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第45話 鍋

 五日目の夜は、ずいぶん静かでした。


 あたしの店が静かだなんて、普段はあんまりいい意味じゃないんですよ。客が少ないとか、金払いのいい常連が来ないとか、そういう種類の静けさが多い。


 でも、あの夜の静けさは、そういうのとは少し違いました。


 疲れきった人間が、ようやく腰を下ろしたときの静けさ。

 泣くほどじゃないけど、笑う元気も残っていないときの静けさ。


 表の戸が開いた音を、あたしは今でも覚えてますよ。


 がらり、とね。


 いつも通りの木の戸の音です。

 百膳堂の戸は少し建てつけが悪いんで、開け閉めするとどうしたって同じ音がする。だから普段は、誰が来たかなんて音だけじゃわからない。


 でもあの夜は、わかりました。


 ああ、帰ってきた、って。


 帳場から顔を上げたら、四人でした。


 白夜さん。

 睦月さん。

 泉水さん。

 雅楽さん。


 四人。


 そこでもう、数えてしまうんですよね。いやな性分です。商人ですから。人が入ってきたら、まず頭数を数える。四人。昨日まで五人だった。今日は四人。


 獅童さんはいなかった。


 でも、他の四人は帰ってきた。


 それがね、思っていたよりずっと大きかったんですよ。


 白夜さんは、いつもの席に向かう途中で、壁に一度だけ手をついたそうです。すぐ離しましたけどね。見なかったふりをしましたよ、当然。商売人はそういうところをじろじろ見ません。見ていても見てない顔をするのが礼儀です。


 睦月さんは泥と血で袖が汚れていた。頬にも薄い傷。素顔のまま。目だけが、少し遠くを見ている。


 泉水さんは相変わらず姿勢がいい。でも、顔色は白い。あの人、崩れないように見えて、崩れない顔を作るのがうまいだけなんですよ。


 雅楽さんは、戸を閉めたあとで、ようやく一つ息を吐いたそうです。扇子は持ってる。でも開かない。あの人が扇子を忘れるときは、だいたいろくでもない一日です。


 あたしは帳場から立ち上がって、言いました。


「……はいはい、お帰りなさい」


 いつも通りの声で。


 いや、いつも通りのつもりだったんですがね。ちょっとだけ、変だったかもしれません。


「ずいぶん遅いお帰りで。宿代は一泊分しか取りませんが、晩飯は別料金ですよ。当然でしょう」


 白夜さんが、濡れた着流しの袖を払うみたいにしながら言いました。


「ツケで」


「帰ってきた瞬間にそれですか。感動を返してくださいよ」


「知らねえよ」


 その言い方が、妙にいつも通りだったんですよ。


 あたしね、それでちょっとだけ、ほっとしちまったんです。ほんとに少しだけですよ。猫の目が乾いただけです。泣いてなんかいません。


 ……いや、少しは潤んでたかもしれませんがね。


 仕方ないでしょう。飯屋ってのは、腹を空かせた客が帰ってくると、それだけでちょっと嬉しい商売なんですから。


---


「鍋にしましょうか」


 あたしがそう言うと、誰も反対しなかったそうです。


 鍋ってのは便利なんですよ。大人数でも出せる。温かい。汁も飲める。取り分ける手間はあるけど、そういう手間がかえって人を落ち着かせることもある。


 それに、あの夜はとにかく温かいものがよかった。


 秋ももう終わりで、夜気は冷えていた。五日目まで生き残った連中は、みんな体の芯まで冷え切っていたでしょうからね。雨の日のあとってのは、火にあたってもなかなか温まらないんです。


