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第42話 忠臣

 白夜さん。景虎。


 無幻は、大太刀を肩にかけたまま、二人を見ていたそうです。

 雨上がりの朝の光の中で、あの男だけ時間の流れが違うみたいに立っている。周囲の木々も土も、あの男のために少し遅れて見える。そういう立ち方です。


 低い声が落ちた。


「もう一人、来るか」


 景虎は刀を抜いた。

 白夜さんも少しだけ腰を落とす。


 そこで、白夜さんがぼそっと言ったそうです。


「……お前、何発もつ?」


 景虎は視線を無幻から外さずに答えた。


「貴様よりは長く立つ」


 白夜さんが、血の混じった息を吐いた。


「言うじゃねえか、おっさん」


 それで十分だったんでしょうね。

 もう、それ以上の打ち合わせなんか要らなかった。


---


 景虎の剣は、正面から立つ剣でした。


 白夜さんみたいに斜めへ潜るでもない。

 鴉衆みたいに急所だけを抜くでもない。

 逃げ道を残した半身でもない。


 まっすぐ。

 正面。

 相手の刃を見て、自分の刃を通す。


 ああいう剣はね、理屈だけでいえば、無幻みたいな化け物とは噛み合わないんです。

 真正面から重いものと重いものをぶつけたら、たいてい勝つのはもともと重いほうですから。


 でも、それでも“形になる”んですよ。

 景虎みたいに、鍛え切った人間が振るうと。


 無幻の大太刀が来た。

 景虎は一歩、踏み込んで受けた。

 金属が鳴る。重い音。斜面のぬかるみが、足の下で沈む。


 白夜さんなら外していたでしょう。

 でも景虎は受けた。受けた上で、ずらした。ほんのわずかに軌道を逸らして、そのまま返す。

 返しの一太刀は、無幻の肩口へ浅く入ったそうです。


 無幻の目が、そこで少しだけ細くなった。


「ほう」


 声が落ちる。


「貴様も、立つか」


「立てぬ者が、ここへは来ぬ」


 景虎の返しは、短かったそうです。あの男、死ぬ間際まで余計なことは言わない。


 無幻がまた来る。

 今度は横薙ぎ。景虎は膝を落として下を潜った。白夜さんがその外から蹴りを入れる。無幻の足が少し流れる。そこへ景虎の斬り上げ。浅いが、二人で押している。


 見ていた雅楽さんは、そこで少しだけ息を吐いたそうです。


 意外だったんでしょうね。

 持つ。

 しかも少しだけ、勝負の形になっている。


 無幻相手に“形になる”だけで、十分に異常なんですが。


 景虎はよく持ったそうです。


 傷口から血を流したまま。

 呼吸も浅くなっていたでしょうに。

 それでも足を止めない。無幻の正面に立つ。わずかに押されれば、刀身を噛ませて流す。白夜さんが横から削る。無幻の視線がどちらかへ寄れば、片方が入る。


 勝ってはいない。

 でも、無幻に“戦っている”と思わせるには十分だった。


 そしてそれが、五日目の朝には何より高く売れる品だったわけです。


---


 ただね。


 どんな商いにも、支払いのときは来るんですよ。


 景虎の足が、そこでほんの少しだけ遅れたそうです。


 ほんの少しです。

 濡れた草を踏んだのか。

 肩の傷が開いたのか。

 血が足りなくなったのか。

 たぶん全部でしょう。


 無幻の大太刀が、今度はまっすぐ落ちてきた。

 景虎は受けた。受けたんですが、受けきれなかった。刀身を通して重みが腕を砕くように落ちてくる。


 白夜さんが横から入る。

 間に合うようで、間に合わない。


 景虎の体が、後ろへ半歩流れた。


 その流れた先に、二撃目がもう来ていたそうです。

 無幻の太刀ってのは、一撃で終わらないんですよね。重いくせに返りが異様に早い。受けの後にある隙を、全部殺してくる。


 横薙ぎ。


 景虎は腹を庇った。

 腹は守れた。代わりに、肩口から胸のあたりまで、深い線が入ったそうです。


 血が飛ぶ。


 今度のは浅くなかった。


 景虎の膝が、その場で折れかけた。


「おい、おっさん!」


 白夜さんが、さすがに叫んだそうです。


 でも景虎は、まだ倒れなかった。

 片膝をついて、それでも刀を上げた。ああいうところが、あの男なんですよ。最後の最後まで、姿勢だけは捨てない。


「……構うな」


 声は低かったそうです。

 血が喉に上がっていたのかもしれません。少し濁っていた。


「行け、狐」


「ふざけんな」


 白夜さんが無幻へ踏み込む。

 景虎の前へ入るように。だが無幻はそこを追わない。まだ立っている景虎のほうへ、視線が少し残る。あれは、獲物を捨てる目じゃなかったでしょうね。まだ戦えるかを見ている目だった。


