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第37話 落雷

 雷が落ちたんじゃないんです。


 でも、落ちたとしか思えない音がした。


 堂の外。寺の石段の向こう。

 空が白く裂けて、その次の瞬間には何かが壊れる音が山じゅうに響いた。木がへし折れる音。石が砕ける音。兵の悲鳴。何か重いものが地面に叩きつけられる音。


 五人は反射で立ち上がったそうです。


 白夜さんが最初。

 睦月さんがその次。

 獅童さんは傷を押して、それでも立った。

 泉水さんは戸口へ。

 雅楽さんは、もうその時点で逃げ道のほうを見ていた。


「何が来た」


 白夜さんが低く言う。


 時継は答えられなかったそうです。息が上がっていて、言葉にならない。

 ただ、目だけが堂の外を向いている。あの顔は、理屈で怖がってる顔じゃありません。見てしまったものに体が先に怯えてる顔です。


 また閃光。


 今度は光の向こうに、影が見えた。


 人の形でした。


 でも、人じゃない。


 石段の上。

 雨に濡れた境内。

 そこに立っていたのは、大太刀を肩に担いだ男でした。


 背が高い。異様に高い。

 ぼろい着物。傷だらけの体。雨の中でも微動だにしない立ち方。

 顔は若いのか老いてるのか判然としない。生きた人間の顔色ではないのに、死人の顔でもない。


 その足元に、兵が一人転がっていたそうです。

 胴が、斜めに開いていた。


 切られたんじゃない。

 割られたみたいな傷でした。


 男は、ゆっくりとこちらを見た。


 その目がね。

 怒ってるわけでもない。笑ってるわけでもない。

 ただ、探してる目だったそうです。何かを。誰かを。


 白夜さんの声が、ひどく低くなったそうです。


「……誰だよ、お前」


 男は答えなかった。


 代わりに、一歩、前へ出た。


 その一歩で、地面が沈んだみたいに見えたそうです。

 重いとか速いとか、そういう話じゃない。立ってる場所の理屈が、この男だけ少し違うみたいな一歩。


 時継が、喉の奥で引きつった声を出した。


「無、幻……」


 雅楽さんがその名を聞いた瞬間、顔が変わったそうです。


 ああいう人って、怖いときほど頭が回るんですよ。

 目だけが冷える。扇子なんか持ってる場合じゃないのに、持ってなくても、あの人が何かを切り替えたのがわかる。


「逃げよう」


 即座に、そう言ったそうです。


 誰も反論しなかった。


「無理だよ。あれは戦う相手じゃない」


 次の瞬間には、無幻が動いた。


---


 見えなかったそうです。


 いや、見えてはいた。

 巨体がぶれた。大太刀が振られた。

 でも、その間の理屈がなかった。


 最初に斬られたのは、堂の外へ駆け込もうとしていた兵でした。

 槍を持っていた。まだ若い兵。

 次の瞬間には、槍ごと上半身が飛んでいた。


 血が、雨に混じって散る。


 そこへ二人目。

 逃げようとした兵の胴が、木戸ごと両断された。

 木が裂ける音が、人の骨の音と一緒に聞こえたそうです。


 獅童さんが、反射で前に出た。


 誰かを庇おうとしたのか。

 ただ、体が動いたのか。

 たぶん両方でしょうね。


「下がれ!」


 叫びながら、右の刀を抜く。

 左も続く。

 二刀を交差して、無幻の斬撃を受ける。


 受けた、つもりだったそうです。


 金属が鳴った。

 火花が散った。

 獅童さんの体が一歩沈む。


 そこで終わりかと思ったら、終わっていなかった。


 獅童さんが顔をしかめた。

 ほんの一瞬だけ、何が起きたかわからない顔をしたそうです。


 次に、右の袖が落ちた。


 そのあとで、腕が落ちた。


 肘から先じゃない。もっと上。

 肩に近いところから、ごっそり。


 血が噴いた。


 獅童さんが、声にならない声をあげてよろめく。

 刀が一本、石段に落ちた。


 睦月さんが前へ出ようとした。

 白夜さんも、同時に。


「獅童さん!」


「河童!」


 でも、その時にはもう二撃目が来ていたそうです。


 無幻の太刀が、横に薙いだ。


 狙いが獅童さんだったのか、まとめてだったのか、たぶんどっちでもよかったんでしょう。

 進路そのものを切った。


 堂の柱が裂けた。

 石段の脇の石灯籠が、上から滑るみたいにずれた。

 その後ろの杉まで、まとめて折れた。