 鍋の具は、まあ、豪勢とは言えません。


 鶏。

 白菜。

 葱。

 きのこ。

 豆腐。

 あと、うどん玉が少し。


 ほんとは魚も入れたかったんですが、そういう日ばかりじゃない。仕入れは細ってるし、裏の問屋もみんな腰が引けてましたからね。


 でも、出汁はちゃんと取りましたよ。昆布と鰹で。鍋は出汁が命ですから。


 土鍋を火にかける。

 湯気が立つ。

 葱の匂いと鶏の脂が立ち上がる。


 それだけで、店の中の空気が少し変わったそうです。


 白夜さんが、席についたまま鍋を見ていたとか。あの人、ほんとは飯の匂いにかなり弱いんですよ。表に出さないだけで。


 雅楽さんが言いました。


「助かるよ。今日はさすがに冷えた」


「でしょうねえ。死人みたいな顔してますもん、みなさん」


「失礼だなあ。僕はもともとこういう顔だよ」


「それは知ってますよ」


 睦月さんは黙って、鍋の湯気を見ていたそうです。湯気ってのはいいですよ。生きてる間しか立ちませんからね。冷めたら終わりです。


 泉水さんが、小さく言いました。


「いい匂いですね」


「ええ。匂いだけじゃ困りますから、ちゃんと味もつけてますよ」


 あたしは鍋に酒を少し回して、蓋をしました。


 ぐつぐつという音が、店の中へ広がっていく。


 ああいう音を聞くと、人は少しだけ黙れるんですよ。話すべきことを急がなくて済む。いまは鍋が煮えるのを待つ時間です、って顔ができる。


 ありがたい話です。


---


 鍋が煮えた。


 蓋を取ると、湯気が一気に上がった。鶏の脂が出汁の表面で光っている。白菜はしんなりして、葱はやわらかくなって、きのこが汁を吸っている。


「はいはい、食べなさい」


 あたしは言いました。


「黙ってると冷めますよ。鍋は冷めるのが早いんですから」


 白夜さんが、箸を伸ばした。


 最初に取ったのは鶏でした。皮つきのところ。あの人、肉の旨いところはちゃんとわかってるんですよ。無頓着なふりをして。


 一口、二口。


 それから汁を飲んだ。


「……うめえ」


 小さい声だったそうです。


 あたし、聞こえないふりをしましたよ。そこは礼儀です。百年以上通って、めったにうまいなんて言わない客が、やっと一言こぼしたんです。聞こえましたよなんて顔をしたら、次から二度と言いませんからね。


