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第41話 武神

 無幻の口元が、ほんの少しだけ動いたそうです。笑ったのかどうか、そこまでは誰にもわからない。でも、前へ出る気配が変わった。さっきまで獲物を探していた男が、ようやく“相手”を見つけたときの歩き方になった。


「小僧」


 無幻が初めて口を開いたそうです。


 低く、乾いた声だったとか。


「名は」


「知らねえよ。斬ればわかるだろ」


 白夜さんはそう言って、少しだけ腰を落とした。

 刀はない。火もほとんどない。あるのは拳と脚と、百五十年分のしぶとさだけ。


 雅楽さんが、そこから半歩だけ退いたそうです。

 退いたというより、線を引いたんでしょうね。ここから先は、自分の盤面じゃないと。


---


 最初の一撃で、雅楽さんは顔色を変えたそうです。


 無幻が踏み込んだ。

 大太刀が振られた。

 見えてはいた。けれど、それだけ。理屈が追いつかない。刃がどこを通って、いつ振り下ろされたのか、そのつながりが消えている。


 白夜さんは、横に消えたみたいに見えたそうです。

 半歩。たぶんそれだけ。でも、大太刀の軌道から身を外していた。直後、懐へ入る。無幻の脇腹へ掌打。返す足で膝を狙う。


 火はない。

 だから、重いだけでした。


 無幻の体が、わずかに揺れた。


 ほんの、わずかに。


「……軽い」


 無幻が言ったそうです。


 そのまま肘が返った。

 白夜さんは腕で受けた。受けたが、押し切れない。体ごと弾かれて、濡れた斜面を二歩、三歩滑った。足元の泥が跳ねる。


「そりゃどうも」


 白夜さんが吐き捨てる。

 口元の端が切れていたそうです。昨日からの傷もある。そのうえ今ので新しい血が増えた。昔ならそこがすぐ塞がったでしょう。でも今は塞がらない。


 無幻が、そこで初めて白夜さんをちゃんと見たそうです。


「前の勝者と聞いた」


「だったら何だよ」


「思うたより軽い」


「うるせえな。まだ一太刀も入れてねえだろ」


 白夜さんがまた間合いを詰める。

 正面には立たない。大太刀の軌道へ自分から入るほど馬鹿じゃない。斜めに、低く、足場の悪いぬかるみを嫌わず詰めていく。無幻の踏み込みの外へ外へ、半歩ずつ。


 無幻の太刀が来る。

 右へ。

 今度は上から。

 白夜さんは木の幹を蹴って、刃の外へ飛んだそうです。着地と同時に蹴りが無幻の横腹へ入る。重い音。だが浅い。無幻は止まらない。


 そのまま柄尻が飛んできた。

 白夜さんの肩へ入る。体がぶれる。さらにもう一撃。今度は逆袈裟。白夜さんは腕で流したが、袖ごと浅く切られた。


 血が散る。

 泥に混じる。


 雅楽さんは息を止めて見ていたそうです。


 勝てるとは思っていなかった。

 でも、ここまできついとも思っていなかったんでしょうね。


 白夜さんの火が本調子なら、もっと違う。

 違うけれど、今それを言っても盤面は変わらない。だから口には出さない。あの人はそういうところがあります。


「……まずいね」


 小さく、それだけ言ったとか。


 白夜さんが、さすがに聞こえたらしく、目だけでそちらを一瞬見た。


「うるせえ」


 返しながら、また無幻の懐へ入る。

 今度は拳じゃない。脚。足払い気味に踏み込んで、軸足を崩しにいく。大太刀相手に正面から張り合っても意味がない。崩す。ずらす。押し込まれる前に角度を変える。鴉衆の暗殺剣ほど洗練されてはいないが、あの人はあの人なりに、“勝てなくても立てる戦い方”を知っていたんでしょう。


