第43話 不死の狐
景虎が落ちたあと、白夜さんは無幻を引いていたそうです。
引く、というのも変な言い方ですかね。逃げているんじゃない。背中を見せて走るわけじゃない。間合いをずらしながら、斜面を渡りながら、無幻の正面をずらしていく。景虎の死んだ場所から、遠ざけるために。
無幻はそれに気づいていたかもしれませんね。
気づいていて、追ったのかもしれない。あの男にとっては、そういう小細工もまた戦のうちでしょうから。
雨の抜けた朝の山は、妙に明るかったそうです。
昨夜の嵐で折れた枝が斜面に散っている。泥はまだぬかるみ、草は倒れて、土の色がそこかしこ露出していた。その先に、木立がふっと切れて、細い尾根みたいな開けた場所があったそうです。
一面の、すすき野原。
いや、野原というには少し狭いかもしれませんね。
でも木がないぶん空が広くて、朝の光をまともに受ける。昨夜の雨で穂はみんな濡れて、銀じゃなく鈍い白に沈んでいたとか。風が吹くたび、濡れたすすきがまとめて傾く。人が二人立てば、その膝から下はもう見えなくなるくらいの深さだったそうです。
白夜さんは、そのすすきの中で肩で息をしていたそうです。
無理もありません。火はほとんど戻っていない。傷は増えている。右の肩も、脇腹も、腿も、頬も、昨日からの傷に今朝の傷が重なって、だいぶひどい有様だったとか。
それでも足を止めなかった。
無幻の大太刀がまた来る。
白夜さんは半歩で外す。
幹を蹴る。斜面の石を使って角度を変える。懐へ入る。拳を打つ。蹴る。外す。退く。詰める。
火がなくても、あの人は厄介でした。
真正面に立たない。
でも逃げもしない。
面倒くさそうな顔で、ずっと無幻の外側にまとわりついている。
無幻が低く言ったそうです。
「逃げぬか」
白夜さんは血を吐き捨てた。
「逃げたらお前、追うだろ」
「追うな」
「じゃあ信じねえ」
無幻の目が、そこでわずかに細くなったそうです。
楽しんでいたんでしょうね。
百年、二百年、あるいはそれ以上。ずっと探していた相手が、ようやく目の前で折れずに立っている。
白夜さんにとってはたまったもんじゃないでしょうが。
「お前、楽しいのかよ」
白夜さんが言ったそうです。
息が荒い。声も掠れている。なのに、口だけは減らない。
無幻は大太刀を肩に乗せたまま、ほんの少しだけ首を傾けた。
「楽しい」
それは、あまりにもあっさりした声だったそうです。
「こんなに楽しいのは、いつぶりか」
白夜さんは鼻を鳴らした。
「そうかよ。俺は全然楽しくねえけどな!」
その返しだけは、やけに白夜さんらしかったと聞きましたよ。
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無幻の太刀が落ちる。
今度は上からではなく、下からでした。
大太刀みたいな長物で、ああいう軌道を平然と出すのがもうおかしい。地面を滑るような低い斬り上げ。白夜さんは一瞬、反応が遅れた。外へ飛ぶ。飛びきれない。着流しの裾ごと、太腿の外を深く裂かれた。
血が散る。
足がもつれる。
着地が甘くなる。
無幻はそこを逃さなかったそうです。
返す太刀。横薙ぎ。白夜さんは腕を差し入れて受け流したが、今度は肩へ重みが抜けなかった。骨まで響く。体が後ろの斜面へ流れる。
木にぶつかった。
息が詰まる。
そこで、ほんの一瞬だけ。
白夜さんの視界が抜けたそうです。
山の緑が遠のく。
空の青が白くなる。
湿った土の匂いが、別の匂いに変わる。
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雪が降っていた。
白くはなかったそうです。
泥と血で汚れた雪。踏み荒らされた道。折れた枝。遠くで燃えている何かの赤。
儀の最後の夜だったんでしょうね。
白夜さんは、その頃からもうぼろぼろだったそうです。
肩で息をして、脚を引きずって、あちこちが切れていた。何日もまともに眠っていない顔。火を使いすぎたせいか、手のひらも焼けていたとか。
その横を、雪が歩いていた。
白い着物の裾は、もうとっくに泥だらけ。杖をついている。でも、その杖も途中で折れたのか、半分くらいしか残っていない。
目は見えない。
でも足を止めない。
「まだ……暗い?」
雪が聞いたそうです。
