第36話 嵐の前
雨は、昼を回っても止みませんでした。
朝からずっと細かく降っていた雨が、少しだけ粒を変えたそうです。霧みたいだったのが、だんだん筋になってくる。屋根を打つ音がはっきりして、軒先から落ちる水も太くなる。寺の裏手の石段はもうずいぶんぬかるんで、紅葉は張りついて、朱というより黒ずんだ赤に見えていたとか。
織姫が落ちて、卯之助も落ちた。
それだけ聞けば、ずいぶん景気のいい話に聞こえるでしょう。
幕府が手を焼いていた二人を片づけた。五人は生きている。欠片も揃う見込み。四日目としては上々です。
でもね、現場の空気ってのはそう単純じゃないんですよ。
卯之助を落とした獅童さんは、立ってるだけで精一杯。
織姫を斬った睦月さんも、無傷じゃない。
白夜さんは火のないまま傷だらけ。
泉水さんは表情こそ崩していなかったそうですが、ああいう人ほど消耗を顔に出さないだけで、消耗してないわけじゃありません。
雅楽さんだけが直接の大怪我をしていない。でもあの人はあの人で、ずっと神経を削ってる。
つまりね、勝ったといっても、打ち上げなんかできる勝ち方じゃなかったんです。
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幕府の兵が近づいてきたのは、戦いが終わってしばらく経ってからだったそうです。
雨の石段を、鎧の擦れる音を立てながら何人かが上がってくる。数は多くない。ほんとに削れてたんでしょうね。将軍家のお膝元の兵ってのは、もっとぞろぞろいてもよさそうなものですが、あの日の寺には歯の抜けた櫛みたいな人数しか残っていなかった。
先頭にいたのは景虎でした。
肩に新しい布を巻いている。血は止まっているが、顔色はよくない。
それでも姿勢だけは崩れていないあたりが、あの男らしいですよ。
石段の途中まで来ると、足を止めたそうです。
そこには何もなかった。
血の跡はあった。石段のあちこちに赤黒い筋。雨で薄まりかけているが、まだ消えてはいない。石灯籠が倒れて割れている。鳥居の柱に深い傷がついている。石段の端がいくつか砕けている。
でも、死体はない。織姫も、卯之助も。
儀の最中に死んだ参加者は、影に引きずり込まれる。いつも通りです。殺し合いの痕跡だけが残って、殺された者はどこにもいない。
景虎はその石段を見て、一瞬だけ黙ったそうです。
そりゃ黙るでしょう。自分たちで何日も手を焼いてきた相手が、朝のうちに二人とも消えてるんですから。血と壊れた石だけが証拠で、それ以外には何もない。
「……終わったのか」
低い声だったそうです。
白夜さんが、いかにも面倒くさそうに答えた。
「見りゃわかるだろ」
「死体は」
「ない。影が持っていった。——いつものことだろ」
景虎の眉がわずかに動いた。
少し遅れて田沼も現れたそうです。この人は本当に、足音が静かなんですよ。雨の日の板の間でも、濡れた石畳でも、変に音を立てない。商人のあたしからすると、ああいう人は怖いです。背後に立たれたくない。
田沼は石段の血痕と、砕けた石灯籠と、傷のついた鳥居の柱をひと目見て、すぐに兵へ指示を出した。
「周囲を確認せよ。糸が残っておるやもしれぬ、軽々しく触るな。欠片が落ちていれば回収」
実務の人ですねえ。感慨も何もない。勝った負けたじゃなくて、まず片づけ。そういう順番で動く人です。
それから、白夜さんたちのほうへ向いた。
「約定は果たそう」
短く、それだけ言ったそうです。
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その場で長話はしなかったそうです。
雨の石段でいつまでも立ち話をする趣味は、さすがに誰にもない。
兵の案内で、一行は寺の裏手にある小さな堂へ移ったとか。大きな本堂じゃない。もっと簡素な、物置と離れの中間みたいな建物です。板戸は古く、梁には雨染みがあり、壁際には使わなくなった燭台やら木箱やらが寄せてあった。
でも屋根があるだけで全然違うんですよ。
雨が直接当たらない。
風も少し弱い。
濡れた着物や髪から湯気みたいに冷気が立っていたのが、ようやく少し落ち着く。
五人はそこで、ようやく一息ついたそうです。
睦月さんは堂の柱のそば。
獅童さんは入るなり、その場にどかっと座り込んだ。というより、座り込まないと立っていられなかったんでしょう。
白夜さんは壁にもたれて、片膝を立てる。
泉水さんは、まず他の怪我を見ようとした。
