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第39話 商い

 商売ってのはね、品物があれば成立するってもんじゃないんですよ。


 相手が何を欲しがってるか。

 どのくらい欲しがってるか。

 それを、自分がどれだけ安く仕入れて、どれだけ高く見せられるか。


 結局そこです。


 金を払うのが人間でも、命を賭けるのが人間でも、理屈はそう変わらない。


 五日目の朝に雅楽さんがやろうとしたのは、まあ、そういう類の商いでした。


---


 夜明けのあとの山道は、妙に白々しかったそうです。


 夜の嵐が通り過ぎて、空だけはきれいに晴れていた。雲は裂けるように遠くへ流れて、山の向こうまで見える。濡れた杉の枝先に朝日が引っかかって、雫がやけにきらきら光る。

 土はまだぬかるんでいるのに、光だけが明るい。


 ああいう朝ってのは、かえって気分が悪いんですよ。


 何かひどいことがあった翌朝ほど、空だけ妙にきれいだったりするでしょう。世の中ってのは、そういうところが無神経なんです。


 白夜さんたちは、そんな山道を下りていったそうです。


 時継を連れて。


 将軍の顔をした男は、昨日よりさらにみすぼらしく見えたそうですよ。着物の裾には泥の跡が残っている。草履の鼻緒も片方ゆるんでいたとか。晴れて明るいぶん、そのみっともなさがよけいにはっきり見えた。


 でも、いまはそれでよかったんです。


 ちゃんと情けないほうが、本物に見えることもあるんですよ。


---


 寺へ戻る道中、時継はほとんど口をきかなかったそうです。


 何を言えばいいかわからなかったんでしょう。


 自分だけが助かった。

 白夜さんたちに混ざって、一緒に逃げた。

 夜まで同じ屋根の下にいた。

 そのうえ今から、自分を捨て駒にもできる田沼のもとへ返される。


 ろくな気分じゃないですよ。そりゃ黙りもします。


 白夜さんも喋らなかった。

 睦月さんは時々、前を歩く時継の背を見ていたそうです。どこまで信用していいかわからない。でも、昨日あの人が必死で走っていたのも見ている。扱いに困る。そういう距離だったんでしょうね。


 泉水さんは、足元ばかり見ていた。

 雅楽さんだけが、時々時継に道を指したり、「こっち」とだけ言ったりしていたそうです。優しいわけじゃない。逃げ道がわかる人間を前に出してるだけです。あの人はそういう人です。


---


 寺に戻ると、幕府の兵がまずこちらへ槍を向けたそうです。


 そりゃ向けますよね。夜のうちに将軍の顔をした男が消えていたんですから。しかも帰ってきたと思ったら、妖怪と鴉衆と死刑囚を連れている。意味がわからない。


「上様!」


 兵の一人が声を上げた。

 時継がびくっとしたそうです。あの人、“上様”って呼ばれるたびにまだ少し体が跳ねるんですよ。将軍の顔はしてても、中身が追いついてない。


 その騒ぎに、田沼が出てきた。


 相変わらず静かな足音だったそうです。雨の石畳でも、板の間でも、あの人は妙に音を立てない。気配を消す商人がいたら怖いでしょう? あれに近いです。職が違うだけで。


 田沼は、まず時継を見た。

 そのあと白夜さんたちを見た。


 そこまでで一拍。


「……戻りましたか」


 それだけ。


 怒鳴りもしないし、駆け寄りもしない。まあ、あの人らしいですよ。焦った顔を人に見せるのは損だと知っている。


 時継が何か言おうとしたそうです。

 でも、その前に雅楽さんが口を開いた。


「返しに来たよ」


 さらりとした声だったとか。


「攫ったわけじゃない。そっちが勝手に逃したものを、丁寧にお返ししただけ」


 兵の空気がぴりっとしたそうです。そりゃそうです。“上様を逃した”なんて言われて、面白いわけがない。


 でも田沼は、それを咎めなかった。


「それで」


 短く言った。


「何を求める」


 話が早いでしょう。


 白夜さんがぼそっと言ったそうです。


「最初からそう言えよ」


 田沼は無視した。


 あの人、そういう雑音は切るのがうまいんです。


---


 場所を移したそうです。


 本堂ではなく、寺の裏手の小さな庫裏。昨日の共闘のときに使った堂よりは少しましな建物。壁が厚くて、雨音も少し和らぐ。畳は古いが乾いている。庭に面した障子は閉められ、火鉢だけが一つ置いてあったそうです。炭は弱い。温まるほどじゃない。でもないよりはまし。


