第33話 土俵際
雨の日の喧嘩ってのはね、見てるぶんには景気が悪くていけません。
晴れた日に殴り合えば、土は舞うし、血は飛ぶし、音もよく通る。ひどい話でも、どこか芝居めいた派手さがあるんですよ。
でも雨の日は駄目ですね。泥は跳ねるし、血はすぐ薄まるし、足は滑る。転んだところにまた泥がつく。寒いし、みっともないし、見ていて気分が沈む。
——とはいえ、みっともない喧嘩ほど、あとから思い出に残ることもあるんですよ。
四日目の朝。雨の寺の裏手。
織姫と卯之助を巣から引っ張り出した、そのぶつかり合いの話です。
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卯之助が最初に見たのは、やっぱり白夜さんだったそうです。
そりゃそうでしょう。あの男にとって白夜さんは、ただの参加者じゃない。顔にでかい火傷を刻んだ相手です。忘れようがない。鏡を見るたび思い出すでしょうしね。鏡なんか見なくても、雨が降れば引きつるでしょう。
石段の上。雨の向こう。
卯之助はその顔を見た途端、口の端を吊り上げたそうです。
「よう、狐」
嫌な声だったそうですよ。濡れた木を爪で引っかくみたいな、湿っていて、それでいて妙に嬉しそうな声。
右の頬を指で叩く。白夜さんの火で焼かれた跡。皮膚が縮れて、色がまだら。
「覚えてるか、この火傷。——忘れたとは言わせねえぞ」
白夜さんは石段の下で、面倒くさそうに首を鳴らしたそうです。右手に火はない。雨に打たれた銀髪が額に張りついている。
「知るかよ」
「てめえの火で焼かれた日から、ずっとぶっ殺してえと思ってた」
「暇なんだな」
「今日はいい日だぜ」
卯之助が一歩、石段を下りた。重たい足で、水が弾ける。
「燃えねえ狐なんざ、ただの肉だ」
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卯之助が突っ込んできた。
白夜さんも迎えたそうです。火がないから拳で。半歩ずれて踏み込みを外し、懐へ入る。脇腹に掌打。
いつもの白夜さんなら、そこに蒼い火が乗る。炎で焼きながら打ち込むから、あの人の近接は厄介なんです。
でも今日は、ない。
卯之助の体が揺れた。
それだけでした。
「軽ぃなァ!」
肘が返ってきた。白夜さんは腕で受けたそうですが、受けきれなかった。雨に濡れた石段を二歩滑る。そこへ張り手。
ばしん、なんて生易しい音じゃない。
濡れた板を打ち割るみたいな、重い音。
白夜さんの体が横へ飛んだ。石灯籠の脇へ肩からぶつかって、泥を撥ねた。
すぐ立ち上がった。立ち上がりましたが、頬に赤い筋が走っている。口の端からも血が落ちる。再生しない。
卯之助が腹の底から笑ったそうです。
「こりゃいい! お前、こんなに弱かったか?」
白夜さんが血を吐き捨てる。
「うるせえな」
「前はもっと威勢よく燃えてたろ! なんだそれ、蚊か!? 蚊が刺したみてえな拳だな、おい!」
もう一歩、卯之助が前へ出る。白夜さんも迎えようとした。でもさっきより半拍遅れたそうです。昨日の百足の傷が残っているのか、足場のせいか。
卯之助の拳が、今度はまともに白夜さんの胸を狙う——
その寸前、横から二本の刀が差し込まれた。
金属がぶつかる音がした。
獅童さんです。
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「おい狐!」
獅童さんが、歯を食いしばったまま叫んだそうです。二刀で卯之助の拳を受けている。受けてはいるが、腕が沈む。体ごと押される。ぬかるんだ石段に足が滑る。
「てめえにゃ、世話になってんだ! 勝手に先に死ぬんじゃねえ!」
白夜さんが眉をしかめた。
「どいてろ、河童」
「うるせえ!」
獅童さんは押し返しながら、肩越しに怒鳴ったそうです。
「てめぇには借りがあんだよ! 天下一は借りを踏み倒さねえ!」
卯之助が、そこで初めて獅童さんの顔をまともに見た。
「ああ? なんだてめえ、河童か。代わりかよ」
二刀を押し込む。獅童さんの膝が沈む。
「ずいぶん安い盾だなあ!」
卯之助が力任せに腕を振り抜いた。獅童さんの二刀が弾かれる。体が横へ流れる。石段の端の泥へ片膝をついた。