雅楽さんは、いつものように入口近く。逃げ道の見える場所です。あの人、ほんとにそういうところが抜け目ない。
泉水さんが、最初に獅童さんの肩を見たそうです。
「動かないでください」
「動けるかよ、こんなもん……」
口ではそう言いながら、獅童さんは大人しくしていたとか。
泉水さんが濡れた布を切って、裂けた肩口を確かめる。脇腹の腫れも見る。獅童さん、痛いはずなんですがね、見栄を張ってるんですよ。
「これくらい、かすり傷だ」
「かすり傷でそんな顔はしませんよ」
「してねえ!」
「してます」
そのやり取りを、白夜さんが横から見て、ぼそっと言ったそうです。
「天下一の顔じゃねえな」
「うるせえ!」
で、そこで少しだけ空気が緩むんですよ。
こういうの、大事なんです。人間も妖怪も、緊張が切れきらないままだと、そのうち変なところで折れますからね。
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しばらくして、幕府の兵が入ってきたそうです。
盆の上に、布で包んだものがいくつか載っている。
兵は無言でそれを置いて、下がった。
雅楽さんが目を細めた。
「……ずいぶん素直だね」
布を取る。
欠片でした。
土器みたいな色。
脈打つ、不気味な神の残骸。
五つ。ちゃんと五つあったそうです。
とくん。とくん。
静かな堂の中で、その拍がばらばらに重なる。
生き物でもないのに生き物みたいで、何度見ても気味の悪い代物です。
獅童さんが顔をしかめた。
「やっぱこれ、慣れねえな……」
「慣れたくもないけどね」
雅楽さんが言ったそうです。
白夜さんは欠片を一つ手に取って、少しだけ目を細めた。
約束通り五つ。幕府が本当に渡した。それ自体が少し意外だったのかもしれません。
「明日からはどうなるんだい」
雅楽さんが、欠片を数えながら聞いたそうです。
ちょうどそこへ、景虎が戸口に姿を見せた。
こちらも休んでる場合じゃないんでしょうね。傷だらけのまま、まだ動いている。
景虎は堂の中へは入らず、戸口のところで言ったそうです。
「本日の協定は、ここまでだ」
雨音の向こうからの声。
硬い。疲れていても、あの男の声音は崩れない。
「明日から先は、また別の話になる」
雅楽さんが口元だけで笑う。
「要するに、奪い合いに戻るってことだね」
「そうだ」
景虎はあっさり言ったそうです。
「織姫が消えた以上、利害の一致も薄れる。こちらも、そちらに譲る余裕はない」
「ずいぶん正直じゃないか」
「貴様にだけは言われたくない」
もっともです。
でもね、このへんのやり取りは、かえって清々しいんですよ。
変に取り繕われるより、明日から敵だとはっきり言われたほうが、よほど信用できる。妙な話ですがね。
白夜さんが欠片を懐へしまいながら、面倒くさそうに言った。
「最初からそうだろ」
「……そうだな」
景虎は、それだけ返したそうです。
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そこで雅楽さんが、ふと思い出したみたいに言ったそうです。
「最後に一つ、聞いていい?」
景虎が眉を寄せる。
「なんだ」
雅楽さんは、堂の外の雨をちらりと見てから言ったそうです。
「禍月がすべて集まったとき、どうなるのか。幕府は何か知ってる?」
これ、前々から引っかかってたんでしょうね。
あの人、表に出してなかっただけで、ずっとそこを気にしていたはずです。今回の儀が六日しかないこと。数が合うこと。これが最後かもしれないこと。
景虎は、すぐには答えなかったそうです。
代わりに、後ろにいた田沼が一歩前へ出た。
いつの間にいたんだって話ですが、いたんですよ。
あの人は、そういうところにいる。
「確かなことは誰にもわからぬ」
田沼の声は、相変わらず静かだったそうです。
「だが、伝承では——禍神が依り代を得て、顕在化すると言われている」
獅童さんが「は?」と顔を上げる。
睦月さんの目が動く。
白夜さんは何も言わない。
雅楽さんだけが、小さく「なるほど」と呟いたそうです。
「つまり、全部集まるのは最悪ってことだね」
「少なくとも、良いことではない」
田沼はそう言ったそうです。
「不死を得るという伝承が真であったとしても、その代償が何かはわからぬ。幕府としては、看過できぬ」
幕府としては、ね。
そこはちゃんと幕府の言い方でしたよ。天下のためでも、民のためでもなく、まず幕府として困る。正直で結構です。