 白夜さんたちはその火鉢を囲むように座ったそうです。

 田沼と時継が向かい。景虎は少し離れて立ったまま。傷が増えていて、顔色も悪い。まだ死んでないのが不思議なくらいですが、あの人はそういう男です。


 時継は上座に座らされたそうです。

 でも座り方が、やっぱりまだぎこちない。昨日よりはましになったのかもしれませんが、将軍の座が板についているとはまだ言えない。


 雅楽さんが、まず口を開いた。


「知ってることを教えてほしい」


 田沼はすぐには答えなかったそうです。


 視線だけで、何をどこまで話すかを測る。

 あの人の沈黙は、無知じゃなくて計算ですからね。待たされる側としては、あまり愉快なものじゃありません。


「何について」


「無幻」


 一言で、部屋の空気が少し変わったそうです。


 景虎の目が動く。

 時継は視線を伏せる。

 白夜さんは、壁にもたれたまま黙っている。


 雅楽さんは続けた。


「あなたたちは、あれを知っていた。少なくとも名前は。なら、何かしら伝承なり記録なりがあるんでしょ」


 田沼が答えた。


「断片的にはな」


「十分だよ。断片でいい」


 田沼は火鉢の火を見たまま、淡々と話し始めたそうです。


---


「無幻は、室町の儀の生還者だ」


 低い声でした。


「応仁の乱の頃に行われた儀。その勝者とされている」


 獅童さんがいれば、ここで「また過去の勝者かよ」とでかい声を出したでしょうがね。いないものはいない。小屋の中は静かなままでした。


 白夜さんが、少しだけ目を開けたそうです。


「……本当にいたんだな、そういうのが」


「貴様もその一人だろう」


 景虎が横から言った。


「だから驚いてんだよ」


 白夜さんは面倒くさそうに返した。


 田沼は続ける。


「主君も流派も持たぬ武人。儀の前から人であったのか、あるいは儀の中で人でなくなったのか、それすら定かではない。わかっているのは、不死を得た後も列島を彷徨い、ただ強者との戦いを求め続けていたということだけだ」


