第44話 さようなら
勝ったのかと聞かれたら、まあ、勝ったんでしょうね。
無幻さんは膝をつきましたし、白夜さんは立っていましたから。そういう意味じゃ、たしかに勝った。
でもね、勝ったあとに「ああ、よかった」で終わる喧嘩ってのは、ろくな喧嘩じゃないんですよ。ほんとに危ない相手とのやり合いってのは、勝ったあとほど足が速くなるもんです。喜ぶより先に、まだ生きてるかもしれない相手から離れる。そういう種類の勝ち方でした。
白夜さんが、無幻さんを見下ろして言ったそうです。
「……いまのうちに、さっさと行くぞ」
声は掠れていたとか。そりゃそうでしょう。あの朝だけで、何回肋を打たれて、何回血を吐いたんだって話です。
それでも、白夜さんは立っていた。
火は戻りきっていない。右手の青白い火も、さっきの最後の連打でほとんど消えていた。肩で息をして、血の混じった唾を吐いて、それでも立ってる。そういう人です、あの人は。
無幻さんは片膝をついたまま、動かなかったそうです。
大太刀を杖みたいに地面へ立てて、顔だけを上げている。呼吸は乱れていない。そこが、かえって気味が悪かったでしょうね。ふつうの人間なら、あんな打ち合いをしたあとで、もっと浅く息をするもんです。もっとみっともなく崩れる。無幻さんは最後まで、そういう崩れ方をしなかった。
白夜さんが顔をしかめた。
「……あれくらいじゃ、死なねえよ。あのおっさん」
睦月さんが少し離れた場所で、欠片を抱えたまま無幻さんを見ていたそうです。息が上がっている。頬にも泥がついている。五日目ともなると、もう全員、それなりにひどい顔になりますね。綺麗な勝者なんて、どこにもいない。
雅楽さんが扇子も開かずに言ったとか。
「同感だね。死ぬ顔じゃない」
「だから行くんだよ」
白夜さんが、苛立ったように返す。
そのとき、泉水さんだけが、まだ無幻さんのそばにいたそうです。
しゃがみ込んで、脈でも見るみたいな姿勢だったとか。あるいは傷の具合を見ているようにも見えたかもしれませんね。
白夜さんが振り返って、低く言ったそうです。
「おい、何してんだ」
泉水さんは、顔だけこちらへ向けた。
「すみません。つい、確認を」
「そんなもんどうでもいい。早く来い」
「はい」
穏やかな声だったそうです。いつも通りの。雨上がりの山の中で、血と泥の匂いがする斜面で、さっきまで無幻さんが立っていたその足元で、まるで急須の位置でも直していたみたいな声で「はい」と言うんですから、あの人はやっぱり少し変なんですよ。
泉水さんは立ち上がって、手を袖の中に隠したまま戻ってきたそうです。
そのとき何をしたのか。
——まあ、その場にいた誰にも、はっきりとはわからなかったんでしょうね。
睦月さんも、白夜さんも、雅楽さんでさえ、その瞬間は気にしていなかった。気にしている余裕がなかった。早く離れなきゃいけない、というほうがずっと大きかったからです。
無幻さんは、置いていかれた。
いや、置いていかれたというのも少し違うかもしれません。あの場で追ってこなかった。だから離れられた。ただ、それだけです。
白夜さんたちは尾根をひとつ越えたあたりで、ようやく振り返ったそうです。
すすきの穂が、風に揺れていた。朝の光はまだ明るい。昨夜の雨のせいで穂は鈍い白に沈んでいるのに、それでも空だけは妙に青い。そういう嫌な朝でした。
そこから、無幻さんのいる斜面が少しだけ見えたそうです。
動いた。
無幻さんが、立ち上がったんでしょうね。
「……起きたか」
白夜さんが、ぼそっと言ったとか。
声に驚きはなかったそうです。やっぱりな、くらいの声。さっき自分で言った通り、あれくらいじゃ死なないと、最初から思っていたんでしょう。
でも、次の動きは少し変だった。
無幻さんは立ち上がって、周囲を見たそうです。