雅楽さんは、そこで扇子も持ってないのに、持ってるみたいな手つきで口元を撫でたそうです。
「ありがとう。知りたかったのはそこだけだ」
田沼は軽く顎を引いて、景虎と一緒に去ろうとした。
そのとき、白夜さんがぼそっと言ったそうです。
「明日はもう助け合いなしだぞ」
景虎は足を止めた。
「承知している」
「そっちも死ぬなよ、おっさん」
景虎は、振り向かなかったそうです。
でも一拍だけ間があって、それから低く返した。
「貴様こそな、狐」
まあ、あれがあの二人なりなんでしょうね。
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幕府の連中が去ると、堂の中は急に静かになったそうです。
雨の音ばかりが残る。
屋根を叩く音。軒から落ちる音。少し遠くで兵が走る音。
五人だけになると、ようやく本当に息がつけたのかもしれません。
獅童さんは壁にもたれて、目を閉じた。
泉水さんは脇腹の傷を自分で確かめていた。
白夜さんは右手を見た。やっぱり火は出ない。出そうとする気配だけが少しあって、でも何も起きない。睦月さんはその手元を見ていたそうですが、何も言わなかったそうです。
雅楽さんが、欠片をもう一度数え直した。
「一、二、三、四、五」
そして、少し息を吐いたそうです。
「今日はちゃんと揃ったね」
白夜さんが言う。
「今日"は"な」
「そう。今日"は"」
その言い方がね、あまりにも現実的で、いやだったでしょうね。
四日目を越えた。
でも明日は五日目。
欠片はもっと減る。神獣はもっと増える。無幻もまだいる。
その現実を、誰も口にはしなかった。
しなかったけど、みんな知っていた。
そんな中で、白夜さんが睦月さんのほうを見たそうです。
睦月さんは柱のそばに立ったまま、まだ少し呼吸が荒い。織姫とやり合った直後なんですから当たり前です。頬にも傷がある。着物の袖も少し裂けている。
白夜さんは、いつものように気のない顔で言ったそうです。
「……やるじゃねえか」
短い。
素っ気ない。
でも、あの人にしては十分すぎるくらいの言葉です。
睦月さんは少しだけ目を見開いた。
すぐにいつもの顔へ戻ったそうですけどね。
「……ありがとうございます」
小さく、そう答えた。
獅童さんがそこで薄目を開けて、ぼそっと言ったそうです。
「俺にも何かねえのかよ……」
白夜さんが即座に返す。
「生きててえらい」
「子ども扱いすんな!」
泉水さんが小さく笑った。
睦月さんの口元も、ほんの少しだけ緩んだそうです。
こういう一瞬があるとね、ああまだ全員、人間の顔をしてるなって思うんですよ。
それが次の瞬間には、あっさり壊れることもあるんですが。
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空が、そこで一段、暗くなったそうです。
まだ昼のはずなのに、夕方みたいな色になる。
雨雲が厚く重なって、山の向こうが見えない。
風も少し変わった。冷たくなるというより、張る感じです。空気がぴんと固くなる。
雅楽さんが、戸口の外を見た。
「……荒れるね」
その声に、白夜さんも顔を上げる。
獣みたいに耳が少し動いたそうです。あの人、天気の変わり目には敏いんでしょう。
遠くで、雷が鳴った。
ごろごろと、腹の底に響くような鈍い音。
光はまだ見えない。でも雲の奥で何か大きいものが転がったような、いやな響き。
獅童さんが顔をしかめる。
「なんだよ……まだ何かあんのか?」
誰も答えなかったそうです。
その直後でした。
堂の外で、ばたばたと足音がした。
兵の足音じゃない。もっと軽い。もっと乱れてる。転びそうなくらい必死の足音。
板戸が勢いよく開く。
そこに立っていたのは、時継でした。
将軍の顔をした男。
でも今は、その顔がほとんど泣きそうに歪んでいたそうです。髪も乱れて、着物の裾も泥で汚れて、息を切らしている。どう見ても"上様"の顔じゃない。
「み、みなさん……!」
声が裏返っていたそうです。
あの人、ほんとにこういうとき隠せないんですよ。
五人が一斉にそちらを見る。
時継は息を整える余裕もなく、戸口のところで叫んだそうです。
「逃げてください……!」
一拍。
「早く……! あれが、来ます!」
その言葉が落ちるのと、雷光が走るのは、ほとんど同時だったそうです。
白い光が、堂の中を一瞬だけ昼みたいに照らした。
その次の話をしましょうか。




