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第34話 蜘蛛の糸

 あたしはね、織姫って女は、喧嘩の始め方がうまいと思うんですよ。


 卯之助みたいに「いくぞおらぁ!」と来ない。そういうのは見ていてわかりやすいでしょう。怖いけど、まだ人間の喧嘩なんです。


 織姫は違う。


 まず場所を自分のものにする。相手の立つ場所、踏み込む場所、逃げる場所、全部に糸を置く。それからようやく殺しに来る。だからあの女の相手をしてると、自分が喧嘩をしてるのか、もう罠にかかったあとなのか、途中でわからなくなるんです。


---


 卯之助を始末した織姫は、そのまま石段の上へ戻ったそうです。


 濡れた石の上を、草履の音もなく。糸を張り直しながら。卯之助を殺した手で、何事もなかったみたいに。


 白夜さんと睦月さんが石段の途中にいた。獅童さんは動けない。


 織姫は二人を見下ろして、少しだけ首を傾げたそうです。


「さて」


 糸が一本、雨に紛れて白夜さんの喉へ向かう。白夜さんが半歩ずれて外す。


 もう一本。肩を狙う。身を沈めて避ける。


 三本目。足元。飛び退く。


 織姫の指が止まった。


「……ねえ」


 声は柔らかかったそうです。柔らかいのに、目だけが冷えている。


「あなた、不死もなくなってるでしょう」


 白夜さんは答えなかった。


「火も出ない。傷も治らない」


 織姫はゆっくりと、見定めるような目で白夜さんの全身を見たそうです。頬の切り傷。肩口の血。卯之助に殴られた跡。百足の傷。全部残っている。


「このまま殺すだけだと、つまらないわよね」


 ぞっとする言い方だったそうですよ。


 殺せるかどうかじゃない。殺すのは確定していて、その上で「楽しめるかどうか」を考えている。料理の味付けを選んでるみたいな口調だったとか。


 白夜さんが舌打ちした。


「……嫌な女だな」


---


 最初に動いたのは糸でした。


 でも、白夜さんへは来なかったそうです。


 左——少し離れた場所にいた幕府の兵のほうへ、糸が走った。


 兵は、さっきまで怪我をした仲間を引きずっていたそうです。石段の脇、崩れた石垣の陰。織姫の巣から逃げようとして、まだ逃げきれずにいた。


 糸が兵の首に巻きつく。


 白夜さんが、そちらへ体を向けた。


 ——向けてしまった、と言うべきかもしれません。


 向けたくて向けたわけじゃないんです。頭ではわかっていたはずですよ。あれは織姫の挑発だ。兵を狙うのは白夜を崩すためだ。わかっていて、体が動いた。


 白夜さんの左手が兵の首から糸を弾く。兵が転がるように逃げる。


 その瞬間、右から糸が来た。


 肩を裂かれた。


「ちっ——」


 白夜さんが振り返ったときには、もう別の糸が走っていた。今度は反対側の兵へ。まだ石段の途中にいた、足をやられた兵。


 また体が動いた。


「なんで俺が——」


 自分で呟いていたそうですよ。舌打ちしながら。面倒くさそうな顔で。


 でも止まらない。体が勝手に、傷ついた人間のほうへ向かう。向かって、庇って、そのぶん自分が削られる。


 織姫はそれを見ていたそうです。


 石段の上から。糸を操りながら。指先を動かすたびに、別の兵へ、別の場所へ。白夜さんを直接狙わない。白夜さんの周りを削る。白夜さんがそこに割り込むのを待つ。


「あはは」


 笑い声がした。


 嬉しそうだったそうですよ。本当に嬉しそうに。


「最高ね。その必死な顔」


 白夜さんの頬に血が伝う。肩からも。脇からも。傷が一つ、また一つと増えていく。再生しない傷が積み重なっていく。


「火もなくて、不死でもなくて。それでもそうやって走り回るの」


 織姫の指が止まった。一拍だけ。


「笑えるわ」


 嘲笑ではなかったそうです。もっと純粋な、もっと始末の悪い種類の喜び。猫が弱った鼠を甚振るときの、あの顔。鼠が必死にもがくたびに、目が輝く。もがくのをやめたら、急につまらなくなる。


 だから止めを刺さない。まだ遊べる。まだもがいてくれる。


---


 白夜さんは、それをわかっていたと思いますよ。


 百五十年も生きてれば、自分が玩具にされてることくらい気づく。気づいていて、止められないんですよ。目の前で人が切られそうになると、体が先に出る。


 泉水さんが少し離れた場所から声をかけたそうです。


「白夜さん! 引いてください! 相手の思う壺です!」


 正しい判断です。織姫の狙いは明白で、白夜さんが兵を庇うたびに傷が増えていく。引けば兵は死ぬ。でも白夜さんも死ぬ。ここは引くのが合理的。


 白夜さんも、頭ではわかっていたでしょう。


 でも、引かなかった。


 あの人はね、わかっていてもやるんですよ。面倒くせえ、と自分で呟きながら。なんで俺が、と舌打ちしながら。それでも目の前で切られる人間を放っておけない。


 白夜さんの足が泥に滑った。糸が腕を裂く。続けてもう一本。太腿。さらに頬。


 傷がどんどん増えていく。雨で血が薄まって、服が赤いのか黒いのか、もうわからなくなっている。


 睦月さんが横から加勢していたそうです。短刀で糸を切り払おうとして、でも織姫の糸は見えたと思ったら別の場所にある。斬っても斬っても、次の糸が来る。睦月さんの頬にも浅い傷が一つ入った。