でも、倒れない。
右手の刀を立て直し、左手の刀も構え直す。雨に濡れたぼさぼさの髪が顔に張りついている。皿の縁から水が流れて、顎を伝う。
「てめえの相手はこの天下一の剣士、獅童様だ。かかってこい、デカブツ」
白夜さんは何か言いかけて、やめたとか。
石段の上のほうで、織姫の糸が動いたからでしょう。あの場で全員が好き勝手動くわけにはいかない。白夜さんは舌打ちして、石段の上の織姫へ体を向けた。睦月さんも短刀を抜いて後に続く。
石段の上では、白夜さんと睦月さんが織姫を押さえようとしていたそうです。押さえる、というのは正確じゃないかもしれませんね。食い止める、がまだ近い。
白夜さんが間合いを詰めようとする。織姫の糸が横から走る。避ける。またも詰める。糸。避ける。その繰り返し。
火があれば、糸を伝って燃やせた。間合いの計算が根本から変わるんです。でも、今はそれがない。
詰めかけたところで、織姫が肩をすくめたそうです。
「ほんとに火、出ないのね」
白夜さんは答えなかった。もう一歩踏み込む。
「あは。つまんない」
糸が三本同時に走る。白夜さんが身を捻って二本を外す。三本目が袖を裂く。
「だったら帰れよ」
白夜さんがぼそっと返したそうです。
——まあ、帰りませんよね、あの女は。つまらないと言いながら、もっと面白い遊び方を探す。そういう質です。
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下の卯之助と獅童さんの話に戻しましょう。
卯之助はにやにやしていたそうです。
「面白え」
指を鳴らす。首を回す。
「先に狐を潰すつもりだったが、まあいい。お前からでも、十分遊べる」
ここから先は、正直、あんまり気持ちのいい見物じゃありません。
獅童さん、前半はぼろ負けです。
いや、本当に。ひいき目抜きで見ても、かなりひどい。
獅童さんの二刀は速いんですよ。重ねて出せるし、受けから返しも早い。河原で五人を相手にしていたときだって、腕はありました。
でも、卯之助はそれをまとめて上から潰せる。
一刀目を右で受ける。二刀目を左から返す。卯之助はそれを腕で受けて、そのまま前へ出る。近い。近いまま肩からぶつかる。
どん、と鈍い音。獅童さんの体が石段を二段、三段、滑った。
立ち上がる。すぐ斬り返す。卯之助は前蹴り。腹へ入る。獅童さんが折れる。
そこへ張り手。首が跳ねる。泥が飛ぶ。皿の水がばしゃりと散った。
「どうした河童ァ!」
卯之助が笑う。
「二本も持ってんのに軽ぃな! 飾りか、それ!」
獅童さんが歯を食いしばって斬り込む。右。左。右。卯之助の腕や脇腹に浅い線は入る。でも浅い。肉が厚い。止まらない。
「皿でも割ってやろうか?」
卯之助の拳が落ちる。獅童さんが二刀を交差して受ける。受けた瞬間、腕が沈む。石段に片足が滑る。
「ほらよ!」
膝。獅童さんの脇腹に刺さる。
「がっ……!」
声が漏れた。それでも刀は離さない。
さらに顔面を殴られる。口から血が飛んだ。
「おいおい! 天下一なんじゃねえのかよ、笑わせやがるぜ」
獅童さんが立つ。また倒される。立つ。また押し戻される。
そのたびに卯之助が笑う。
「くそ河童が! 粋がって出てきたくせに、弱すぎるだろ」
獅童さんは口の血を手の甲で拭った。雨でまた流れた。意味はない。
「……おい、デカブツ」
卯之助が近づいてくる。獅童さんは二刀を下げたまま、低く言ったそうです。
「力士のくせに、知らねえのか」
卯之助が鼻で笑う。
「あ?」
獅童さんが顔を上げる。片目の上が切れて、血が頬を流れていた。肩で息をしている。脇腹も痛いはず。膝だって笑ってる。
獅童さんは二刀をゆっくり構え直した。ぼろぼろで、息も切れていて、どう見ても押されている側なのに、声だけは変に真っ直ぐだったそうです。
「天下一ってのはな」
一拍。
「最後まで土俵に立ってたやつのことだよ」
——いい啖呵でしょう。
しかもね、あれ、決め台詞を言いにいってる感じじゃないんですよ。半分は強がりです。いや、八割方強がりかもしれません。雨で河童が急に三倍強くなるわけでもなし、皿の水が増えたところで腕が一本増えるわけでもない。
でもね、強がりってのは時々、本当に効くんですよ。