 雅楽さんが、少しだけ頷いたそうです。


「死闘を求める不死者、か」


「そういう伝承だ」


「伝承じゃなくて、さっき見た感じでもだいたい合ってるね」


 雅楽さんの声は軽かった。

 でも軽いだけに、そこに含まれる現実の重さが余計に目立ったでしょうね。


「理屈で動く相手じゃない。追う理由は欠片だけじゃない。面白い相手を見つければ、そっちへ寄る」


 ここで雅楽さんが、少しだけ身を乗り出したそうです。


 扇子は持っていたけれど、開かなかった。あの人、本気で考えるときほど小道具を忘れるんですよ。


「ねえ田沼さん」


「何だ」


「あなたの見立てでも、真正面からあれを落とすのは難しい?」


 田沼は一拍置いた。


「ほぼ不可能だ」


 あっさりしてますね。


「こちらの兵では時間稼ぎにもならぬ。景虎でも、どこまで保つかわからぬ。……狐が本調子なら、話は別だったやもしれぬが」


 視線が白夜さんの右手に落ちた。


 白夜さんは、それを見ていないふりをしたそうです。見てなくても、あの人はそういう視線を察する。


「で」


 雅楽さんが言う。


「ほぼ不可能なら、正面から落とすのはやめよう」


 景虎が眉を寄せる。


「何を言っている」


「商売をするんだよ」


 そこではじめて、雅楽さんが少し笑ったそうです。悪い顔だったんでしょうね。ろくでもないことを思いついたときの顔です、あれは。


「無幻は神獣じゃない。獣なら餌で釣るしかないけど、人なら欲で釣れる」


「欲、だと」


「そう。あれが欲しいのは欠片じゃない」


 一拍。


「死闘だよ」


 白夜さんが、そこで嫌そうに顔をしかめたそうです。


「……おい」


 雅楽さんは無視した。


「欲しがってるものを売る。これほど真っ当な商売もないでしょう?」


「てめーは本当に」


 白夜さんが低く言った。


「つまり俺が商品ってことかよ」


「うん」


 雅楽さんは何のためらいもなく頷いたそうです。


「いま、この場で無幻が一番高く買うのは白夜さんだ」


 睦月さんの肩が、その瞬間ぴくりと動いたそうです。


「だめです」


 即座でした。


「そんなの、囮じゃないですか」


「囮だよ」


 雅楽さんは平然としていた。


「でもただの囮じゃない。あれが自分から食いつく囮だ。そこが大事なんだよ」


「だったら私が——」


「駄目だ」


 今度は白夜さんが言ったそうです。


 睦月さんがそちらを見る。


 白夜さんは、だるそうな顔のまま、でも目だけは起きていた。


「お前じゃ成立しねえ」


「でも」


「無幻は前の勝者だ。見てえのは勝者との殺し合いだろ。俺しかいねえんだよ」


 それは、誰にも否定できなかったでしょう。


 睦月さんは唇を噛んだ。

 ここで「私も行く」と言えないことが、たぶん腹立たしかったんでしょうね。でも言っても仕方がない。無幻の欲を釣るなら、白夜しか餌にならない。それが、あまりに明快だった。


---


 田沼が、そこで口を開いたそうです。


「乗るのか」


 誰に向けた問いかは、まあ、わかりますよね。


 白夜さんは少しだけ天井を見た。

 それから面倒くさそうに、鼻を鳴らした。


「しゃあねえ、やるしかねーんだろ」


 短かったそうです。

 でも、十分でした。


 時継が、その横顔を見ていたそうです。

 将軍の顔をした男が、妖怪の横顔をじっと見る。妙な図でしょう。でも、時継にとっては、そこに座っている白夜さんのほうがずっと“人間らしく腹を括っている”ように見えたのかもしれませんね。


 白夜さんは続けた。


「ただし」


 田沼を見る。


「時間稼ぎしかできねえぞ。勝てる保証はねえ」


「十分だ」


 田沼は即答した。


「そのあいだに残りを拾わせる」


 雅楽さんが指先で畳を叩いた。


「そこで僕らの仕事だね」


 睦月さんと泉水さんを見る。


「欠片を四つ。最低でも四つ。無幻が白夜さんに釣られてる間に、神獣を避けて、残りの盤面から拾う」


 睦月さんはまだ納得しきれていない顔だったそうです。

 でも、反論はしなかった。


 感情としては反対でも、盤面としては正しい。そういうのがいちばん苦しいんですよね。


 泉水さんが、やわらかい声で言ったそうです。


「わかりました。探索側に回ります」


「君はあっさりだね」


 雅楽さんが少し笑う。


「適材適所ですよ」


 その声が、妙に穏やかだったと後から聞きました。

 まあ、あたしはこのあたりになるともう、泉水さんの穏やかさを素直には聞けないんですけどね。あとで全部知っちまった側のずるい見方ですよ。


---


 さて。


 商いはまとまりました。

 売る品は白夜さん。

 買う相手は無幻。

 払わせる代金は、時間。


 ろくでもないでしょう。


 でもね、五日目ともなると、ろくでもない手しか残ってないんですよ。


 いい手があるうちは、誰だってそっちを選びます。

 ろくでもない手を選ぶしかなくなってからが、本当の勘定です。


 ——そのあたりの話は、次にしましょうか。

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