「ほら、そっちの子も動いてるわね」


 織姫の目が、そこで睦月さんのほうへ向いたそうです。


「……ねえ。あの子を切ったらどうなるかしら」


 独り言みたいな声だったそうです。白夜さんに聞かせるための独り言。


「あの子のこと気にしてるでしょう。庇うわよね。きっと」


---


 織姫の糸の向きが変わった。


 白夜さんの頭の上を越えて、石段の下——睦月さんのほうへ。


 三本。


 喉と、膝と、刀を持つ手首。どれか一つでも当たれば、致命傷か、戦闘不能。


 睦月さんが身を沈めた。喉の糸を外す。膝は半歩で避ける。手首は——


 三本目は避けきれなかったそうです。刃の角度を変えようとした瞬間、糸が手の甲をかすめた。浅い。でも指が一瞬開く。短刀がぐらつく。


 その一瞬を、織姫は見逃さない。


 次の糸が走る。今度は本命。腹へ。まっすぐに。


 睦月さんの目がそれを捉えた。避けられる。たぶん、避けられた。


 その前に、白夜さんが横から入った。


 間に入ったんじゃない。飛び込んだんです。石段を二段落ちるみたいな体勢で、睦月さんの前に体をねじ込んだ。


 糸が白夜さんの脇腹に入った。


 深かった。


 白夜さんの息が止まった。体がくの字に折れる。膝が石段を打つ。


「白夜さん!」


 睦月さんの声。


 白夜さんはそのまま前に倒れかけて、片手で石段を押さえた。持ちこたえている。でも肩が上下している。息が荒い。脇腹から血がぼたぼたと石段に落ちて、雨に薄まっていく。


 白夜さんが歯の間から声を漏らした。


「……なんで俺が、こんな——」


 自分でも呆れてるんです。わかっていて飛び込んだ自分に。面倒くさいと思っているのに、止められない自分の体に。


 織姫が笑った。


 声を上げて。石段の上から。雨の向こうで。


「あはは! やっぱりそうなるのね! ——ほんと、面白いわ、あなた」


 火がなくて。不死でもなくて。勝てるわけもないのに。


 それでも飛び込んでくる。


 織姫にとって、それが一番面白い見世物だったんでしょうね。


---


 織姫がもう一歩、石段を降りた。


 糸を張りながら。ゆっくりと。


 白夜さんは片膝をついたまま、まだ立とうとしていた。脇腹を押さえながら。石段に手をついて。


 織姫は、その姿を見て——ようやく少し、飽きかけたそうです。


「……まだ立つの」


 声は穏やかでした。


「もういいんじゃない? 十分遊んだわ」


 白夜さんが顔を上げる。


「うるせえ……な……」


 血混じりの声。それでも、目つきだけは変わらない。だるそうで、面倒くさそうで。でも前を見ている。


 織姫の指が動いた。


 今度は四方から。上から二本。横から一本。足元に二本。


 避けられる本数じゃない。白夜さんは上半身を捻って二本を外した。腕で一本を受けた。残りが肩と太腿に入る。浅い。でも、積み重なった傷の上に重なる。


 白夜さんの体が大きくよろめいた。


 両手が石段についた。今度は、片膝じゃない。


 右手が反射みたいに上がったそうです。いつもの手つき。火を出す手つき。


 何も出ない。


 濡れた手のひらが、空を切っただけ。


 獅童さんが、石段の下のほうで息を呑んだ。


「おい……!」


 でも獅童さん自身がもう動けない。卯之助を落としたばかりで、立っているだけが精一杯。


 泉水さんも遠い。割って入れば自分も切られる距離。


 織姫が、白夜さんを見下ろした。


 石段に両手をついた男を。傷だらけの、蒼い火のない男を。


「……なーんだ」


 つまらなそうな声だったそうです。


「もっと遊べるかと思ったけど。——もう終わりね」


 糸が白夜さんの喉へ向いた。


---


 その前に、音がした。


 草履が石段を踏む音。


 一歩。


 睦月さんが、白夜さんの前に出た。


 短刀を抜いて。


 雨の石段を。


 白夜さんの前に。


 獅童さんは動けない。白夜さんは起ききれていない。泉水さんは遠い。


 最後に残ったのは、自分だった。


 織姫が、その睦月さんを見て、口元だけで笑ったそうです。


「あら」


 一拍。


「最後は小鴉ちゃん?」


 短刀を握る手に、雨が落ちる。刃を伝って、水がつう、と落ちていく。


「——いいわよ。来なさい。すぐ楽にしてあげる」


---


 さて。


 ここから先が、本番なんですよ。


 白夜さんが倒れて、獅童さんが膝をついて、雨は止まない。


 まともなら、あそこで終わっていたかもしれません。


 でもね、睦月さんって人は、まともじゃなかったんです。

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