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第38話 雨漏り

 雨は、夜になっても止みませんでした。


 四日目の夜。白夜さんたちは、喜兵衛の店には戻りませんでした。


 戻れなかった、と言うべきですかね。


 無幻がどこまで追ってくるかわからない。町に戻れば、百膳堂まで引きずってくるかもしれない。そんな真似をされたら、あたしだって困りますよ。店は商売道具ですからね。土足で壊されちゃたまりません。


 で、一行が身を寄せたのは、山の中の半壊した社だったそうです。


 社というか、もう番小屋みたいなもんです。鳥居は片方傾いてる。屋根は半分抜けていて、残った軒から雨が筋になって落ちている。


 でも、屋根が残ってるだけで違うんですよ。


 雨が直接当たらない。風も少し弱い。濡れた着物や髪から立っていた冷気が、ようやく少し落ち着く。


 それだけで、人はどうにか息がつけるもんです。


---


 小屋の中に入ったとき、最初に座り込んだのは獅童さんじゃありませんでした。


 獅童さんは、いなかった。


 そこがね、いちばんいやなところだったんですよ。


 誰もそのことを口にしない。しないんですが、しないまま同じ屋根の下にいると、かえってその不在だけがやたら大きくなる。


 白夜さんは入口に近い柱にもたれて、片膝を立てていたそうです。着流しは泥と血で汚れていて、肩口の裂けたところに雨が滲みた跡が残っていた。右手は膝の上。火はない。あの人、何でもないみたいな顔をしてるときほど、だいたい何でもなくないんですよ。


 睦月さんは、小屋の奥の壁ぎわ。短刀はまだ手の届くところに置いている。背筋は伸びてるのに、目だけが少し遠かったそうです。白夜さんたちと一緒に走った。獅童さんを置いてきた。頭では正しいとわかっていても、体はそう簡単に納得しませんからね。


 泉水さんは、まず入口を見て、それから床板の抜けてない場所を選んで腰を下ろしたそうです。体勢は変わらない。声も変わらない。でも、濡れた前髪の先から水がぽたぽた落ちていた。あの人がそこまで無頓着になってる時点で、だいぶ削れてるんですよ。


 雅楽さんは、相変わらず出口の見える位置でした。こういう人はほんとに徹底してます。扇子は持っていても開かない。濡らしたくないんでしょうね。いや、違うか。頭の中が忙しくて、手の癖にまで気が回ってなかったのかもしれません。


 で、時継です。


 あの人はね、小屋に入ってもしばらく立ったままだったそうです。


 どこに座ればいいかわからないんですよ。将軍の顔をしたまま、泥だらけの番小屋の真ん中に立ってる。上座も下座もない。誰も「こちらへ」なんて言わない。将軍として扱うべきなのか、ただの小心者として置いておくべきなのか、本人にも周りにもよくわからない。そういう妙な空気です。


 結局、入口から少し離れた壁際に、そっと腰を下ろしたそうです。着物の裾を気にする余裕もない。裾は泥で汚れているし、足袋も片方破けていたとか。将軍の顔なのに、みっともないでしょう。みっともないんですが、そのみっともなさが今はやけに本物に見えたそうです。


---


 しばらく、誰も喋らなかったそうです。


 雨音だけがしていた。


 で、その沈黙を最初に破ったのは、雅楽さんだったそうです。


「……で」


 小さく息を吐く。


「誰か、飯は持ってる?」


 いやな沈黙でしょう。だからといって、ずっと抱えてても腐るだけです。あの人、そういうところだけは実に正しい。


 睦月さんが、無言で懐を探ったそうです。黒っぽい布包み。鴉衆の携行食。


 あれです。干した米だか何だかを押し固めた、味も色気もないあの代物。


 雅楽さんが包みを見て、露骨に顔をしかめたそうです。


「……え、これ食べるの?」


「携行食です」


 睦月さんはそう言って、もう包みを開いていた。相変わらずためらいがない。こういうのを“腹が据わってる”と言うのか、“感覚が死んでる”と言うのかは人によるでしょうがね。


