↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/60

第40話 上意

 夜が明けると、空は妙にきれいでした。


 嵐の名残の雲はまだ遠くに残っていたそうですが、頭の上は晴れていた。青いんですよ、嫌になるくらい。

 昨日あれだけ雨が降って、木が折れて、人が消えて、それでも朝になると空だけは何事もなかったみたいな顔をしている。


 そういう朝ってのは、始まりの顔をしてないんですよね。


 むしろ、昨日の続きを、明るいふりをしてもう一度やらされるみたいな空です。


 五日目の朝も、そんな空でした。


---


 白夜さんと雅楽さんが先に動いたのは、その朝早くのことだったそうです。


 山の小屋を出て、東山の尾根を少し回ったあたり。人の通らない獣道の上で、雅楽さんが空を見た。空というより、白夜さんの右手を見たのかもしれませんね。


「それで」


 雅楽さんが言ったそうです。朝っぱらから、ずいぶん乾いた声で。


「商品としては、どのくらいの出来なの?」


 白夜さんは、露骨に嫌そうな顔をした。


「朝から嫌な言い方すんな」


「大事なところだよ。無幻に売りつけるんだから」


 白夜さんは鼻を鳴らして、右手を開いたそうです。掌を上に向ける。指先に、ほんの小さく青白い火花が散った。


 ぱち、っと。


 それだけ。


 火花はすぐ消えた。掌の上に残ったのは、濡れた皮膚と、昨夜の傷の痛みだけだったんでしょう。


「……戻ってきてはいる」


 白夜さんが言う。


「でも、まだ弱え。百足のときみてえなのは無理だ」


「十分だよ」


「どこがだよ」


「ゼロじゃないなら、売り文句は立つ」


 雅楽さんはそう言って、道の先を見たそうです。


 そのとき、遠くで悲鳴が上がった。


 山の下。寺から少し離れた斜面のほう。短い悲鳴でした。つづけて、木が裂けるような鈍い音。鳥がまとめて飛び立つ羽音。


 白夜さんと雅楽さんは顔を見合わせなかったそうです。そういう二人じゃありません。


「いたな」


 白夜さんが低く言う。


「うん」


 雅楽さんは、もう歩き出していた。


「行こうか。商談の相手が待ってる」


---


 一方その頃、寺では別の勘定が始まっていたわけです。


 田沼意次という人はね、追い詰められたときほど、声が静かになるんですよ。


 普通は逆でしょう。人間、焦れば口が速くなるし、怒れば声が大きくなる。でもあの人は違う。盤面が悪くなればなるほど、打つ手の数を減らして、必要な言葉だけを置く。そういう意味では、商人よりよっぽど商人じみてます。


 その朝、田沼が考えていたのは、単純なことでした。


 もう潮時だ、と。


 織姫は落ちた。卯之助も落ちた。そこまではよかった。


 でも、無幻が出た。


 あれはもう、盤面を読んでどうにかなる相手じゃない。儀の終わりまでここに残り、時継を将軍として自然な形で江戸へ戻す——そういう綺麗な筋は、そこで切れてしまったんでしょうね。


 死ねば終わる。


 終わったあとに幕府も傀儡も何もない。


 なら、いま生きているうちに時継を連れて江戸へ帰るのが最も合理的だ。そう判断したわけです。


 本堂の裏手、まだ薄暗い座敷で、田沼はそう言ったそうです。


「本日中に発つ」


 時継は、その言葉をすぐには理解できなかったとか。


「発つ……?」


「江戸へ戻る」


 田沼は淡々としていた。


「これ以上、ここに留まる意味は薄い。無幻が出た以上、儀を乗り切る前提そのものが崩れた」


 時継の顔が青くなったそうです。


 それは、逃げられる安堵じゃなかったでしょうね。もっと嫌な感じのする青さです。


「で、でも……」


「疑念の話なら心配いらぬ」


 田沼は先回りして言ったそうです。


「昨日までなら、儀が終わるまでに江戸へ帰るのは危うかった。上洛の事実を知る者がいる。早すぎる帰還は、余計な憶測を招く。だが、もはやその局面ではない。命を落とせば、疑念も何も残らぬ」


 座の端にいた景虎は、黙ってそれを聞いていたそうです。


 顔色は悪い。傷も深い。それでも姿勢は崩れない。あの男、そういうところだけは最後まで崩さないんですよ。


 時継は、そこでようやく別のことに気づいたんでしょう。


「景虎さんや……」


 一拍。


「白夜さんたちは?」


 田沼はすぐに答えたそうです。


「見捨てるしかあるまい」


 そこ、濁さないんですよね。優しげな言い方で包みもしない。


「参加者は結界を出られぬ。連れては行けぬ。生き残る可能性が皆無とは言わぬが——」


「でも」


「お前とて死にたくなかろう」


 時継は口をつぐんだ。


 景虎は、それでも何も言わなかったそうです。


 怒鳴りもしない。田沼を詰りもしない。


 たぶん、理屈としてはわかっていたんでしょうね。もう、自分たちは切り離される側だと。儀に参加した時点で、その覚悟はどこかにあったはずです。本物の将軍は死んだ。影武者と田沼だけを残して幕府を継ぐ。そのほうが筋としては通る。


