↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/60

第48話 最後の月

 泉水さんが戻ってきたのは、六日目の午後だったそうです。


 白夜さんと睦月さんは、南のほうで欠片を二つ確保して、合流地点に戻っていた。伏見稲荷の参道を外れた、人の来ない山道の途中です。鳥居がまばらに立っている場所。朱が剥げかけた古い鳥居と、まだ赤い新しい鳥居が並んでいる。足元は落ち葉と苔。木漏れ日が斑に地面を染めていたそうですが、もう午後の陽は傾き始めていた。


 泉水さんは、一人で来たそうです。


 一人。


 白夜さんが、まずそこを見た。


「雅楽は?」


 泉水さんは立ち止まった。


 少しだけ間があったそうです。その間が長いか短いかなんて、そのときの白夜さんにはわからなかったでしょう。でも、あたしがあとから話を聞いたときには、その間だけがやけに引っかかりました。


 泉水さんの顔が、ゆっくりと曇ったそうです。


 曇った、という言い方が合ってるのかどうか。あの人の表情は、いつだって少しずつ、丁寧に変わるんですよ。急に崩れない。急に固まらない。穏やかな顔が、一枚一枚、薄い紙を重ねるみたいに、少しずつ影を帯びていく。


「——雅楽さんは」


 泉水さんの声が、わずかに低くなった。


「死にました」


---


 白夜さんの体が、動いたそうです。


 泉水さんのほうへ二歩。それから止まった。


 止まったのは、行き先がなかったからでしょう。雅楽さんを助けに行くなら走る先がある。でも死んだ人間には行き先がない。二歩だけ進んで、それ以上どこへも行けなくなった。


 白夜さんの拳が、握られていたそうです。


 あの人は叫んだりしない。目を見開いたり、膝をついたり、そういう大きな反応はしない。ただ、拳が白くなるくらい握られていた。それと、目つきの中にあった「だるい」が消えていた。消えたあとに何が入ったかは、見た人にしかわからないでしょう。


 ——今朝、白夜さんは言ったんですよ。「俺はいらねえよ」って。自分が死ぬ。自分が欠片を譲る。さんざん生きたんだから、おつりが来るくらいだ、と。


 それを聞いて、雅楽さんは何と言ったか。


「悪いけど僕は譲る気はないよ」


 あんなにはっきり。あんなに軽く。扇子を開きもしないで、閉じた音だけぱちんと鳴らして。


 白夜さんの中で、その声が反響していたんじゃないですかね。


 俺が死ぬと言ったのに。俺が譲ると言ったのに。そのあいだに、別の人間が先に消えた。


 朝の時点ではまだ、誰も死んでいなかった。一つ足りない、どうするか、という話だった。白夜さんが名乗り出て、睦月さんが拒んで、雅楽さんが「まず三つ取ろう」と仕切り直した。


 あの仕切り直しの声がなければ、もう少し揉めていたかもしれない。もう少し時間を使っていたかもしれない。全員で探索に出る前に、別のやり方を考えたかもしれない。


 でも雅楽さんが「算数だよ」と言ったから、四人は動き出した。二手に分かれた。そして雅楽さんは泉水さんのほうへ行った。


 ——白夜さんが何を考えていたか、あたしにはわかりませんよ。でもね、拳の握り方だけ見れば、想像はつきます。自分が死ぬはずだった。自分がいなくなれば帳尻が合った。なのに——こうなった。


「……何があった」


 低い声だったそうです。短い。でも、その四文字に力が入りすぎていて、声が少し掠れたとか。


「探索中に襲われたんです。参加者だったのか、神獣だったのか——僕が気づいたときには」


 泉水さんの声が途切れた。途切れたように見えた、というべきかもしれません。唇が一度閉じて、それからまた開く。


「間に合いませんでした」


---


 睦月さんの手が、短刀の柄に落ちたそうです。無意識だったんでしょう。何かに掴まりたかっただけかもしれません。


「泉水さん、怪我は」


「僕は大丈夫です。——雅楽さんの欠片は、回収しました」


 そう言って、泉水さんが欠片を一つ差し出した。脈打つ土器の欠片。さっきまで雅楽さんが持っていたもの。


 白夜さんは、その欠片を見て、しばらく動かなかったそうです。


 右手はまだ握られている。左手は下がったまま。受け取る手が出ない。


 欠片に罪はない。ただの神の残骸です。脈打っていて気味が悪いだけで、善も悪もない。でもね、死んだ人間が持っていたものを受け取るってのは、そういう理屈とは別の話なんですよ。しかもこの男は今朝、自分がいなくなると言った。自分の分はいらないと言った。なのに今、別の人間の分の欠片が目の前に差し出されている。