 泉水さんが穏やかな声で言ったそうです。


「保存性は高いんですよ。水気が少ないぶん、山では便利です」


「便利さだけで人は生きられないんだよ」


 雅楽さんが本気で嫌そうに言う。


 白夜さんが、それを横から見てぼそっと言ったそうです。


「……なんかなつかしいな、これ」


 睦月さんが一つ差し出す。白夜さんは受け取って、少しだけ匂いを嗅いだ。


 それから、ひと口齧って。


「……やっぱりまず」


 その言い方が、妙に普通だったそうです。


 普通、というのも変ですね。獅童さんがいれば、ここで絶対に「うおっ!? 何だこれ!」とか言って大騒ぎしたでしょう。


 でも今は、白夜さんの「やっぱりまず」が、小屋の中のいちばん大きな冗談だった。


 少しだけ空気が緩んだそうです。ほんの少しだけ。でも、獅童さんがいないぶん、その緩み方は弱かった。


---


 時継は、携行食をしばらく見ていたそうです。


 手の中に収まる黒っぽい塊。どう見ても飯には見えない。将軍の膳に並ぶものでは、もちろんない。いや、将軍に限らず、まともな家の食卓にもあまり並ばないでしょうね、あれは。


「……これは」


 おそるおそる、そう言ったそうです。


「食べ物、ですか」


 白夜さんが面倒くさそうに横を向いた。


「見りゃわかるだろ。飯だよ」


 時継は、露骨に困った顔をしたそうです。


 いや、困るでしょう。さっきまで将軍の顔で上座に座らされていた男が、いきなり番小屋の雨漏りの下で携行食ですから。


 でも食べるしかない。


 恐る恐る口に入れたそうです。

 噛む。噛み切れない。もう一度噛む。飲み込めない。喉につかえそうになる。


 雅楽さんが横からじっと見ていた。


「どう?」


 時継は、しばらく何も言えなかったそうです。

 まずい。とてもまずい。でも「まずい」と口にしていい立場なのかどうかすらわからない。あの人、いちいちそうやって困るんですよね。


 結局、小さな声で、


「……あまり、美味では、ないですね」


 と言ったそうです。


 雅楽さんが吹き出しかけた。泉水さんが「率直ですね」と小さく笑った。白夜さんは「美味だったら困るわ」とだけ言ったとか。


 こういう小さいやり取りがあると、人間、少しだけ息ができるんですよ。


---


 そのあとで、時継がやらかしたわけです。


 いや、やらかしたというのも可哀想ですかね。悪気はないんですよ。悪気はないんですが、悪気がないからこそ痛いこともあるんです。


「……あの」


 全員の目が、そちらへ向いたそうです。


 時継はその視線だけで少し縮こまった。でも、もう言ってしまったからには引っ込められない。


「あの河童の方は……」


 そこで小屋の中が、すうっと冷えたそうです。


 雨音だけが残る。


 白夜さんは何も言わなかった。睦月さんも。泉水さんも、少しだけ目を伏せた。


 雅楽さんだけが、少し間を置いてから言ったそうです。


「置いてきた」


 それだけ。


 時継は口を閉じた。それ以上、何も聞かなかった。


 あの人、そこで初めて、自分が“助かった側”にいることを本当に理解したんじゃないですかね。


 白夜さんたちは、仲間を置いて走った。自分はその中に紛れて、一緒に助かった。


 怖くて必死で走っていたときは、そこまで考える余裕なんかなかったでしょう。

 でも、屋根の下で座ると、嫌でも勘定が見えてくる。


 五人で逃げたはずが、ここにいるのは五人じゃない。獅童さんがいない。


 その穴が、たぶん時継にはやけに大きく見えたはずです。


---


 雅楽さんが、その沈黙を切るように言いました。


「整理しようか」


 こういうとき、あの人は本当に便利ですよ。情を切るんじゃない。情に呑まれない位置から、とりあえず数字を並べる。誰かがやらなきゃならないことです。


「参加者は、どれくらい残ってると思う?」


 誰もすぐには答えなかったそうです。


 白夜さんが、壁にもたれたまま目を閉じて言ったとか。


「多くて十五。少なきゃ十か」


「そんなもんでしょうね」


 雅楽さんが頷く。


「仮に——僕らが四。幕府派が四。無幻が一。野良が三。だいたい十二前後」


「明日の欠片は?」


 泉水さんが聞いた。


「九十、六十、三十、十五」


 雅楽さんが指で数える。


「綺麗に半分なら、七か八。でも、あの神様は途中から急に崩すからね。五から七ってところじゃないかな」


「少ねえな」


 白夜さんがぼそりと言う。


「四人で四つ欲しい。幕府も四欲しいだろう。無幻も一つは取る。野良もいる。で、神獣は四体」


