第46話 数字
六日目の朝は、冷えました。
秋の冷え方じゃなかったですね。冬の前触れってやつです。屋根の端に白いものが乗っていて、最初は塩でも吹いたのかと思ったんですが、霜でした。裏庭の桶の縁も白い。井戸の釣瓶に触れたら、指先がきしきししましたよ。
息が白かった。
ああ、こういう朝はろくなことにならないな、と、あたしは粥をかき混ぜながら思ったんです。商売人の勘ですよ。だいたい当たりませんが、たまに当たると困るんですよね。
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起きてきた四人は、もう支度をしていました。
座敷でのんびり朝飯、という空気じゃなかったですね。そりゃそうでしょう。六日目ですよ。もう残ってる参加者が自分たちだけかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。欠片の数次第で、全員の生き死にが決まる。そんな朝に、湯気の前でぼんやりなんかしてられません。
白夜さんは、いつものようにだるそうな顔をしてました。右手に火は戻ってきてはいる。でもまだ本調子じゃない。指先に小さく灯るくらいで、前みたいに好き放題ぶん回せるほどではない。本人がいちばん、それをわかってる顔でした。
睦月さんは、もう短刀を帯に差していた。目つきは鋭い。でも、鋭いだけで押し切れる局面が過ぎたことくらい、本人がいちばんわかってる顔でしたね。
泉水さんは朝からきちんとしてましたよ。髪も整ってるし、言葉も穏やか。ただ、ああいう人ほど崩れを隠すのがうまいんです。信用しすぎると足をすくわれる。商いでも同じです。
雅楽さんは、いつものように扇子を持っていたんですが、開いたり閉じたりはしていませんでした。あの人が手遊びを忘れてるときは、だいたい頭の中の帳面が忙しいんです。
「東山に上がろう」
最初にそう言ったのは、雅楽さんだったそうです。
「刻印が変わる瞬間は、高いところで見たほうがいい」
白夜さんが鼻を鳴らす。
「めんどくせえな」
「面倒でも行くんだよ。最終日なんだから」
あたしはそこで、粥の椀を四つ並べました。
「はいはい。高いところに上がるのは結構ですが、空きっ腹で死なれても困りますからね。とりあえず腹に入れなさい」
出汁で炊いた白粥に、鮭をほぐして、刻み葱を少し。霜の朝は、こういうのがいちばんいいんですよ。贅沢じゃない。腹に入って、体の芯へ静かに落ちる。あたしはそういう飯が好きです。
四人とも、黙って食ってました。
匙がいるわけでもないのに、妙に静かな朝でしたね。昨日の鍋の名残が、まだ座敷に残ってるんです。匂いじゃありませんよ。空気です。鍋ってのはね、腹を温める代わりに、黙っていたものまで浮かせることがあるんです。四人とも、それをわかってる顔をしてました。
「おかわりは?」
あたしが聞くと、誰も首を縦には振りませんでした。
そりゃそうです。今日はゆっくり食う日じゃない。
「じゃあ行きなさい。戻ってきたら、昼の飯くらいは出しますよ。——まあ、戻ってこられたら、ですけど」
「縁起でもねえな」
白夜さんが言った。
「商人は縁起より現実を見るんですよ」
あたしがそう返すと、雅楽さんが少しだけ笑ったそうです。
「それはほんとにそうだね」
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東山の高台に着いたのは、空が白みきる少し前だったそうです。
最初の日と同じ場所。木々が途切れて、京の盆地を一望できる尾根の突端。月はもう薄くなっていましたが、朝の冷えは残っていた。草の先にも、岩の陰にも、白い霜がついていたそうです。
いい景色だったでしょうね。
京の町は、まだ眠りから覚めきっていない。寺の屋根に朝の白が乗って、鴨川が鈍い銀の帯になって南北へ伸びている。遠く西の山は、冬の手前の色をしていた。東の空だけが、少しずつ薄い藍から白へ変わっていく。
最初の日も、ここから見たんですよ。
あのときは四人で、今も四人です。
でも、同じなわけがないでしょう。
最初の日の四人と、六日目の四人じゃ、立ち方も、間合いも、黙り方も、もう別物です。
白夜さんは少し離れた岩のところに立っていた。銀髪の先に霜が白く光っている。睦月さんはその少し後ろ。泉水さんは足元を見て、ぬかるみを避ける場所をもう選んでいる。雅楽さんは町を見てるようで、ほんとうは人の流れを見ていたんでしょうね。
空気が変わったのは、日の出の少し前でした。
刻印が、動き出した。
