第35話 小さな火
雨は、まだ止みませんでした。
秋の終わりの雨ってのは、しつこいんですよ。ざあざあ降るでもない。風に煽られて荒れ狂うでもない。ただ、細く、冷たく、絶え間なく落ちてくる。屋根を打つ音も、石段を濡らす音も、木の葉を叩く音も、ずっと耳の奥に残る。
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睦月さんは石段の上に立っていたそうです。
白夜さんの前に。短刀を構えて。
織姫が笑っている。石段の上から見下ろして。
「へえ。優しいのね、小鴉ちゃん」
睦月さんは動かなかった。構えたまま。雨が刃を伝って落ちる。
織姫の目が、すう、と細くなったそうです。猫が巣穴の前で止まった鼠を見るときに似ている。逃げるか、噛みつくか。どっちでもいい。どっちでも楽しめる。
一拍。声が甘くなった。
「でも、いいの?」
糸を張ったまま、一段だけ石段を下りた。近づいたんじゃない。距離を変えたんです。相手が嫌がる距離に。
「前も、そうやって戻ったんじゃないの?」
睦月さんの肩が、わずかに強張ったそうです。
「助けに行って、失敗して。——誰か死なせた」
雨の音がやけに大きくなる。
石段の上のほうで、風が木の葉を揺らしている。鳥居の柱に雨が走って、朱色が血みたいに滲んでいる。
「あの日、逃げてれば助かったんでしょ? あの人、死なずに済んだんでしょ?」
睦月さんの短刀が、ほんのわずかに揺れた。揺れたのは手じゃなくて、呼吸だったかもしれません。
織姫はそれを見ていた。
あの女はね、糸を張るのがうまいだけじゃないんです。人の傷口も見える。どこを押せば崩れるか、どの言葉が一番刺さるか。蜘蛛が糸の振動で獲物の位置を読むように、織姫は人の声や呼吸の乱れから弱い場所を読み取る。
「狐さんを守るの? 任務でもないのに?」
織姫は首を傾げた。
「前みたいに逃げてみたら? 今ならまだ間に合うかもしれないわよ」
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怖かったでしょうね。
あたしは見てませんでしたから、想像するしかないんですがね。
でも、怖かったはずです。
一日目が蘇る。結界の淵。卯之助。吹き飛ばされる清十郎さん。戻った。助けようとして戻った。結果、死なせた。あのとき自分が戻らなければ——
その記憶は、理屈より先に体へ来ますからね。
でもね、同じ場面が目の前にあるんです。
ここで退けば助かるのか。退いたら、誰も死なないのか。そんな保証はどこにもない。
清十郎さんの声が聞こえたそうです。耳の奥で。
——迷え。だが、剣を振る瞬間だけは迷うな。
それから、別の声。
——お前弱くねーから。
ぶっきらぼうな声。褒めてるのか適当に言ってるのか、よくわからない声。
睦月さんの短刀が、止まった。
揺れが、消えたそうです。
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「……任務じゃありません」
小さな声だった。
織姫が「は?」と笑う。
「任務じゃありません」
今度は、はっきりと。
短刀を構えたまま。雨が刃を伝って落ちる。
「私が、守りたいんです」
織姫はしばらく、何も言わなかったそうです。
糸を張ったまま。雨の向こうで。石段の上から。
それから、声の色が少しだけ変わった。
「へえ」
小さく。
嘲りでも嫌悪でもない、もう少し別の——あたしにはうまく言えませんが、何かを値踏みし直すような目だったと。
そこから先は、織姫の口調が変わったそうです。甘い声がなくなって、もう少し硬い声になった。
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「守りたい。あは」
織姫は笑ったそうです。でも目が笑っていないほうの笑い方でした。
「鴉衆でしょ、あんた。何人殺してきたの?」
睦月さんは答えなかった。
「それで仲間を守る? 正義の味方みたいなこと言って」
織姫の声が、少し上がった。
「あはは——あたしとあんた、何が違うのよ」
問いかけるような口調でした。でもね、あの声にはどこか、返事を本気で求めてる響きがあったそうです。嘲ってるだけじゃない。確かめたがっている。自分と何が違うのか。何も違わないはずだと。
睦月さんは、少しだけ間を置いたそうです。
それから。
