第48話 最後の月
泉水さんが戻ってきたのは、六日目の午後だったそうです。
白夜さんと睦月さんは、南のほうで欠片を二つ確保して、合流地点に戻っていた。伏見稲荷の参道を外れた、人の来ない山道の途中です。鳥居がまばらに立っている場所。朱が剥げかけた古い鳥居と、まだ赤い新しい鳥居が並んでいる。足元は落ち葉と苔。木漏れ日が斑に地面を染めていたそうですが、もう午後の陽は傾き始めていた。
泉水さんは、一人で来たそうです。
一人。
白夜さんが、まずそこを見た。
「雅楽は?」
泉水さんは立ち止まった。
少しだけ間があったそうです。その間が長いか短いかなんて、そのときの白夜さんにはわからなかったでしょう。でも、あたしがあとから話を聞いたときには、その間だけがやけに引っかかりました。
泉水さんの顔が、ゆっくりと曇ったそうです。
曇った、という言い方が合ってるのかどうか。あの人の表情は、いつだって少しずつ、丁寧に変わるんですよ。急に崩れない。急に固まらない。穏やかな顔が、一枚一枚、薄い紙を重ねるみたいに、少しずつ影を帯びていく。
「——雅楽さんは」
泉水さんの声が、わずかに低くなった。
「死にました」
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白夜さんの体が、動いたそうです。
泉水さんのほうへ二歩。それから止まった。
止まったのは、行き先がなかったからでしょう。雅楽さんを助けに行くなら走る先がある。でも死んだ人間には行き先がない。二歩だけ進んで、それ以上どこへも行けなくなった。
白夜さんの拳が、握られていたそうです。
あの人は叫んだりしない。目を見開いたり、膝をついたり、そういう大きな反応はしない。ただ、拳が白くなるくらい握られていた。それと、目つきの中にあった「だるい」が消えていた。消えたあとに何が入ったかは、見た人にしかわからないでしょう。
——今朝、白夜さんは言ったんですよ。「俺はいらねえよ」って。自分が死ぬ。自分が欠片を譲る。さんざん生きたんだから、おつりが来るくらいだ、と。
それを聞いて、雅楽さんは何と言ったか。
「悪いけど僕は譲る気はないよ」
あんなにはっきり。あんなに軽く。扇子を開きもしないで、閉じた音だけぱちんと鳴らして。
白夜さんの中で、その声が反響していたんじゃないですかね。
俺が死ぬと言ったのに。俺が譲ると言ったのに。そのあいだに、別の人間が先に消えた。
朝の時点ではまだ、誰も死んでいなかった。一つ足りない、どうするか、という話だった。白夜さんが名乗り出て、睦月さんが拒んで、雅楽さんが「まず三つ取ろう」と仕切り直した。
あの仕切り直しの声がなければ、もう少し揉めていたかもしれない。もう少し時間を使っていたかもしれない。全員で探索に出る前に、別のやり方を考えたかもしれない。
でも雅楽さんが「算数だよ」と言ったから、四人は動き出した。二手に分かれた。そして雅楽さんは泉水さんのほうへ行った。
——白夜さんが何を考えていたか、あたしにはわかりませんよ。でもね、拳の握り方だけ見れば、想像はつきます。自分が死ぬはずだった。自分がいなくなれば帳尻が合った。なのに——こうなった。
「……何があった」
低い声だったそうです。短い。でも、その四文字に力が入りすぎていて、声が少し掠れたとか。
「探索中に襲われたんです。参加者だったのか、神獣だったのか——僕が気づいたときには」
泉水さんの声が途切れた。途切れたように見えた、というべきかもしれません。唇が一度閉じて、それからまた開く。
「間に合いませんでした」
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睦月さんの手が、短刀の柄に落ちたそうです。無意識だったんでしょう。何かに掴まりたかっただけかもしれません。
「泉水さん、怪我は」
「僕は大丈夫です。——雅楽さんの欠片は、回収しました」
そう言って、泉水さんが欠片を一つ差し出した。脈打つ土器の欠片。さっきまで雅楽さんが持っていたもの。
白夜さんは、その欠片を見て、しばらく動かなかったそうです。
右手はまだ握られている。左手は下がったまま。受け取る手が出ない。
欠片に罪はない。ただの神の残骸です。脈打っていて気味が悪いだけで、善も悪もない。でもね、死んだ人間が持っていたものを受け取るってのは、そういう理屈とは別の話なんですよ。しかもこの男は今朝、自分がいなくなると言った。自分の分はいらないと言った。なのに今、別の人間の分の欠片が目の前に差し出されている。