睦月さんが、ふと右の手首を見たんですよ。刻印のあるところです。昨日までは、贄の刻が終わるたび、あの読めない紋様に戻っていたでしょう。
それが、また変わっていた。
紋様がほどけるみたいに崩れて、数字になっていく。じわじわと。虫が這うみたいな気味の悪い動き方で。
睦月さんが、小さく言いました。
「……三」
それで全員の目が、自分の手へ落ちたんでしょうね。
白夜さんの肩。
雅楽さんの手の甲。
泉水さんの左手。
みんな同じ数字になっていた。
三。
その場で、誰もすぐには喋れなかったそうです。
白夜さんは、町を見ていた目を止めた。
雅楽さんは扇子に触れかけて、やめた。
睦月さんは、自分の手首を見たまま動かなかった。
泉水さんだけが、いつもの顔を崩さなかった。
朝日が、やっと東の端から出かかっていたんですけどね。
数字のほうが、よっぽど冷えました。
雅楽さんが、いちばん先に息を吐きました。
「やっぱりね」
軽く言いましたが、軽い数字じゃありませんよ。
三つです。
四人いて、三つ。
算盤を弾くまでもない。余る椀は一つです。
広い朝の景色の中で、数字だけがやけに近くに置かれた。
白夜さんが、ゆっくり息を吐いたそうです。
「……最悪」
昨日、誰かが雨の中で言ってたのと同じ言葉でしたね。人は、ほんとに嫌なとき、だいたい同じことしか言えないもんです。
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そこからは、話し合いになった、というほど整ったもんじゃありません。
四人とも、数字は見えている。意味もわかっている。わかっているから、逆に何から口にすればいいかわからない。そういう沈黙が、しばらく続きました。
最初に口を開いたのは、睦月さんでした。
「……何か方法を考えましょう」
声は低かった。でも、逃げる声じゃなかったですね。あの人、追い詰められると、むしろ余計なものが削ぎ落ちるんですよ。
「一つの欠片をふたりで持ったまま、贄の刻を迎えるのはどうでしょうか? ふたりとも生き残れる可能性は——」
「できないよ」
雅楽さんがあっさり言ったそうです。
「一日目に検証済み。それをやった参加者がいたけど、一人だけ消えていたよ。……ほんとに、よくできた祭りだよね」
睦月さんの眉がわずかに寄る。
「なら、他に方法が——」
「ないよ」
言い方は穏やかでした。穏やかだから余計に冷たい。
「君たちのことは嫌いじゃない。でも、悪いけど僕は譲る気はないよ」
白夜さんは何も言いませんでした。
睦月さんだけが、まっすぐ雅楽さんを見ていた。
泉水さんは、変わらず穏やかな顔のまま、何も言わなかった。
雅楽さんは続けました。
「まず、今日の欠片は三つ。これは確定。で、残ってる参加者が僕らだけとは限らない。でも、たとえ僕らだけだとしても、三つ集めなきゃ話にならない。足りなかった時点で、議論も何もない」
「……ええ」
「だから、まずは取る。それから考える」
正しいですよ。正しいんですが、正しさってのは時々、味のしない飯みたいな顔をするんですよね。飲み込めるけど、腹に落ちるまで時間がかかる。
泉水さんが、そこでやわらかく言いました。
「一緒に動きましょう。今日の数だと、もうばらける意味は薄いです。神獣も五体いる計算ですから」
その声がね、妙に澄んでいたそうです。
こういう朝に、こういう数字を前にして、あの人だけが少しも濁らない。穏やかで、滑らかで、正しい。
正しすぎるんですよ。
そのときは、あたしもそこまで深く考えませんでしたがね。
白夜さんが鼻を鳴らした。
「だろうな。四人で三つ探して、さっさと戻る。それしかねえ」
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欠片を拾う過程を、いちいち全部話しても仕方ないでしょうね。
最終日です。しかも六日目。もう、探し方なんか誰だって覚えてる。柱の出方も、危ない地形も、神獣の縄張りも、嫌になるほど体に入ってる。
四人は一緒に動いた。
人の通らない山の裾。
古い祠の裏手で一つ。
沢の脇のぬかるみで一つ。
もう一つは、折れた杉の根元だったそうです。
どれも危なかったでしょうよ。
でも、危ないなんてことは今さらわざわざ言うほどのことでもない。六日目まで来ると、危なくない場所のほうが珍しい。
大事なのは、三つとも取れた、ということです。
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ぬかるんだ斜面の上で、四人はそれを見たそうです。