こちらを見るでもない。追ってくるでもない。大太刀を拾い上げて、ゆっくりと首を巡らせる。何かを探しているみたいに。
雅楽さんが、小さく言ったそうです。
「……あれ」
その声を聞いたときには、すでに無幻さんは動き出していた。
歩く方向がおかしかったそうです。
こっちじゃない。
白夜さんたちが逃げた方角とは、少しずれている。尾根をまっすぐ追えば見えるはずの位置から、半歩、いや一山分くらい外れたところを見ている。見ているというより、そちらへ引かれているようだったとか。
そこに、白いものが見えたそうです。
白、といっても、朝の光を反射したすすきかもしれない。岩肌かもしれない。霧の切れ端かもしれない。
でも、あのときの無幻さんには、それが人の姿に見えたんじゃないですかね。
銀髪の、細い影。
少し先の、尾根の向こう。
振り返ってこちらを見るでもなく、逃げるでもなく、ただ立っている。
白夜さんみたいに。
無幻さんの足が、そちらへ向いた。
「……おい」
白夜さんが、そこで少し眉を寄せたそうです。
気づいたんでしょうね。何かがおかしいと。
でも、そのおかしさの正体まではわからない。
無幻さんは歩き出した。ゆっくりと。確かめるみたいに二歩、三歩。それから、急に速くなったそうです。
すすきが割れる。
大太刀が肩の上で揺れる。
巨体が、白い影を追って尾根の向こうへ消えていく。
「……何やってんだ、あのおっさん」
白夜さんが、低く言った。
誰も答えなかったそうです。答えられなかったんでしょう。見えているものが同じじゃない。白夜さんたちには、ただ無幻さんが妙な方角へ駆けていったようにしか見えなかった。
次の瞬間でした。
影が出た。
結界の淵のほう。あの黒い帯がたなびいていた辺りに、黒い手がいくつも伸びたそうです。地面の影から、木々の隙間から、黒いものが滲み出して、そこへ踏み込んだ無幻さんの足へ、腕へ、体へ絡みついていく。
無幻さんが止まった。
大太刀を振るう。黒い手を払う。払っても、また増える。
あの男、最期まで混乱していたんじゃないですかね。何が起こっているのかわからないまま、それでも目の前のものを斬ろうとしていた。わからないことをわからないまま、力でねじ伏せようとする。無幻さんらしいと言えば、らしいのかもしれません。
でも、相手が悪かった。
結界の淵へ、自分から踏み込んだんです。
あそこから先は、参加者にとっては終わりですからね。
「……何が起こった」
低い声が、かすかに聞こえたそうです。
怒鳴りでも、悲鳴でもない。ただ、本当に理解できないことを前にした人間の声。あの無幻さんが、最後までそれをわからないまま終わるなんて、誰が思ったでしょうね。
影が増える。
無幻さんの足を、腰を、腕を絡めとる。
白夜さんたちは、離れた尾根の上からそれを見ることしかできなかったそうです。助けるとか助けないとか、そういう盤面じゃない。あの距離で、あの結界の淵で、あの無幻さんがもう呑まれかけている。どうにもならない。
無幻さんの体が、最後に一度だけ大きく揺れた。
大太刀が、手を離れた。
鈍い音を立てて地面へ落ちる。
影が、そこへ覆いかぶさる。
あとはもう、あっという間だったそうです。
巨体が沈む。
黒い淵の向こうへ。
何も残らない。
影も、音も、やがて消える。
そこにあったのは、折れたすすきと、朝の光だけだったとか。
雅楽さんが、ぽつりと言ったそうです。
「……なんだ、今の」
白夜さんは答えなかった。
たぶん、答えられなかったんでしょうね。
ただ、少し離れたところで、泉水さんが小さく何か言ったそうです。
誰にも聞こえないくらいの声で。
あたしも、その場で聞いたわけじゃありませんからね。何と言ったのか、あとから聞いた話をつなぐしかありませんが。
たしか、こうです。
「さようなら、無幻さん」
優しくもなく、冷たくもなく。
いつもと同じ声で。