 通る。


 でも、通るから飲み込めるわけじゃない。


 景虎は、ただ前を見ていたそうです。行き場のない忠義ってのは、たいていああいう顔をするんですよ。


---


 時継は、そこで立ち上がったそうです。


 立ち上がった、といっても堂々としたものじゃない。膝が少し震えていた。声だってたぶん、喉の奥で引っかかっていた。


 でも、立った。


「……だめです」


 小さな声だったそうです。


 田沼が、そこで初めて時継を見た。


「何だと」


「帰れません」


 時継は、言い直した。今度は少しだけ声を出して。


「全軍……ここに残れ」


 田沼の目が変わったそうです。ほんのわずかに。


「時継」


「儀が終わるまで、彼らを援護しろ」


 将軍の声には、ほど遠かったでしょうね。震えていたはずです。息も乱れていたはずです。


 でも、内容だけは逃げなかった。


 田沼が、低く言ったそうです。


「貴様……」


 景虎は何も言わなかった。


 でも、そのとき初めて、時継のほうをちゃんと見たんじゃないですかね。顔だけの偽物じゃなく、一人の人間として。


 時継はその視線に耐えきれず、ほんの少しだけ肩を縮めた。それでも言葉は引っ込めなかったそうです。


「景虎さんも……白夜さんたちも、まだここで戦っている」


 一拍。


「私だけ帰るわけにはいかない」


 合理的じゃありません。


 田沼と時継がこのまま江戸へ戻れば、少なくとも二人の命はかなり太い線で助かる。ここに残っても、できることは多くない。幕府の兵が残ったところで、無幻や神獣を止められる保証もない。


 それでも時継は、そう命じてしまった。


 田沼はしばらく黙っていたそうです。


 怒鳴ればよかったのにね。撤回させればよかった。現実にはそのほうが正しい。


 でもしなかった。


 景虎を見た。兵たちを見た。時継を見た。


 そして、結局はその命令を通したんでしょう。


 なぜかって?


 いちばん田沼らしい理由は一つです。もう、それをひっくり返すほうが損だとわかったからでしょうね。


 時継の命令を、ここで覆すと兵の心が離れる。景虎も黙って従うだけでは済まないかもしれない。非合理な命令でも、“将軍が言った”ことに意味が生まれてしまった以上、それを折るのは盤面として悪い。


「……承知いたしました、上様」


 田沼はそう言ったそうです。


 景虎は何も言わない。


 でも、その沈黙はさっきとは少し違ったかもしれませんね。


---


 田沼が去ったあと、座敷には時継と景虎だけが残ったそうです。


 時継はまだ震えていた。さっきの啖呵が嘘みたいに、もう膝が笑っていた。あれは勢いで出た言葉だったんでしょうね。勢いが抜けたあとの体ってのは、正直なもんです。


 景虎は、柱のそばに立ったまま黙っていたそうです。


 しばらく。


 時継がおずおずと口を開く。


「景虎さん……すみません。勝手なことを言って」


 景虎がぴしゃりと言ったそうです。


「田沼殿の判断は間違っておらぬ。貴様の命令のほうが非合理だ」


 時継は黙った。


「もはや幕府の兵が多少残っていたところで、どうにかなる戦局ではない。貴様の顔がなくなれば、田沼殿の算盤も崩れる。ここに残る理由など、何もない」


 時継は何も言い返せなかったそうです。ただ、小さく、こう言ったとか。


「……でも、あなたが死んでいい人だとは、思えなかったんです」


 景虎の表情が、そこで止まったそうです。


 怒りでもなく、軽蔑でもなく。何と呼べばいいか、あたしにもわかりませんが——計算の外から飛んできた球を、受け損なったときの顔、とでも言いますかね。


 景虎は、しばらく黙ったそうです。


 それから、時継に背を向けたまま、こう言った。


「……馬鹿だな、貴様は」


 一拍。


「だが——」


 そこで言葉を切って、刀の鯉口に手をかけた。


「狐どもにばかり頼っておれぬ」


 振り返らなかったそうです。


「私も戦う。大昔の亡霊など、この手で斬ってやるさ」


 歩き出す。背中が座敷の影に消えていく。


 時継はその背中を見ていた。


 認めてもらえたわけじゃない。時継にもそれはわかっていたでしょう。


 でもね、あの「馬鹿だな」の声はね、最初に聞いた「貴様のような者が」とは、少しだけ違っていたそうですよ。


 あたしの想像ですがね。


---


 白夜さんと雅楽さんが無幻を見つけたのは、その少し後のことです。


 寺から半里ほど離れた山の斜面。折れた木と、抉れた土と、血の匂い。


 無幻はもう、一つ欠片を持っていたそうです。


 そのへんにいた参加者を斬って、取ったんでしょうね。大太刀を肩に担いで、雨の中を歩いていた。背が高い。ぼろい着物。傷だらけなのに、傷のことなんか忘れたみたいな立ち方。


 探していたんですよ。


 強い相手を。


 白夜さんが立ち止まる。雅楽さんは、半歩前へ出た。


「無幻さん……だね?」


 無幻はゆっくりとこちらを向いたそうです。


 目が合った瞬間、雅楽さんでもさすがに少し背筋が冷えたんじゃないですかね。あの人、怖いときほど頭が回る人ですから。怖くないわけがない。


「うまい話があるんだけど」


 雅楽さんは、そう言ったそうです。


「どうかな」


 無幻は答えない。


 答えないまま、視線だけが白夜さんへ動く。


 銀髪。狐の耳。前回の勝者。不死だった男。


 その視線の変わり方で、もう話は半分通ったようなもんだったそうです。


 白夜さんが、面倒くさそうに鼻を鳴らす。


「……見りゃわかるだろ」


 無幻の口元が、そこでほんの少しだけ動いたとか。


 笑ったのかどうかは、誰にもわからないそうですけどね。


---


 まあ、その先の話は、次です。


 売り物は決まりました。

 買い手も乗った。


 あとは、どこで、どうやって、その高い品を売りつけるか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。