「……違わないかもしれません」
織姫の笑いが、止まった。
「……は?」
「私は人を殺してきました。任務だと言い聞かせて」
声は低かった。雨に紛れそうなくらい。
「あなたと何が違うかと聞かれたら、わかりません」
織姫が黙った。
あの女が黙ったんですよ。
あたしはね、あとで聞いて少し驚きました。あの女は喋り続ける女です。喋って、笑って、糸を張って、相手を崩す。喋ることが武器なんです。その女が一瞬黙った。
睦月さんは、そこで言葉を切らなかったそうです。
「でも今、この人たちを守りたい。理由は、それだけです」
織姫の目が動いた。
睦月さんの全身を、上から下へ見たそうです。短刀を握る手。構え。足の位置。呼吸。
さっきまで「弄べる弱い獲物」だった小鴉を、初めて測り直す目。
そして、口元だけで笑った。
「……いいじゃない」
声が変わっていた。甘さも嘲りもない、もっと乾いた声。
「噛みついてきなさいよ、小鴉」
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糸が来た。
真正面から三本。左右から二本。上から一本。
前の睦月さんなら、全部を見てから捌こうとしたでしょうね。でもこのときは違った。見て、迷って、選ぶんじゃない。もう足が先に出ていた。
半歩で外す。右の糸を紙一重でかわす。左から来た二本のうち一本は鳥居の柱へ流し、もう一本は短刀の峰で弾く。
織姫の目が細くなる。
「あら」
睦月さんは止まらない。石段を上がる。雨で滑る石を、無駄なく踏む。織姫の間合いの外から、一息で中へ入る。
短刀が一閃した。
織姫の袖が裂ける。浅い。でも、入った。
織姫が少し笑ったそうです。
「やるじゃない」
それから急に、糸の密度が変わった。
これまでの織姫は、遊ぶために隙を残していたんでしょう。でもここからは違う。睦月さんを「獲物」じゃなく「敵」として見た。そういう張り方になったそうです。
鳥居と鳥居のあいだ。石灯籠の陰。石段の端。雨に濡れた空気そのものに、細い刃が何枚も浮かんでいるみたいだったとか。
睦月さんの頬に一筋入る。肩にも浅い傷。
でも止まらない。
石段を蹴って、鳥居の柱を使って、狭い足場を渡る。雨で滑る。普通なら踏み外す。けれどこの人は踏み外さない。最短距離で織姫に追いつく。そのための身体の使い方だけに、全部が整っていたそうです。
白夜さんがね、あとでこう言ってましたよ。
「迷いがなくなると、あいつの剣は速くなる。技が上がったんじゃなくて、邪魔なものがなくなっただけだ。——最初からああだったんだよ、あいつは」
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そこで初めて、短刀に火が灯った。
派手な火じゃありません。白夜さんみたいに蒼い炎が噴くわけでもない。
ほんの少し。刃の縁が、白に近い青で薄く縁取られるくらい。蛍より少し明るいくらいの灯。
でも、ちゃんと火だったそうです。
織姫の目がわずかに動く。
「それ——」
睦月さんは答えない。
答える暇もなかったでしょう。体が覚えていただけですからね。三日目の夜中に、誰もいない庭で、指先をやけどしながら何度も繰り返した。白夜さんに「やめとけ」と言われても、翌朝には左手の指先が赤かった。
派手さはない。でも、意味はあった。
火を纏った刃が、織姫の糸を焼きながら断つ。一本。二本。
糸は再生する。でも、焼かれた糸は張り直しに一手かかる。その一手ぶんだけ、睦月さんのほうが速くなる。
織姫の眉がほんの少し寄った。
「なるほどね」
そこで睦月さんが踏み込んだ。
織姫は糸で迎えようとした。でも一拍遅れた。遅れたというより、睦月さんのほうが速くなっていた。迷いが消えたぶん、剣がそのまま最短になった。
短刀が、織姫の脇腹へ入る。
深くはない。でも、火が乗る。
織姫の息が詰まった。
睦月さんはそこで終わらなかった。抜く。返す。もう一度。
喉ではなく、心の臓でもなく、糸を操る腕と、体勢を崩した隙を、きっちり選んで削っていく。鴉衆の剣です。急所を突く技術は、最初から持っていた。心が追いついていなかっただけで。
織姫が初めて、はっきりと後ろへ退いたそうです。
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雨が、二人のあいだに降る。