白夜さんは前を見たまま答えた。
「暗い」
「そう……」
一拍。
「じゃあ、まだ終わってないんだね」
白夜さんは、そこで舌打ちしたそうです。
「うるせえな。終わってるわけねえだろ」
最後の贄の刻は越えた。
でも終わらなかった。
これまでの神獣がまだいる。
そして新しく、最後の一体
人の形に似ているのに、人じゃない。
頭がない。腕が多い。胴に目がいくつもある。
左右が揃っていない。数も形も、整っていない。
見ているだけで気持ちが悪いような、あの獣。
白夜さんが、低く言ったそうです。
「まだ終わらねーのかよ……!」
雪の手を引いて走る。
引くというより、雪の細い手首を握って、無理やり連れていく。
雪は転びそうになりながらも、ちゃんとついてきていたそうです。
白夜さんは、儀を仕組みなんて理解していなかった。
頭で整理する暇なんかなかった。
毎日二つ以上の欠片を確保しなきゃいけない。
目の前で人が消える。
自分が動かなきゃ、この盲の娘は死ぬ。
それだけで、走ってきた。
最後の夜も同じだった。
逃げればいい。
夜明けまで逃げればいい。
でも神獣が多すぎる。
道がない。
どこへ行っても、影がいる。
雪がつまずいた。
白夜さんが引き戻す。
直後、後ろの地面が抉れた。最後に現れた神獣の腕だったそうです。土と雪が跳ねて、白夜さんの頬を打った。
「走れ!」
叫んだ。
雪が息を切らして言う。
「白夜、さん——」
「喋んな!」
声が荒れていたそうです。
怒っているんじゃない。怖かったんでしょうね。怖いと人間、声がああなるんですよ。
また獣が来る。
白夜さんが火を放つ。弱い。もう出力が足りない。それでも顔の横を焼いて時間を稼ぐ。
雪を押す。
走らせる。
でも、足りなかった。
ああいうのはね、「間に合わなかった」としか言いようがないんですよ。
誰が悪いとかじゃない。
何かが一つでも違っていれば助かったのかもしれない。でも違わなかった。
その一回だけです。
雪の体が、神獣の腕に貫かれた。
白い着物に、赤が広がったそうです。
あっという間に。
雪は、何が起きたのかわからなかったかもしれません。
でも白夜さんには、ちゃんと見えた。
「——っ!!」
声にならなかったそうです。
次の瞬間には、もう駆けていた。
雪ではなく、神獣へ。
怒っていたのか、泣いていたのか、そんなのはどうでもいいでしょうね。
ただ、許せなかった。
目の前でそうなったものを、そのままにできなかった。
白夜さんの火が、神獣へ叩きつけられる。
でも足りない。
腕が来る。
吹き飛ばされる。
木に叩きつけられる。
肋がいったかもしれない。肺も潰れたかもしれない。
血を吐く。
立つ。
また向かう。
今度は、神獣のほうが速かった。
白夜さんの胸元を、何かが通り抜けたそうです。
冷たいもの。鋭いもの。生き物の腕なのに、刃物みたいなもの。
自分が死ぬんだと、そのとき初めて思ったとか。
倒れる。
息が吸えない。
空が遠い。
雪が見えない。
獣だけが見える。
そこで、夜明けが来た。
あっさりと。
ほんとにあっさりと、です。
それまであれだけ暴れていた神獣が、ふっと消える。
影も消える。
空が白む。
終わったのだと、体が先に知る。
そして、白夜さんの傷が治り始めた。
胸の穴が塞がる。
骨のずれた感覚が戻る。
血が止まる。
痛みの形が変わる。
助かったんじゃない。
勝ったんでもない。
終わったから、治った。
「なんなんだよこれ……!」
白夜さんは、その場でそう叫んだそうです。
「ふざけんなよ……!」
あの人が、あんなふうに感情をむき出しにすることは、後にも先にもそう多くはなかったんじゃないですかね。
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誰かの声がした。
遠くからじゃない。
近い。
今の、山の匂いのする声。
「白夜さん!」
遠い。
でも、今の声です。雪の声じゃない。ちゃんと違う。
白夜さんは、そこで薄目を開けた。
青い空。薄。血の匂い。無幻の影。いま自分がどこにいるか、すぐには頭が追いつかなかったでしょうね。
睦月さんが、少し離れた場所からこちらを見ていたそうです。
欠片を抱えていた。
息が上がっている。
でも生きている。
