第49話 千年
槍の穂先が、三人へ向けられていたそうです。
白夜さん。
睦月さん。
泉水さん。
もう贄の刻は終わっている。空の赤い月も消えた。それなのに、山の朝の空気はまるで軽くならなかった。冷えたまま。草の先についた霜が、まだ白く残っていたそうです。
白夜さんが半歩、前へ出た。
「おい。何の真似だ」
田沼は白夜さんに答えず、泉水さんだけを見ていた。
そして、声は低く、短く。
「お前は鴉衆ではない」
泉水さんの表情が、ほんのわずかに動いたそうです。
動いた、というのも大袈裟かもしれません。目元がほんの少しだけ狭くなった。それだけ。笑みは消えていない。姿勢も崩れていない。
田沼が続けた。
「本物の泉水は死んでいる。鴉衆に配属される前に殺され、お前がなり替わった」
睦月さんの息が止まったそうです。
泉水さんを見た。泉水さんは、穏やかな顔で立っていた。
「平安の儀の生き残り。千年の不死者。——そうだな」
泉水さんは黙っていた。
田沼が一歩、前に出た。
「雅楽が遺した言葉だ。『最後の贄の刻までに自分が消えていたら、泉水は黒だ』と」
あとで聞いた話ですが、雅楽さんは前日、時継さんを返しに行った折に、田沼さんへ個別にこれを伝えていたそうです。念のためだ、とでも言ったんですかね。あの人らしい。
田沼さんは、そこで少しだけ口元を歪めたそうです。笑ったのか、苛立ったのか。——死人に駒として使われる気分はどうだったんでしょうね。あたしは聞きませんでしたが。
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川の水音がした。
柳が揺れた。
それだけの間でした。
泉水さんの顔が、そこで変わったそうです。
いや——変わらなかったんです。
笑みは消えない。眉も動かない。声も。
ただ、纏っていた空気が、するりと、抜けた。
蛇が脱皮するみたいに、と白夜さんは言ってましたよ。形は同じなのに、中身が別のものになった。
「ああ、雅楽さん」
泉水さんは、ため息をつくように言ったそうです。
「死んでも面倒な人だ」
穏やかな声でした。
本当に、穏やかな声でした。
「うまくいくと思ったのに」
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白夜さんの体が動いたそうです。
半歩、泉水さんとの間に入る。睦月さんを背中側に。反射です。頭より先に体が動いた。
泉水さんはそれを見て、小さく微笑んだそうです。
「白夜さん。そんなに警戒しないでください。——逃げませんよ」
「……お前、何者だ」
「そうですね」
泉水さんは、そこで少しだけ空を見上げたそうです。赤い月のない空を。
「田沼さんに言われた通りですよ。僕は平安の儀の生存者です」
一拍。
「僕はただの陰陽師だったんです。千年前の」
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ここから先は、泉水さんが自分の口で語ったことです。
あたしはその場にいませんでしたが、白夜さんも睦月さんも、だいたい同じことを覚えていました。だから、大筋は合ってるはずです。
——声が変わらなかった、ということも含めて。
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「人を助けるのが好きだったんです」
泉水さんは、そう言ったそうです。
「困ってる人を見たら放っておけない。——睦月さん、あなたに似てるでしょう?」
睦月さんは答えなかった。
「儀の中で、朝霧という女性に出会いました」
泉水さんの声が、ほんのわずかに——いや、変わらなかったんですよ。変わったように聞こえるのは、こっちの気持ちのせいです。声は同じ。同じなのに、その名前を出したとき、空気だけが重くなった。
「朝霧は優しかった。優しすぎた」
一拍。
「僕が二人で生き残る道を作ったのに、他の人を見捨てられないと言った」
川の水音が、やけに大きく聞こえたそうです。
「馬鹿ですよね。でも、そういうところが好きだった」
泉水さんは睦月さんを見たそうです。まっすぐに。
「僕が守らなければ。そう思っていたんです。それなのに、朝霧は——僕じゃなくて、別の仲間を助けに行って、そこで死んだ」
声は穏やかなままでした。
穏やかなまま、千年前の話をしている。
「目の前で。僕の目の前で。——血まみれで」
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「僕は調べたんです」
泉水さんは続けた。
「儀とは何なのか。朝霧とは何だったのか。何年も。何十年も」
声の調子が変わらないことに、たぶんこの辺りで白夜さんも気づいたんでしょうね。
「すごいことがわかりましたよ」
微笑んだそうです。
「禍神を砕いた原初の巫女。神を砕いた代償で、永遠に人生を繰り返し、歴史を彷徨う存在になった。ただの伝承だと思われていた。でも本当だったんです」
泉水さんの目が、すう、と細くなった。
「僕が愛した朝霧は、巫女の転生体だった」
睦月さんの指先が、短刀の柄に触れたそうです。
「朝霧は死んだ。でも、また転生する。いつか、どこかで、また生まれ変わる。——それがわかったとき」
一拍。
「僕の心は希望で充ち溢れましたよ」
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白夜さんの顔が変わったのは、その次の言葉でした。
「白夜さん」
泉水さんが、白夜さんのほうを向いた。
「前回の儀で、あなたと一緒だった女性。雪さん」
白夜さんの肩が動いたそうです。それだけでした。でも、握った拳の骨が白くなるくらいには、力が入っていたとか。
「僕もあとからわかったんですが、彼女も転生体でした。朝霧と同じ魂。同じ巫女の血を引いた、同じ人の生まれ変わり」
白夜さんは黙っていた。
「あなたが雪さんを死なせたあとも、僕はずっと探していましたよ。朝霧の魂を」
「死なせた」。
その言い方に、白夜さんの目つきが変わったそうです。
怒りじゃない。もっと鈍い、重い何かだった。
「白夜さん、あなたのこともずっと見ていました。監視、なんて大袈裟なものじゃありませんよ。ただ、気になっていた。朝霧の転生体と心を通わせて、そして死なせた男のことが。——それが本当によかった」
泉水さんの声がね、ここで初めて少しだけ明るくなったそうです。
明るく。
「見間違うはずがないんですよ」
泉水さんが睦月さんを見た。
「白夜さんのところに、朝霧の魂が——睦月さんがやってきたんですから」
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河原の空気が、凍ったそうです。
睦月さんは動けなかった。
言葉の意味を、頭が処理しきれなかったんでしょう。朝霧。雪。転生体。そして自分。その糸が全部、目の前の穏やかな顔の男に繋がっている。
泉水さんは睦月さんを見ていた。
見ていた、という言い方では足りないかもしれません。見つめていた。千年ぶんの目で。千年かけて探し続けたものを、ようやく見つけた目で。
「運命だと思いました。僕らは気の遠くなるような時間を経て、また巡り会えた」
穏やかな声でした。
「そこからはすぐに動きました。善は急げ、でしょう?」
一拍。
「本物の泉水さんには申し訳なかったですが」
そこで初めて、睦月さんの声が出たそうです。
「本物の——泉水さん、を」
「ええ。殺しました」
穏やかに。
「なり替わって、睦月さんの仲間として、一緒に儀に参加したんです」
次のお話をしましょうか。