 ──俺が、死ぬはずだったのに。


 白夜さんが、そう考えたかどうかは知りません。あたしの想像ですよ。でも、受け取らなかった時間が長かったそうです。いつもの白夜さんなら「よこせ」で済ませる。済ませられない何かが、あの手を止めていた。


 泉水さんがもう一度、欠片を差し出す。


「白夜さん」


 穏やかな声でした。


「これで三つあります。——全員分です」


 全員分。


 三つ。三人分。


 朝は四人で三つだった。足りなかった。一人余った。今は三人で三つ。ぴったり。合っている。


 合っている。


 ——誰の分が消えたから、合ったんですか。


 白夜さんの左手が、ゆっくりと持ち上がった。


 欠片を受け取った。


 それから、右手の拳を開いた。爪が掌に食い込んでいた跡が残っていたそうです。


「……あのやろ」


 低い声だったそうです。


「あんだけ、譲る気はないとか言っといて」


 誰にも向けていない声。鳥居の朱にぶつけて消えるような声。


 一拍。


「——面白いもん見つけて、止まれなかったんだろ」


 あたしはね、この台詞をあとから聞いたとき、白夜さんにしては随分わかってるなと思いましたよ。雅楽さんがなぜ死んだか、白夜さんはこの時点では知らないんです。泉水さんの正体も知らない。でも、雅楽さんが「何かを見つけて、引き返せなくなった」ことだけは、勘で当てていた。


 あの人はね、頭はよくないんですよ。理屈で物を考えない。でも、人間のことは見えるんです。特に、自分と似たような不器用さを持ってる人間のことは。


---


 睦月さんが泉水さんに聞いたそうです。


「雅楽さんは……苦しみましたか」


 泉水さんは少しだけ目を伏せた。


「わかりません。——僕が着いたときには、もう」


 それ以上は言わなかった。言わなかったことで、睦月さんもそれ以上は聞けなかった。


「……扇子、握ってましたか」


 睦月さんが、ぽつりと聞いた。


 泉水さんが顔を上げた。


「ええ。——閉じたまま、穏やかな顔でした」


 その言い方が、あたしはどうにも引っかかるんですよね。あとで全部知ってしまった側のずるい見方ですよ。でも、「穏やかな顔でした」って、あの人が言うと、なんだか仏壇に花を供える人の声に似てませんか。自分で手を合わせた仏に、自分で供物を置いている。丁寧に。静かに。


 まあ、あのとき白夜さんも睦月さんも、そんなことを考える余裕はなかったでしょう。


 雅楽さんが死んだ。


 それだけで、頭がいっぱいだったはずです。


---


 三人は、そのまま贄の刻を待ったそうです。


 山道に座って。


 伏見の山は静かでした。鳥居の間を風が抜けていく。落ち葉が乾いた音を立てて石段を転がっていく。遠くで鴉が鳴く。稲荷山の杉と檜の匂い。木の幹に染みた雨水の匂い。苔の匂い。冬が近い山の匂いです。


 白夜さんは鳥居の柱に背をもたれて座っていたそうです。朱の柱に銀髪が映える。片膝を立てて、手の甲で顔の半分を隠すようにしていた。あの人が顔を隠すのは、見られたくないものが顔に出ているときです。


 睦月さんは参道の石段に座って、短刀を膝の上に置いていた。刃を抜いてはいない。鞘の上から、刀の重さを手で確かめるみたいに。


 泉水さんは——少し離れた場所に座っていたそうです。三人の中で、少しだけ外側に。いつもならもう少し近くにいるのに、この日は一歩ぶん遠かった。気遣いに見えたかもしれません。雅楽さんを失った二人に、距離を取っている。そういう優しさに見えたかもしれません。