その顔を見て、白夜さんは、ふっと息を吐いたとか。
「……だから」
喉が掠れる。
「死なねーって」
前は不死だったから言えた。
今は違う。死ぬほど痛くて、ほんとは死にかけで、それでも言う。
あれは軽口じゃなくて、たぶん半分くらい、自分に言い聞かせる声だったんでしょうね。
睦月さんの顔が、ほんの一瞬だけ崩れたそうです。
泣くとか笑うとか、そういうんじゃない。ただ、息を呑んだ顔。
でも、その次の瞬間にはもう短刀を構え直していた。
五日目はそういう日です。感傷に沈んでる余裕なんかない。
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無幻は、その様子を見ていたそうです。
逃げない。
倒れても立つ。
傷だらけでも前を見る。
百五十年の不死者が、ようやく“死ぬ前の顔”に戻ってきた。
あの男には、たぶんそう見えたんでしょう。
「よい」
低い声。
「ますます、よい」
無幻がまた大太刀を上げる。
白夜さんも、ゆっくりと立ち上がった。
膝は笑っていたでしょうね。息も整わない。火も弱い。
でも、さっきまでより目だけが少し違っていたそうです。
どこを見ているか、やっと自分でわかった目。
それが雪の走馬灯のおかげなのか、睦月さんの声のおかげなのか、そんなことはあたしにはわかりませんけどね。
ただ、一つだけ言えるのは、あのあと白夜さんの踏み込みは、さっきまでよりずっと深かったということです。
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最後の打ち合いは、もう綺麗なものじゃなかったそうです。
無幻の大太刀が下りる。
白夜さんは外へ流れず、逆に内へ入った。柄の内側。大太刀が一番重くなる場所の、さらに中。
肩で押す。拳を入れる。膝を打つ。無幻の重心が、ほんの少しだけ浮く。
そこへ、足。
連続でした。
右。左。右。
腹へ。肋へ。顎へ。
火はない。
でも、速度があった。
止まらない。蹴るたびに位置が変わる。斜面を使って、木を蹴って、無幻の視線の外へ外へ回る。
無幻が太刀を返す。
白夜さんの肩が裂ける。
でも止まらない。
景虎の死。
雪の血。
夜明け。
獅童の不在。
そういうものが一度に来ていたのかもしれませんね。
白夜さんの蹴りが、最後に無幻の顎を捉えた。
体が少しだけ浮いた。
そこへ、やっと火が戻った。
ほんの少し。
でも、今までよりはっきりと。
白夜さんの拳に、青白い火が纏う。
弱い。けれど、ゼロではない。
「……っ」
白夜さんは、その火を確かめる暇もなく踏み込んだそうです。
拳。
腹へ。
返しの蹴り。
脇へ。
さらに肘。
胸へ。
火花みたいな炎が、打つたび無幻の着物を焼く。
派手な業じゃない。
でも全部、入っていた。
あたし、技の名前なんてつける趣味はありませんがね。
あれはもう、白夜さんなりの意地の連打だったんでしょう。
立ってる限り終わらせない。
そういう殴り方です。
無幻の膝が、そこで初めて落ちたそうです。
大太刀の切っ先が土に触れる。
音がした。
鈍く、重い音。
白夜さんは最後の一撃を入れた。
拳じゃない。踵です。
火を纏った踵が、無幻の胸へ深く入る。
無幻の体が後ろへ吹いた。
斜面を転がりはしない。
でも、立てなかった。
片膝をつく。
大太刀を杖みたいに立てる。
それでも、立ち上がれない。
白夜さんも、その場で膝をついたそうです。
肩で息をしている。火はもう消えかけていた。手のひらが焼ける匂いがしたかもしれませんね。
しばらく、誰も動かなかった。
空だけが青い。
無幻が顔を上げた。
息は荒くない。
でも、もう立ち上がる気配もない。
あの男、最後まで武人でしたね。無様に這わない。無理に起き上がろうとして醜く崩れたりもしない。ただ、負けたとわかれば、その場にとどまる。
「……見事」
低い声だったそうです。
白夜さんは顔をしかめた。
「……もう付き合いきれねえよ、おっさん」
無幻の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
今度こそ、笑ったのかもしれません。
それから、巨躯が落ちた。
片膝が崩れ、大太刀が手を離れ、鈍い音を立てて土を打つ。
一拍遅れて、無幻の体がどさりと倒れた。