脈打つ神器が、三つ。
とくん。
とくん。
とくん。
いやな音でしたよ。最終日に聞くには、あまりに嫌な拍でした。
誰も、すぐには手を伸ばさなかったそうです。
雅楽さんが、少しだけ息を吐いた。
「……さて」
軽い声でした。でも軽い中身じゃない。
「三つは揃った。じゃあ次は、誰が持つかだ」
誰も答えない。
睦月さんは欠片を見ていた。
泉水さんは表情を崩さなかった。
白夜さんは、鼻だけで小さく息を吐いた。
雅楽さんが続ける。
「持てるのは三人まで。——決めないとね」
そこで、白夜さんが言ったそうです。
「ばーか」
誰に向けたのかは、たぶん三人全員でしょうね。あるいは、この状況そのものに向かってか。
「そんなもん、迷う必要はねえだろ」
一拍。
「俺はいらねえよ」
白夜さんは、そこで少しだけ鼻で笑ったそうです。どうでもいいものを見るときみたいな顔で。
「さんざん生きてきたんだからよ」
それだけ聞けば、ずいぶんきれいな話でしょう。
でもね、あたしにはそうは聞こえませんでしたよ。
白夜さんが本気で死にたがってるわけじゃないことくらい、百年付き合ってりゃわかります。あの人は死にたいんじゃない。自分を勘定に入れてないだけです。自分が抜けたところで帳尻は合うと思ってる。そういう、質の悪い癖なんです。
退屈じゃなかった。
面倒くさかった。
でも悪くなかった。
だから、残るのは自分じゃなくていい。
たぶん、そういう感覚です。
ただ、その根っこにはずっと、「俺なんかいなくても誰も困らない」がこびりついてる。
白夜さんは、そういう男です。
雅楽さんは、すぐには何も言わなかったそうです。あの人、たぶんこの答えを予想してたんでしょうね。予想してたからこそ、先に言わなかった。相手に言わせたほうが、商いは高くつくことがありますから。
泉水さんも、静かでした。
睦月さんだけが、間を置かずに言ったそうです。
「認めません」
白夜さんが、顔を上げる。
「は?」
「認めません」
「聞こえてるよ。なんでだよ」
「嫌です」
「嫌ですじゃねえよ。理屈を言え」
「嫌です」
白夜さんが、そこで少しだけ目をむいたそうです。ほんの少しだけ。あの人、本気で呆れたときは逆に声が低くなるんですよ。
「……お前さあ」
「絶対に嫌です」
白夜さんが、ついに声を荒げた。
「俺が決めたんだよ!」
「認めません」
「俺の命だろうが!」
「認めません」
「お前にも雅楽にも泉水にも関係ねえ!」
「認めません」
「しつけーな!」
「はい」
そこで、白夜さんが口を閉じたそうです。
はい。
あたし、その返しを聞いた瞬間、ああこれは駄目だなと思いましたよ。白夜さんも同じことを思ったでしょう。
だって、あの声だったんですから。
死なない男の首に何度も刃を入れて、それでも帰れと言われても帰らなかった鴉。
何日でもやるのかと聞かれて、「はい」と返した、あのときの声。
ただ、あの夜は睦月さんが殺す側で、白夜さんが死なない側だった。
今は逆です。
白夜さんが頭を掻いたそうです。傷のないところを探すみたいな、雑な掻き方で。
「……お前は、ほんとに」
溜息。
霜の朝に、白い息が長く出た。
でも、今度はそこで終わらなかったそうです。
白夜さんが、少しだけ顔を背けて、ぼそっと言ったとか。
「俺が消えても、困ることなんかねえだろ」
それは、睦月さんへ言ったのか、欠片へ言ったのか、自分へ言ったのか。たぶん全部でしょうね。
睦月さんが、そこで初めて少しだけ声を変えたそうです。
「困ります」
短かった。
でも、反復じゃなかった。
ただの「認めません」じゃない。
ちゃんと白夜さんへ返した言葉です。
「嫌です」
もう一度。
「絶対に、嫌です」
白夜さんは、それにはすぐ返せなかったそうです。
三つの欠片は、地面の上でとくん、とくん、と脈打っている。
睦月さんは白夜さんを見ている。
白夜さんは、目を逸らしている。
泉水さんは、いつものように穏やかな顔で立っていた。
そして雅楽さんが、その泉水さんのほうを見た。
ほんの一瞬。
長くもない。
でも、ただ見たんじゃない。
帳面の中に、ひとつだけ合わない珠を見つけたときの目でした。
雅楽さんは、何も言わなかったそうです。
言わなかったんですが——あの人が何も言わないときってのは、だいたい頭の中でろくでもない答え合わせが始まってるときなんですよ。
霜はまだ、草の先に残っていたそうです。
朝は明るくなっていくのに、あの場の空気だけが、少しずつ冷えていった。
——まあ、それは、次の話です。