 雅楽さんが天井を見た。


「うん。最悪だね」


 時継が、そこで少しだけ顔を上げたそうです。


「神獣……四体?」


「贄の刻が四回終わったからね」


 雅楽さんは淡々としていた。


「虎、百足、たぶんそれ以外に二体。まだ姿を見てないのもいる」


 時継は言葉を失った。


 まあ、そうでしょうよ。幕府の記録だの伝承だのでは知っていたとしても、実際に数え上げると嫌なもんです。自分が今どこにいるのかが、数字ではっきりする。


---


 そこで白夜さんが、右手を見たそうです。


 ほんの小さく、青白い火花が散ったそうです。


 でもそれだけ。蝋燭の芯に触れる前に消える火みたいに、すぐに失せた。


「……弱えな」


 白夜さんが自分で言った。


 雅楽さんがそれを見て、静かに言ったそうです。


「幕府を含めても、まともに前へ出られるのは白夜さん、睦月さん、景虎さんくらいか」


 泉水さんが少し首を傾げる。


「無幻に勝てる可能性は」


「低いね」


 雅楽さんは即答でした。


「かなり低い。正面から倒すのは、たぶん無理」


 時継が、そこで初めてはっきりと白夜さんを見たそうです。


 火のない右手。血の滲んだ肩。それでも黙って座ってる男。


 白夜さんは視線に気づいたのか、面倒くさそうにそっぽを向いた。


「見んなよ。治りかけの猫みてえに」


「い、いえ……」


 時継が慌てて目を逸らす。


 でもね、その一瞬で時継は、たぶんちゃんと見たんですよ。


 この人は強い。でも、無傷じゃない。疲れてる。限界がある。


 自分を助けた側の人間だって、化け物みたいに平然としているわけじゃない。


 それは、時継にとって初めての感覚だったかもしれませんね。


 本物の将軍は、家臣の傷を数えたりしなかった。死んだ者は帳面から消して、生きている者の使い道だけを考えていた。それが当然だったし、時継もそういうものだと思っていた。


 でもここには帳面がない。名簿もない。あるのは、ぼろぼろの人間が、ぼろぼろのまま隣に座っているという事実だけです。


---


 少ししてから、時継がおずおずと口を開いたそうです。


「……田沼のところへ、戻るべきでしょうか」


 全員の視線がまた向く。時継は、今度はさっきみたいに口を閉じなかった。


「私は、幕府の者ですから。ここにいても……その……役には」


「役には立たないね」


 雅楽さんがあっさり言ったそうです。


 時継がちょっと傷ついた顔をした。


「で、でも……」


「でも、返す価値はある」


 雅楽さんは続けた。


「人質にする気はないよ。そんな真似したら田沼さんが話を聞かなくなる。でも返すだけでもない」


「……どういう意味ですか」


「情報をもらう」


 それだけ。


 雅楽さんは小屋の入口の外、雨の筋を見ながら言ったそうです。


「田沼は明らかに無幻を知ってた。知ってるなら吐かせればいい。いまはそれが一番安い取引だよ」


 白夜さんが鼻を鳴らした。


「また売るのかよ。今度は将軍様を」


「便利な駒は使わないと損でしょ」


「ほんと嫌な言い方しかしねえなお前」


 雅楽さんが笑う。

 でもその笑いも、今日は少し薄かったそうです。


---


 夜は、そうやって少しずつ更けていったそうです。


 誰もちゃんとは眠れなかったでしょうね。


 獅童さんがいない。無幻が近くにいるかもしれない。明日の欠片は足りないかもしれない。


 それでも、屋根の下は屋根の下です。雨が直接当たらないだけで、人間はどうにか瞼を閉じる理由を見つける。


 獅童さんがいたら、たぶんこのへんで一度は鼾をかいて、白夜さんに「うるせえ」って蹴られてたでしょうよ。


 でも今は、それがない。


 笑いの抜けた隙間ってのは、思ったより寒いんですよ。


 時継は、小屋の壁に背をつけたまま、しばらく眠れなかったそうです。


 目の前には、白夜さんたちがいる。


 自分を守る義理なんかない相手。

 しかも幕府の側からすれば、使い潰しても構わない駒。


 その駒の中に、自分は今、紛れ込んでいる。


 妙な夜でしょう。


 時継はたぶん、その夜初めて思ったんじゃないですかね。


 幕府へ戻れば安全なのかもしれない。

 でも、戻るだけで済むんだろうか、と。


 その問いに答えはなかったでしょう。

 でも、問いそのものが、前の時継にはなかったはずなんですよ。


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