 雅楽さんが、鍋の具をつつきながら言いました。


「白夜さん、いま“うめえ”って言った?」


「言ってねえよ」


「言ったよ」


「知らねえ」


「その返しは認めてるときだよ」


 少しだけ、笑いが起きたそうです。


 ほんの少しだけ。


 でも十分でした。


 睦月さんも、白菜を一口食べてから、ほんのわずかに肩の力が抜けたとか。あの人、飯を食うと少しだけ人間に戻るんですよ。たぶん、本人は気づいてないでしょうけど。


 泉水さんは鍋の汁を啜って、「ああ、温まりますね」と言ったそうです。相変わらず、あの人はそういうことをちゃんと言う。


 雅楽さんは、葱を箸でつまんで息を吹きかけながら、「今日いちばんまともなもの食べてる気がする」と言ったとか。


 あたしはそれを聞きながら、鍋の横にうどん玉を置きました。


「あとで入れますからね。汁が残ってたら」


「残るかな」


「残せ」


「無理だね」


 そのやり取りも、少しだけ普通でした。


 でも、静かだったんですよ。


 いままでで一番、静かな夜だったと思います。


 鍋をつつく音だけがする。

 汁を啜る音。

 箸が器に当たる音。

 火がぱち、と鳴る音。


---


 口を開いたのは、雅楽さんだったそうです。


「……たぶん」


 鍋の中のきのこを箸で割りながら、そう言った。


「残ってる参加者、もうほとんど僕らだけだよ」


 誰もすぐには返さなかった。


 やっぱりな、と思ったのか。

 まだ数えたくなかったのか。

 そのどっちもだったかもしれません。


 白夜さんが、鍋の汁を飲んでから言いました。


「幕府の連中は?」


「いるだろうけど、どこまで残ってるかはわからない。景虎さんはもう落ちたし、参加者側はかなり減ってるはず」


「野良は」


「いたとしても、あと数人かな。五日目まで残る人って、だいたい運がいいか、強いか、その両方だからね。で、強いのはだいたい死んだ」


 ひどい言い方ですが、間違ってはいないんですよね。


 睦月さんが、小さく聞きました。


「……無幻は?」


 その問いに、一拍置いてから雅楽さんが言いました。


「たぶん、もう落ちたよ」


 白夜さんは何も言わなかったそうです。


 無幻がどう落ちたのか、完全には誰にもわからない。

 わからないまま、でもたぶんもう盤面から消えた。そういう不気味な終わり方でしたからね。


 泉水さんが、鍋の汁に目を落としたまま言いました。


「だとしたら、明日は純粋に欠片の数だけが問題ですね」


 静かな声でした。

 でも、その静かさがこの夜はいちばん響いたかもしれません。


 純粋に、数だけ。


 四つあればいい。

 三つなら、一人余る。

 二つなら、二人余る。


 鍋の湯気が、そのとき少しだけ重く見えたそうです。


---


 うどんを入れました。


 こういうとき、最後にうどんがあると少しだけ救われるんですよ。腹にたまる。温かい。鍋の終わりが見える。


 獅童さんがいたら、真っ先に箸を伸ばしてたでしょうね。


「うどんだ!」とか何とか、でかい声を出して。


 あの人、そういうところがあったんですよ。


 鍋の最後のうどんを、なんでもないものじゃなくする。ああいう人が一人いるだけで、食卓ってのはかなり楽になるんです。


 でも、いない。


 いないから、うどんが入っても誰もすぐには手を出さなかったそうです。


 その間がね、たぶん、あの夜いちばん静かだった。


 あたしは鍋のふちを見ていました。

 湯気が上がる。

 麺がほぐれていく。


 白夜さんが、そこでようやく箸を出したそうです。

 無言でうどんをすくって、自分の椀に取る。


 それを見て、他の三人もようやく動いた。


 たったそれだけのことなんですが、妙に覚えてるんですよね。


---


 白夜さんが、鍋の最後の汁を少しだけ飲んでから、ぼそっと言いました。


「……四つならいいな」


 それだけ。


 誰に言うでもなく。

 誰かに答えを求めるでもなく。


 でも、その一言で、たぶん全員が同じ場所まで降りてきたんでしょうね。


 睦月さんが、ほんの少しだけ俯いたそうです。

 泉水さんは表情を変えなかった。

 雅楽さんは、うどんを啜る手を一瞬だけ止めた。


 四つならいい。


 それだけなんですよね。

 贅沢でも何でもない。

 全員分あればいい。ただそれだけ。


 でも、こういう祭りは、そういう当たり前をいちばん簡単に踏み潰すんです。


---


 鍋が空になったころには、夜もだいぶ更けていました。


 火はまだ落としませんでしたよ。

 鍋の底に少しだけ残った汁を、あたしはもったいなくて捨てられない性分でしてね。明日の朝、雑炊にしてもいい。まあ、明日の朝があるかどうかは別として。


 四人は、それぞれ勝手な場所で座っていたそうです。


 白夜さんは壁際。

 睦月さんは短刀のそば。

 泉水さんは膝を揃えて。

 雅楽さんは出口の見える位置。


 誰も眠れなかったでしょうね。


 でも、喋らなかった。


 喋れば何か決まるわけでもない。

 「もし三つだったら」を口にした瞬間、それが現実に近づいてきそうだったのかもしれません。


 そういうの、ありますからね。


---


 あたしは帳場で、四人分の勘定を書いてました。


 鍋。

 茶。

 宿代。


 四人分。


 そこへ手が止まったんですよ。


 昨日までなら、ここにもう一人。

 その前には、さらにもう一人。


 獅童さんの字なんて最初から帳簿にはないんですけどね。あたしの頭の中には、ちゃんと残ってるんです。


 金を払ってないくせに、そういう客ほど残るんですよ。困ったもんです。


 小鈴が奥から顔を出して、小さな声で聞きました。


「……お兄ちゃん、寝ないの?」


「飯屋は夜が仕事ですよ」


「もう終わったでしょ」


「まだ火が残ってますから」


 小鈴は少し黙って、それから「そう」とだけ言って引っ込んだそうです。


 あの子もわかってたんでしょうね。

 今夜は誰も、簡単には寝られないって。


---


 五日目の夜は、そうやって更けていきました。


 いままでで一番静かな夜でしたよ。


 笑いも少ない。

 喧嘩もない。

 でかい声もない。

 ただ、四人が同じ鍋をつついて、同じことを考えて、同じことを口にしない。


 そういう夜です。


 空に赤い月はいくつ残っていたんでしたっけね。


 いや、覚えてますよ。覚えてますが、あたしの口からは言いません。


 あの夜の月の数を数えるのは、いまでも少し、縁起が悪い気がするんです。


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