織姫の着物が赤く濃くなっていく。どこまでが元の赤で、どこからが血か、わからない。
それでも織姫は糸を止めなかった。指から一本、二本。でも火を纏った刃がそれを焼く。張るそばから断たれる。
織姫の呼吸が荒くなっていたそうです。
あの女が荒い呼吸をしているのを聞いたのは、あとにも先にもこのときだけだと白夜さんは言ってました。
最後の糸が張られた。
喉を狙った、きれいな一筋。
睦月さんは半歩沈んでそれを外した。ほとんど同時に、短刀が上がる。
火が、雨の中でひときわ強く灯った。
一閃。
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織姫の体が、そこで止まったそうです。
すぐには崩れなかった。白い首筋に細い赤い線が浮いて、それが遅れて開く。
織姫は、自分の喉元に触れた。指先に血がつく。
「……あは」
小さく笑ったそうです。
「負けた」
雨が降る。石段を、血が流れる。
織姫はゆっくり膝をついた。
「——最悪」
やけに乾いた声だったそうですよ。叫びもしないし、喚きもしない。ほんとに、ついてない日だった、くらいの言い方で。
睦月さんは短刀を下げなかった。構えたまま、織姫を見ていた。
織姫がその目に気づいた。
——気づいて、一瞬だけ、表情が変わったそうです。
笑いでも怒りでもない、もっと別の何か。あたしにはうまく言えませんが、見られたくないものを見られたときの顔、に近かったのかもしれません。
「……同情だけは、やめてちょうだい」
声が低かった。
「吐きそうになるから」
それで終わりでした。
織姫の体が石段に崩れる。雨がその髪を濡らす。赤と黒の着物が石に貼りつく。
影が来た。
石段の隙間から滲み出した黒い手が、織姫の体を掴んだ。儀の最中に死んだ参加者は、影に引きずり込まれる。いつも通りです。
織姫の体がゆっくりと沈んでいく。黒髪の先が最後に見えて、それきり。
後には何も残らなかった。雨が、血の跡を薄めていく。
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しばらく、誰も動かなかったそうです。
獅童さんは呆然としていた。白夜さんは石段に手をついたまま、睦月さんを見ていた。泉水さんは少し離れたところで、その全部を静かな顔で見ていた。
睦月さんだけが立っていた。短刀を握ったまま。
雨に打たれて。石段の上で。
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あたしはね、あとでこの話を聞いたとき、一つだけ聞いたんですよ。
睦月さんに。
「織姫って女は、どんな人でした?」
睦月さんは少し黙って、こう言いました。
「……怒っていたんだと思います」
あたしは「何に?」とは聞きませんでした。
あとから知ったことですがね——織姫には、過去があったそうです。詳しいことはあたしも知りません。知ってたとしても、全部は語りませんよ。あの女の最後の言葉が「同情だけはやめて」でしたからね。語りすぎたら、それこそ同情になっちまう。
ただ、一つだけ。
あの女が、守ろうとする者に対して——正義の味方みたいなことを言う者に対して——ああも過剰に苛立っていたのは、たぶん理由があったんでしょうね。
自分もかつてそうだったのか。あるいは、そういう者に裏切られたことがあるのか。
どっちかはわかりません。どっちでもいいんです。
わかるのは、あの女が最後まで「誰かを守るため」には戦えなかった、ということだけです。
睦月さんとの違いがあるとすれば、そこだったんでしょうね。
——まあ、与太話ですよ。死んだ人間のことをあれこれ言っても仕方ない。
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白夜さんが、そこでようやく立ち上がったそうです。
肩を押さえながら。脇腹を庇いながら。傷だらけで、雨に打たれて、顔色も悪いくせに、それでも立つ。
睦月さんが振り返る。
白夜さんは、少しだけ口の端を上げたそうです。
「……やるじゃねえか」
それだけ。
それだけなんですがね。あの人がそういうことを言うのは、ずいぶん珍しいんですよ。
睦月さんは何も返さなかったそうです。
ただ、短刀の火が、そこでようやく消えた。雨の中で、小さく、静かに。
四日目の雨は、まだ止みませんでした。