 行けない。

 睦月さんも白夜さんも、その一撃の向こうへ踏み込めない。


 泉水さんが、そこで地面に手をついたそうです。


 雨でぬかるんだ土に、指が沈む。

 蔦が走る。早い。

 堂の床板の下から、石段の脇から、濡れた根が一斉に伸びて、白夜さんと睦月さんと雅楽さん、そして戸口で固まっていた時継の足に絡んだ。


「引きます!」


 声が、いつもよりずっと強かったそうです。


「おい、あいつがまだ!」


 白夜さんが怒鳴る。

 でも泉水さんは、さらに声を荒げた。


「戻ったら全員死にます!」


 たぶん、初めてでしょうね。

 あの人があんなふうに叫ぶの。


 蔦が四人をまとめて引く。

 半分は転ぶように、半分は滑るように、堂の裏手へ体が持っていかれる。


 時継なんか、完全に引きずられていたそうですよ。足がもつれて、将軍の着物の裾が泥だらけになって、情けないったらない。でも、あれでいいんです。速く逃げるのに格好なんか要りません。


 睦月さんが振りほどこうとした。

 白夜さんも踏ん張った。

 でも、その間にも無幻はもう次の足を出している。


 雅楽さんだけが、最初から逆らわなかったそうです。

 あの人は、その一瞬でわかったんでしょう。助けに戻る動きは、情としては正しい。でも盤面としては全滅だと。


---


 獅童さんは、その場に残された。


 右腕がない。

 雨が傷口を叩く。血は止まらない。

 石段に落ちた刀は一本。左手に残ったもう一本だけが、かろうじて手の中にある。


 よろめきながら、一歩下がったそうです。


 まだ逃げようとしていた。

 ちゃんと、生きようとしていたんですよ。


 無幻が、ゆっくりとそちらへ向く。


 獅童さんは息を吸った。

 吸ったところで、うまく入らない。肩は裂けているし、脇腹も昨日の傷が残っている。卯之助との戦いの消耗も抜けていない。まともに立っていること自体が異常なくらいです。


 でも、左手の刀だけは握り直したそうです。


 そのとき、ほんの一瞬だけ。

 頭の中に、いろんな顔が浮かんだんでしょうね。


 喜兵衛の店。

 湯気の立つ飯。

 小鈴の「ごゆっくりどうぞ」。

 白夜さんの呆れた顔。

 雅楽さんの、からかうみたいな目。

 泉水さんの、柔らかい声。

 睦月さんが笑いをこらえていた口元。


 あれを思い出したから、逃げるのをやめたのかもしれません。


 獅童さんは、刀を正眼に構えたそうです。


 片腕で。

 血を流しながら。

 雨に打たれながら。


 そして、低く名乗った。


「貴船の沢に生まれし侍……」


 無幻は止まらない。

 ゆっくり歩いてくる。


 獅童さんの声が、雨の中で少しだけ大きくなった。


「鞍馬の山風に鍛えられ、嵐山の急流に磨かれ……」


 誰に聞かせるわけでもない。

 敵にでも、仲間にでもない。

 あれはたぶん、自分のためだったんでしょう。


 自分が何者か、最後まで自分でいるための名乗りです。


 雷が光る。


「——天下一の剣士、獅童だ!」


 その叫びと同時に、無幻が踏み込んだ。


 影が交差する。

 雷光の中で、二つの輪郭だけが白く浮く。


 次の瞬間には、また木が裂けた。

 石が飛んだ。

 何がどうぶつかったのか、白夜さんたちの位置からはもう見えなかったそうです。


 ただ、獅童さんの声だけが、最後に一度だけ響いた。


「——行け!!」


---


 五人は走った。


 走るしかなかった。


 寺の裏手の獣道。

 ぬかるんだ土。

 根が浮き出た坂。

 雨に煙る杉林。


 誰も振り返れなかったそうです。


 振り返ったところでどうにもならない。

 その事実だけが、いちばん残酷です。


 睦月さんは何度も後ろを見ようとした。

 でも、そのたびに泉水さんの蔦が足元を引いた。

 白夜さんは何度か舌打ちしながら、それでも走った。

 雅楽さんは息を切らしながら、転ばないことだけに集中していた。


 で、時継です。


 あの人、こういうときだけ妙に速いんですよ。


 いやもう、情けないくらい必死でした。木の根をまたぐのも、泥を避けるのも、うまいわけじゃない。上品でもない。でも「ここで転んだら死ぬ」が体に入ると、人間ってのは速くなるんですねえ。将軍の着物の裾をまくり上げるみたいな格好になりながら、白夜さんたちのすぐ後ろを、転ばずに追ってくる。逃げ足ってのは才能なんですよ。ほんとに。