 無幻の足が、ほんの少しだけ流れた。

 ほんの少し。


「……ほう」


 無幻の声が変わったそうです。

 さっきまでの退屈そうな声音ではない。面白がりはじめた声でもない。もっと静かで、もっと深い。ようやく戦いとして認めた相手に向ける声。


「まだ折れぬか」


「折れたら死ぬだろうがよ」


 白夜さんは肩で息をしながら、そう返した。


 その姿が、みっともなかったかというと、そうでもなかったそうです。かっこよくはない。余裕なんかない。火もない。傷も増えていく。

 でも、崩れない。

 それが無幻には、ちゃんと“戦い”に見えたんでしょうね。


---


 そのころ、別の斜面では睦月さんと泉水さんが動いていたそうです。


 五日目の欠片は少なかった。

 盤面に残っている柱も、もう散ってはいない。動いているか、固まっているか、どちらかです。神獣も増えている。幕府も拾いに来る。野良もまだ残っている。


 つまり、どこへ行っても楽じゃない。


 それでも二人はすでに二つ、取っていたそうです。

 泉水さんの検知で柱を絞り、睦月さんが最短で入る。余計な戦いは避ける。来る相手だけを受ける。四日目までの迷いが、少なくとも足にはもうなかったんでしょうね。


 問題は三つ目でした。


 山の中腹。雨でぬかるんだ広場のような場所。崩れた石塔と倒木のあいだに、その柱は立っていた。


 そして、そこにいたそうです。


 蛸の神獣。


 見た目だけなら、蛸に似ていたとか。

 でも海にいるあれを思い浮かべちゃいけません。もっと大きい。もっとぬめっていて、もっと嫌な感じのするものです。胴体が不自然に高く、脚とも触手ともつかないものが何本も地面を這う。吸盤のかわりに、濡れた岩みたいな節がついていて、それが土を吸うたびに、ぐちゅ、ぐちゅ、と音がする。


 睦月さんは立ち止まらなかったそうです。


 怖くなかったわけじゃない。

 でも、足が止まらない。


 雨の中で姿勢が低い。目線がぶれない。欠片の位置と、神獣の触手の間合いと、踏み込む足場だけを見ている。前なら一度深呼吸していた場面で、もう体が先に入っていたと、泉水さんはあとで言ってました。


「右から来ます」


 泉水さんが小さく言う。

 睦月さんはその前にもう動いていた。倒木を蹴って斜めに入る。蛸の触手が一拍遅れて空を打つ。泥が跳ねる。その横をすり抜けて、欠片へ手が届く。


 取る。

 振り返る。

 もう戻っている。


 派手さはない。

 でも、速かったそうです。速いというより、迷いがなかった。


 泉水さんは、その横顔をちらりと見たそうです。

 何も言わなかった。

 でも、あの人の目にはちゃんと映ったんでしょうね。四日目を越えて、睦月さんの足が変わったことが。


---


 無幻の太刀が、また白夜さんを吹き飛ばしたそうです。


 今度はまともに入りました。

 峰で受けたはずなのに、衝撃を殺しきれない。白夜さんの体が後ろの杉へ叩きつけられる。樹皮が割れる音。銀髪に泥が散る。膝が落ちる。


 雅楽さんが、そこで初めて一歩前に出かけたそうです。

 もちろん止まりました。自分が入ってどうにかなる盤面じゃないことくらい、あの人がいちばんよくわかってる。


「……まずいね」


 もう一度、そう言った。

 今度は独り言じゃなかったでしょう。誰に向けたものでもなく、ただ事実として。


 白夜さんは、口の端の血を拭って立ち上がろうとした。

 でも、さっきより少し遅い。肩で息をしている。右手の火は、相変わらず出ないまま。


 無幻が大太刀を構え直した。


「よい」


 低い声だったそうです。


「まだ折れぬ。よいぞ、小僧」


「知らねえよ……」


 白夜さんが、ようやく立ち上がる。


 足が少し重い。

 火がない。

 傷は増えている。

 それでも前を向く。逃げない。それがもう、無幻にはたまらなかったんでしょうね。


「これぞ、戦よ」


 無幻が、初めてわずかに笑ったそうです。

 笑ったといっても口元だけ。喜色がぱっと出るような男じゃない。でも、長いこと求めていたものが、ようやく目の前に立っているときの顔だったとか。


 その大太刀が、また上がる。


 白夜さんが間合いを測る。

 雅楽さんは息を止める。


 そのときでした。


 後ろから、別の足音がしたそうです。


 濡れた斜面を踏みしめる、重く整った足音。

 兵ではない。

 神獣でもない。

 武人の足音です。


 白夜さんが、目だけをそちらへ向けた。

 無幻も、わずかに気配を感じたんでしょう。視線が揺れた。


 そこに立っていたのが、景虎だったそうです。


 肩の傷に布を巻いたまま。顔色は悪い。雨上がりのぬかるみを踏みしめて、刀を下げたまま立っている。逃げてきたんじゃない。来たんです。自分の足で。ここへ。


「……なんで来たんだよ」


 景虎は一拍だけ黙って、


「貴様が頼りないからだ、狐」


 とだけ言ったそうです。


 それから刀を抜いた。切っ先が、無幻へ向く。


 ——その先の話をしましょうか。

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