 獅童さんがいれば、たぶん黙っていられなかったでしょうね。「あいつの分まで生き延びてやる」とか、でかい声で言っていたかもしれない。


 雅楽さんがいれば、「整理しよう」と言って、もう次の盤面を読んでいたでしょう。


 二人ともいない。


 だから、伏見の山は静かでした。


---


 空の色が変わり始めたそうです。


 鳥居の隙間から見える空の青が、少しずつ傾いていく。夕日は山の向こうへ落ちかけている。鳥居の朱が夕光を浴びて、一瞬だけ、朝よりも鮮やかに燃えた。


 逢魔が時。


 白夜さんが立ち上がった。


「来る」


 それだけ。


 空気が変わる。いつもの、あの変わり方です。


 音の質が変わる。杉の葉擦れの音すら、少しだけ遠くなる。


 鳥居の根元から、黒いものが滲み出した。石段の隙間から。苔のあいだから。木の幹に落ちた影のふちから。


 影。


 冷たく、黒く、生きているとも死んでいるとも言えないもの。


 欠片を持った白夜さんの懐に、手が入る。脈打つ土器を掴み、引き抜いていく。


 とくん。


 睦月さんの懐にも。


 とくん。


 泉水さんの懐にも。


 とくん。


 三つ。


 三人分。


 過不足なく。


---


 影が引いていく。


 黒い手が、石段の隙間へ、鳥居の根元の土の中へ、沈むように消えていく。


 三人は、その場に立ったまま、空を見上げたそうです。


 鳥居の朱い柱の間から見える空に、赤い月があった。


 いや——あった、じゃない。


 消えていくところだったそうです。


 最後の一つ。朝まで頼りなく浮かんでいた、あの薄い赤。


 それが、贄の刻とともに、溶けるように消えた。


 空にはもう、何もなかった。


 鳥居の朱と、暮れていく空の藍だけ。秋の終わりの、冬の手前の、ただの夕暮れ。


 白夜さんが、ぽつりと言ったそうです。


「……終わったのか」


 声に確信はなかったそうです。問いかけというより、自分で自分に聞いている声。


 睦月さんも空を見ていた。赤い月がない空を。


「赤い月が、全部消えました」


「ああ」


「終わった……んでしょうか」


 誰も断言できなかったそうです。


 前回の儀を経験した白夜さんでさえ、すぐには「終わった」と言えなかった。前回は七日目の夜明けで終わった。今回は六日目。月が消えた。でも——


 泉水さんが、穏やかに言いました。


「赤い月が全てなくなった。贄の刻も来た。——たぶん、儀としては終わりですね」


 たぶん。


 その「たぶん」が、あの場ではいちばん確かな言葉だったんでしょう。


---


 三人が鳥居のあいだに立ったまま、しばらく動かなかったとき、足音が聞こえたそうです。


 複数。整った足音。石段を踏む、兵の足音です。


 参道の下のほうから、槍を持った幕府の兵が上がってきた。五人、六人。もっといたかもしれません。鳥居の列をくぐって、一人ずつ。朱い柱と黒い甲冑が交互になる。


 そしてその後ろに——


 田沼意次。


 時継。


 田沼はいつも通り静かな足取りで、時継は相変わらず少し腰が引けた歩き方で、石段を上がってきた。


 白夜さんが顔をしかめる。


「……なんだよ、今度は」


 田沼は白夜さんたちの三人を見て、そのあと周囲を見たそうです。


 三人。


 四人じゃない。


 雅楽がいない。


 田沼の目が、一瞬だけ泉水さんのほうへ動いた。


 一瞬です。


 それから、白夜さんへ視線を戻した。


「儀は終わったようだな」


「らしいな。赤い月が消えた」


「ここに来たのは、生存者の確認だ」


 田沼はそう言って、兵を配置する。鳥居の間に一人ずつ、周囲を固める動き。護衛に見えなくもない。でも、護衛だけにしては、少し多い。


 時継が、おずおずと一歩前に出た。


「あの……皆さん、ご無事で」


 白夜さんが面倒くさそうに鼻を鳴らす。睦月さんが「はい」と短く返す。


 泉水さんが、いつもの穏やかな顔で言った。


「おかげさまで。——残念ですが、雅楽さんは」


「聞いている」


 田沼が遮った。


 短い声でした。


 その短さに、白夜さんが少しだけ目を細めたそうです。聞いている。誰から? いつ?


 でも、その疑問を口にする前に、田沼はもう次の言葉を出していた。


「生存者は三人で相違ないか」


「……ああ」


「では、一つ確認することがある」


 田沼の声が、そこで少しだけ変わったそうです。


 温度が下がった、と白夜さんはあとで言ってましたよ。あの男の声はもともと冷えてるが、もう一段、冷えた。帳場の奥に隠してある本物の帳簿を開くときの声に似ていた、と。


 兵が、三人の周りに位置を取る。


 槍の穂先は向けていない。でも、向けられる距離にいる。


 鳥居の朱い柱の間に、黒い甲冑の兵が並ぶ。夕暮れの光がもう弱い。松明が一つ、二つ、灯される。朱と黒と、松明の橙。


 白夜さんの目つきが変わった。


「おい。なんだよ、これは」


 田沼は答えなかった。


 代わりに、泉水さんを見た。


 ——あたしはね、この話を聞いたとき、ぞくっとしましたよ。


 伏見稲荷の鳥居のあいだで、松明の火に照らされて、田沼が泉水さんを見ている。鳥居ってのはね、こちらの世界とあちらの世界を分ける門なんですよ。その門のあいだに立っている男の顔が、松明の火で半分だけ照らされて——穏やかなまま。


 あたしは見てませんからね。想像ですよ。でも、想像しただけで背筋が寒くなった。


 六日間、あの穏やかな顔で、何を隠していたのか。


 ——その答えが、次の話です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。