 後ろから追ってくる気配はない。

 ないのが余計に怖い。

 無幻がその気になれば、追いつくのか、追いつかないのか、その基準すらわからない。


 ようやく山の陰まで逃げきったところで、影が来た。


 贄の刻です。


 空気が変わる。

 雨音の質が変わる。

 木の根元や岩の影から、黒い手が滲み出してくる。


 五人は、もう抵抗しなかったそうです。

 欠片を回収される。冷たい手が懐へ入り、脈打つ神器を持っていく。


 とくん。

 とくん。

 とくん。

 とくん。

 とくん。


 五つ。


 時継のぶんが、あった。


 ——いや、違いますね。

 時継は非参加者です。刻印がない。欠片を持っていても回収される側じゃない。


 だから実際に来たのは、白夜さんたち四人の分だけだったはずです。


 でもね、その場にいた全員の感覚としては、五つ揃っていたのに、四つしか回収されなかった。そういう気味の悪さが残ったそうです。


 獅童さんの分は、来なかった。


 空を見上げると、赤い月がまた一つ減っていたそうです。


 誰も何も言えなかった。


 言えることなんか、なかったんでしょう。


 時継だけが、少し遅れてその意味に気づいたみたいだったと聞きました。顔から血の気が引いていったそうですよ。さっきまで一緒に走っていた者のうち、一人だけが、もういない。それがどういうことか、あの人はそこで初めて本当に理解したのかもしれませんね。


---


 そのころ、あたしは店にいました。


 鍋を火にかけてたんですよ。

 鯖の味噌煮。雨の日はあれがいいんです。体が温まるし、飯にも合う。獅童さんなんか、ああいうの好きそうでしょう。骨までしゃぶって食べそうな顔してましたからね。


 でもね、あの日はどうにも火加減が決まらなかった。


 味噌が煮詰まりすぎる。

 少し水を足す。

 今度は薄い気がする。

 また少し味噌を足す。


 そんなこと、普段はしませんよ。

 あたしは飯屋ですから。鍋の具合なんて、見なくたってわかる。


 わかるはずなのに、あの日は何度見ても落ち着かなかった。


 小鈴が奥から顔を出して、


「お兄ちゃん、まだ帰ってこないの?」


 と聞いたんです。


 あたしは算盤の珠を弾くふりをしてました。

 帳場に座って、帳簿を開いて、五人分の夕飯のところに線を引いたまま。


「……そのうち来ますよ」


 そう答えたんですがね。

 声が、ちょっとだけ変だったかもしれません。


 外はずっと雨です。

 裏路地は暗い。

 行灯の火も、湿気でいつもより頼りなく見える。


 小鈴が言うんです。


「獅童さん、お腹すいてるかな」


 あたしはそこで、鍋の蓋を持ったまま止まりました。


 飯屋ってのは、腹を空かせて帰ってくる人間を待つ商売です。

 待つのが仕事みたいなところがある。


 だからね、帰ってくるかもしれないと思ったら、下げられないんですよ。


 膳を五つ、ちゃんと出してありました。

 箸も五膳。

 茶碗も五つ。

 鯖の味噌煮も、きんぴらも、味噌汁も、全部五人分。


 冷めますよ。

 冷めるに決まってる。秋の夜ですからね。雨まで降ってる。

 鯖なんて、冷めたら脂が固まって台無しです。


 そんなこと、あたしが一番よく知ってるんです。


 でも、片づけられなかった。


 帰ってくるかもしれないでしょう。


 ずぶ濡れで。


 泥だらけで。


 腹を減らして。


 「飯」とだけ言って、座るかもしれない。


 だったら温め直せばいい。

 飯屋ってのは、そういう望みに弱いんですよ。


 小鈴は何も言わなくなりました。

 あの子も、なんとなくわかったんでしょうね。いま余計なことを言っちゃいけないって。


 あたしは鍋の前に立ってました。

 火を弱めたり、また少し強めたり。

 味噌の匂いがしてるうちは、まだ飯の時間が終わってない気がしたんです。


 表の戸が鳴るたびに振り向きました。風のせいです。客じゃない。誰も来ない。


 それでも、火は落とせなかった。

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