──俺が、死ぬはずだったのに。
白夜さんが、そう考えたかどうかは知りません。あたしの想像ですよ。でも、受け取らなかった時間が長かったそうです。いつもの白夜さんなら「よこせ」で済ませる。済ませられない何かが、あの手を止めていた。
泉水さんがもう一度、欠片を差し出す。
「白夜さん」
穏やかな声でした。
「これで三つあります。——全員分です」
全員分。
三つ。三人分。
朝は四人で三つだった。足りなかった。一人余った。今は三人で三つ。ぴったり。合っている。
合っている。
——誰の分が消えたから、合ったんですか。
白夜さんの左手が、ゆっくりと持ち上がった。
欠片を受け取った。
それから、右手の拳を開いた。爪が掌に食い込んでいた跡が残っていたそうです。
「……あのやろ」
低い声だったそうです。
「あんだけ、譲る気はないとか言っといて」
誰にも向けていない声。鳥居の朱にぶつけて消えるような声。
一拍。
「——面白いもん見つけて、止まれなかったんだろ」
あたしはね、この台詞をあとから聞いたとき、白夜さんにしては随分わかってるなと思いましたよ。雅楽さんがなぜ死んだか、白夜さんはこの時点では知らないんです。泉水さんの正体も知らない。でも、雅楽さんが「何かを見つけて、引き返せなくなった」ことだけは、勘で当てていた。
あの人はね、頭はよくないんですよ。理屈で物を考えない。でも、人間のことは見えるんです。特に、自分と似たような不器用さを持ってる人間のことは。
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睦月さんが泉水さんに聞いたそうです。
「雅楽さんは……苦しみましたか」
泉水さんは少しだけ目を伏せた。
「わかりません。——僕が着いたときには、もう」
それ以上は言わなかった。言わなかったことで、睦月さんもそれ以上は聞けなかった。
「……扇子、握ってましたか」
睦月さんが、ぽつりと聞いた。
泉水さんが顔を上げた。
「ええ。——閉じたまま、穏やかな顔でした」
その言い方が、あたしはどうにも引っかかるんですよね。あとで全部知ってしまった側のずるい見方ですよ。でも、「穏やかな顔でした」って、あの人が言うと、なんだか仏壇に花を供える人の声に似てませんか。自分で手を合わせた仏に、自分で供物を置いている。丁寧に。静かに。
まあ、あのとき白夜さんも睦月さんも、そんなことを考える余裕はなかったでしょう。
雅楽さんが死んだ。
それだけで、頭がいっぱいだったはずです。
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三人は、そのまま贄の刻を待ったそうです。
山道に座って。
伏見の山は静かでした。鳥居の間を風が抜けていく。落ち葉が乾いた音を立てて石段を転がっていく。遠くで鴉が鳴く。稲荷山の杉と檜の匂い。木の幹に染みた雨水の匂い。苔の匂い。冬が近い山の匂いです。
白夜さんは鳥居の柱に背をもたれて座っていたそうです。朱の柱に銀髪が映える。片膝を立てて、手の甲で顔の半分を隠すようにしていた。あの人が顔を隠すのは、見られたくないものが顔に出ているときです。
睦月さんは参道の石段に座って、短刀を膝の上に置いていた。刃を抜いてはいない。鞘の上から、刀の重さを手で確かめるみたいに。
泉水さんは——少し離れた場所に座っていたそうです。三人の中で、少しだけ外側に。いつもならもう少し近くにいるのに、この日は一歩ぶん遠かった。気遣いに見えたかもしれません。雅楽さんを失った二人に、距離を取っている。そういう優しさに見えたかもしれません。
獅童さんがいれば、たぶん黙っていられなかったでしょうね。「あいつの分まで生き延びてやる」とか、でかい声で言っていたかもしれない。
雅楽さんがいれば、「整理しよう」と言って、もう次の盤面を読んでいたでしょう。
二人ともいない。
だから、伏見の山は静かでした。
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空の色が変わり始めたそうです。
鳥居の隙間から見える空の青が、少しずつ傾いていく。夕日は山の向こうへ落ちかけている。鳥居の朱が夕光を浴びて、一瞬だけ、朝よりも鮮やかに燃えた。
逢魔が時。
白夜さんが立ち上がった。
「来る」
それだけ。
空気が変わる。いつもの、あの変わり方です。
音の質が変わる。杉の葉擦れの音すら、少しだけ遠くなる。
鳥居の根元から、黒いものが滲み出した。石段の隙間から。苔のあいだから。木の幹に落ちた影のふちから。
影。
