこでわずかに動いた。
巫女。転生体。朝霧。雪。——睦月。
「泉水が言っていたな。睦月が巫女の転生体だと」
「ああ」
「ならば、可能性があるとすれば——」
田沼の視線が睦月さんに落ちた。
「この娘だけだ」
睦月さんは、そこで何も言わなかったそうです。
目を見開いた、というほどでもない。でも、息だけが一度止まった。
自分が鍵だと言われた。巫女の転生体だと。止められる可能性があるのは、自分だけだと。
それは、勇ましく名乗りを上げれば済む話じゃないんですよ。
逃げられない役目を、急に胸へ押し込まれたようなものですからね。
睦月さんの指先が、短刀の柄に触れたそうです。握らない。ただ、そこにあると確かめるみたいに。
一拍。
それから、顔を上げた。
「私が行きます」
白夜さんが顔をしかめた。
「おい。お前、巫女の力の使い方わかるのかよ」
「わかりません」
「お前な」
「でも、それしかありません」
声は静かだったそうです。震えてもいない。
田沼は、そこへ割って入ったそうです。
「いまは手段より先に、居場所だ」
冷静な人です。ほんとに。
「奴から見れば、急ぐ必要はない。夜明けまで潜み、力を馴染ませ、その後でこの娘を殺せばいい」
睦月さんが、短刀の柄に触れたそうです。「なら、探します」
「どこをだよ」
白夜さんが言う。
「結界は広いぞ。比叡山から大原まで、どこに潜んでいてもおかしくねえ」
「…………」
「適当に走り回って見つかる相手じゃねえだろ」
そこで、言葉が切れたそうです。
広い山。
消えた月。
まだ残っている結界。
夜明けまでに泉水を見つけて、止めなければならない。
わかっていることばかり増えていくのに、肝心の居場所だけがない。
誰も、すぐには何も言えなかったとか。
冬手前の空気ってのはね、沈黙まで冷たくするんですよ。ただ黙るんじゃない。次の言葉が見つからないまま、息だけが白くなる。
白夜さんが、そこで苛立ったように舌打ちしたそうです。
「……くそ」
肩に手をやった。
刻印の戻ったところ。あるいは、昨日からの傷口だったかもしれません。とにかく、自分の体のどこかに残っている“儀の痕”に触れた。
そのとき、白夜さんの目つきが、ほんの少しだけ変わったとか。
「……待て」
誰も動かなかった。
白夜さんは、刻印のある肩を見たまま、低く言ったそうです。
「儀、まだ死んでねえんだよな」
「……ああ」
田沼が答える。
「結界も残っている。夜明けまでは続く」
「なら」
白夜さんが、ゆっくり顔を上げた。
「あいつ、神器から力を取り込んでたよな」
睦月さんが、そこで泉水のいた地下を思い出したんでしょうね。あの肉塊。あの脈動。
「はい」
「だったら、欠片そのものと同じだろ」
一拍。
「検知に映るんじゃねえのか」
田沼が、そこで目を細めた。
「……試せ」
「言われなくてもやる」
白夜さんが吐き捨てるみたいに言って、自分の肩へ指先を当てた。
少しだけ血が滲んだそうです。もう贄の刻でもないのに、血を媒介にするしかないのが、この祭りの嫌なところですね。
次の瞬間、白夜さんの目の色が変わったとか。
検知の赤。
でも、見えたものは今までと違っていたそうです。
町じゅうに散る細い柱じゃない。
一本だけ。
太い、異様に太い柱が、遠くの空の下から立っていたそうです。
比叡山。
東の山並みの向こう。京の町のさらに先。冬の手前の空の下、一本だけ、禍々しい柱が空へ伸びている。
白夜さんが、短く言ったそうです。
「……見えた」
「どこだ」
田沼の声。
白夜さんは、指先で東を示した。
「比叡山」
一拍。
「あそこにいる」
その場の空気が、また一段冷えたそうです。
居場所がわかった。
それは前進です。
でも、前進した先にあるものの形が、あまりに悪すぎた。
時継が、東の山並みを見て、小さく息を呑んだとか。
「比叡山……」
睦月さんは何も言わなかった。ただ一歩、前に出た。
田沼はすぐに兵へ指示を飛ばした。
時継は一拍遅れて、それでもついていく顔をした。
白夜さんだけが、まだ東を見ていたそうです。
比叡山の空の下に立つ、一本の柱。
あれはもう、欠片の柱じゃなかった。
山そのものが、禍神の喉になって、空へ脈を打っているみたいだったとか。
「行くぞ」
白夜さんが言った。
声だけは、もう迷っていなかったそうです。