 景虎は、その視線に応えるみたいに、最後の力で刀を上げた。

 もう腕が持たないのに。

 呼吸も持たないのに。


 無幻の次の一撃で、今度こそ刀が弾かれた。

 遠くへ飛んだ。

 景虎の体も、後ろの斜面へ崩れた。


 白夜さんが歯を食いしばったそうです。

 無幻へ向かう。

 向かいながら、景虎を視界の端で探す。


 でも、もうそこへ意識を割ける盤面じゃなかった。

 無幻を前にして、一瞬でも目を切れば、今度は自分が斬り割られる。


 だから白夜さんは、そのまま別の斜面へ無幻を引っ張るように動いたんでしょうね。

 景虎から遠ざけるために。

 それが助けになったのかどうかは、あとの話ですが。


---


 景虎が倒れた場所へ、あとから誰かが来たそうです。


 時継です。


 どうしてあそこにいたのか。

 あたしに聞かれても困りますよ。

 でも、来たんです。

 兵に囲まれて隠れているだけじゃなく、自分の足で、あの斜面まで。


 時継は、最初、景虎だとわからなかったそうです。

 血と泥で着物が汚れて、顔色も悪くて、人が一人転がっているようにしか見えなかった。


 近づいて、ようやく顔が見えた。


「……景虎、さん」


 声が震えていたそうです。


 景虎は少しだけ目を開けた。

 雨は止んでいましたが、木の葉から落ちる雫がまだぽつぽつと顔へ落ちていた。肩から胸へかけての傷は、もう隠しようもない。息も浅い。


 それでも、その目だけはまだ景虎の目だったそうです。


 時継を見て、ほんのわずかに眉が動いた。


「……貴様か」


 声は掠れていたそうです。


 時継は、どうしていいかわからなかったでしょうね。

 しゃがみこむ。手を伸ばしかける。止まる。将軍の顔をしていても、中身は顔の似た小心者です。こういうときの手の置き場なんか、知ってるわけがない。


「す、すみません……」


 最初に出た言葉がそれだったそうです。

 ひどいでしょう。でも、あの人らしいですよ。


「私のような者が……」


 景虎は、そこで少しだけ目を閉じた。

 呆れたのかもしれません。あるいは、最後までその調子かと思ったのか。


「……お前のようなものが」


 低く、そう言ったそうです。


 時継がびくっとした。

 次に来る言葉を、たぶん身構えたでしょうね。もっともらしい軽蔑とか、罵倒とか、そういうものを。


 でも、景虎の声はそこで少しだけ途切れた。


 息をひとつ吐いて、もう一度開いた目が、時継を見た。

 ちゃんと見た。


「……だが」


 一拍。


「臆病な者は、人の痛みがわかる」


 時継は、息を呑んだそうです。


 景虎の目はもう、時継の顔を見ていなかったかもしれません。もっと遠くを見ていたのかもしれません。

 でも言葉は続いた。


「あの方には……それが、なかった」


 将軍のことです。


 本物の。

 死んだ男のこと。


 恨みだったのか、諦めだったのか。

 たぶん、その両方でしょうね。


 時継は何も言えなかった。

 言葉が喉で止まった。


 景虎は、そこでほんの少しだけ口元を動かしたそうです。笑ったようにも、ただ力が抜けただけにも見えたとか。


 それから、息が静かになった。


 終わりだったんでしょうね。


 時継は、しばらくその場から動けなかったそうです。

 将軍の顔をしたまま、死んだ武人の前にしゃがみこんでいる。滑稽でしょう。滑稽なんですが、そのときはたぶん、誰もそれを笑えなかったでしょうよ。


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