冷たく、黒く、生きているとも死んでいるとも言えないもの。
欠片を持った白夜さんの懐に、手が入る。脈打つ土器を掴み、引き抜いていく。
とくん。
睦月さんの懐にも。
とくん。
泉水さんの懐にも。
とくん。
三つ。
三人分。
過不足なく。
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影が引いていく。
黒い手が、石段の隙間へ、鳥居の根元の土の中へ、沈むように消えていく。
三人は、その場に立ったまま、空を見上げたそうです。
鳥居の朱い柱の間から見える空に、赤い月があった。
いや——あった、じゃない。
消えていくところだったそうです。
最後の一つ。朝まで頼りなく浮かんでいた、あの薄い赤。
それが、贄の刻とともに、溶けるように消えた。
空にはもう、何もなかった。
鳥居の朱と、暮れていく空の藍だけ。秋の終わりの、冬の手前の、ただの夕暮れ。
白夜さんが、ぽつりと言ったそうです。
「……終わったのか」
声に確信はなかったそうです。問いかけというより、自分で自分に聞いている声。
睦月さんも空を見ていた。赤い月がない空を。
「赤い月が、全部消えました」
「ああ」
「終わった……んでしょうか」
誰も断言できなかったそうです。
前回の儀を経験した白夜さんでさえ、すぐには「終わった」と言えなかった。前回は七日目の夜明けで終わった。今回は六日目。月が消えた。でも——
泉水さんが、穏やかに言いました。
「赤い月が全てなくなった。贄の刻も来た。——たぶん、儀としては終わりですね」
たぶん。
その「たぶん」が、あの場ではいちばん確かな言葉だったんでしょう。
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三人が鳥居のあいだに立ったまま、しばらく動かなかったとき、足音が聞こえたそうです。
複数。整った足音。石段を踏む、兵の足音です。
参道の下のほうから、槍を持った幕府の兵が上がってきた。五人、六人。もっといたかもしれません。鳥居の列をくぐって、一人ずつ。朱い柱と黒い甲冑が交互になる。
そしてその後ろに——
田沼意次。
時継。
田沼はいつも通り静かな足取りで、時継は相変わらず少し腰が引けた歩き方で、石段を上がってきた。
白夜さんが顔をしかめる。
「……なんだよ、今度は」
田沼は白夜さんたちの三人を見て、そのあと周囲を見たそうです。
三人。
四人じゃない。
雅楽がいない。
田沼の目が、一瞬だけ泉水さんのほうへ動いた。
一瞬です。
それから、白夜さんへ視線を戻した。
「儀は終わったようだな」
「らしいな。赤い月が消えた」
「ここに来たのは、生存者の確認だ」
田沼はそう言って、兵を配置する。鳥居の間に一人ずつ、周囲を固める動き。護衛に見えなくもない。でも、護衛だけにしては、少し多い。
時継が、おずおずと一歩前に出た。
「あの……皆さん、ご無事で」
白夜さんが面倒くさそうに鼻を鳴らす。睦月さんが「はい」と短く返す。
泉水さんが、いつもの穏やかな顔で言った。
「おかげさまで。——残念ですが、雅楽さんは」
「聞いている」
田沼が遮った。
短い声でした。
その短さに、白夜さんが少しだけ目を細めたそうです。聞いている。誰から? いつ?
でも、その疑問を口にする前に、田沼はもう次の言葉を出していた。
「生存者は三人で相違ないか」
「……ああ」
「では、一つ確認することがある」
田沼の声が、そこで少しだけ変わったそうです。
温度が下がった、と白夜さんはあとで言ってましたよ。あの男の声はもともと冷えてるが、もう一段、冷えた。帳場の奥に隠してある本物の帳簿を開くときの声に似ていた、と。
兵が、三人の周りに位置を取る。
槍の穂先は向けていない。でも、向けられる距離にいる。
鳥居の朱い柱の間に、黒い甲冑の兵が並ぶ。夕暮れの光がもう弱い。松明が一つ、二つ、灯される。朱と黒と、松明の橙。
白夜さんの目つきが変わった。
「おい。なんだよ、これは」
田沼は答えなかった。
代わりに、泉水さんを見た。
——あたしはね、この話を聞いたとき、ぞくっとしましたよ。
伏見稲荷の鳥居のあいだで、松明の火に照らされて、田沼が泉水さんを見ている。鳥居ってのはね、こちらの世界とあちらの世界を分ける門なんですよ。その門のあいだに立っている男の顔が、松明の火で半分だけ照らされて——穏やかなまま。
あたしは見てませんからね。想像ですよ。でも、想像しただけで背筋が寒くなった。
六日間、あの穏やかな顔で、何を隠していたのか。
——その答えが、次の話です。