相手にじゃない。自分に。
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卯之助は、その啖呵を聞いて大笑いしたそうです。
「ははっ! いいねえ! その減らず口、潰しがいがある!」
一歩、踏み込む。泥が跳ねる。
大振りでした。ここまでで一番、大きい。もう獅童さんは潰せると思っていたんでしょうね。
獅童さんは、これまでずっと真正面から受けていた。右で受けて、左で返して。だから卯之助も、またそう来ると思っていた。
来なかった。
獅童さんは、右の刀を捨てるみたいに開いたそうです。受けると見せて、受けない。振り下ろされる拳をぎりぎりで外へ流す。肩のあたりをかすめた。着物が裂ける。肉も裂ける。血が雨に混じって散る。
でも入った。
懐です。卯之助の胸の下。腕の内側。もっとも重い力が抜ける瞬間。
獅童さんの左の刀が、そこへ深く入った。
「——っ!」
卯之助の顔が歪む。
獅童さん、自分でも倒れかけてたそうです。肩にまともに食らってるんですから。でも倒れながら足を止めなかった。左の刀を押し込んだまま、体重を預ける。
卯之助の体が初めて、後ろへ揺れた。
そこへ右の刀。石段に落ちかけた柄を足で引き寄せて、拾い上げる。低い位置から、斜めに斬り上げる。
卯之助が腕で止める。止まらない。浅くても入る。
左を引く。右を返す。十字というほど綺麗じゃない。もっと泥臭い。近すぎて形なんかない。殴り合いに近い斬り合い。雨と血と泥の中で、二人とも足場なんか失っていたでしょう。
「おおおおおっ!!」
獅童さんが吼えた。いつもの長い名乗りでも、見得でもない。ただの叫び。腹の底から絞るような声。
最後の一撃は、喉元でした。
卯之助が避けきれなかった。最初の深手で半歩が奪われていた。
刃が首筋に食い込む。深い。
卯之助の体が、そこでようやく止まった。
雨の音が、急に大きくなったそうです。
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卯之助はしばらく立っていたそうです。
人間ってのは変なもので、でかいのほど倒れるのに時間がかかるんですよ。
口を開いて、何か言おうとした。声にならない。血だけが混じる。
膝が折れる。
ど、と、重い音。石段に巨体が崩れた。雨水が赤く広がる。
獅童さんも、もう追い打ちなんかできる状態じゃなかった。二刀を杖みたいに地面へ突いて、ようやく倒れずにいる。
「……っ、は……」
息を吸う。吐く。うまくいかない。
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ただし、喧嘩ってのは一つ勝って終わりじゃないんですよね。
卯之助が崩れ落ちたとき、石段の上で声がしたそうです。
「へえ」
織姫でした。
白夜さんと睦月さんの相手をしていたはずの織姫が、卯之助が倒れる一部始終を見ていたそうです。糸を張ったまま。白夜さんたちを止めたまま。片手間に。
織姫は石段の上から、倒れた卯之助を見下ろしていた。退屈そうな目で。
「あーあ」
それだけ。
卯之助の体がまだ微かに動いていた。指先が石段を引っ掻いている。まだ生きている。まだ息がある。
織姫は、卯之助のすぐ傍まで歩いていったそうです。石段を二段、降りて。獅童さんの横を平然と通り過ぎて。
糸は張ったまま。白夜さんたちが近づこうとすれば、いつでも切れるようにして。
卯之助が片目だけ開いた。織姫を見上げた。
「お、りひめ……」
血混じりの声。
織姫はしゃがんだ。卯之助の顔を覗き込む。
「ご苦労様」
声は柔らかかったそうです。でも、目は違った。道端の虫を見る目に近かった。
卯之助の目が見開かれた。
織姫の指先から糸が一本、するりと伸びたそうです。
卯之助が何か言いかけた。言いかけたまま、終わった。
それからすぐに、影が来ました。
石段の隙間から滲み出した黒い手が、卯之助の体を掴んだ。儀の最中に死んだ参加者は、影に引きずり込まれる。いつも通りです。
卯之助の巨体がゆっくりと石段に沈んでいく。泥に沈むように。指先が最後にぴくりと動いて、それきり。
後には何も残らなかった。血の跡すら、雨に流されていく。
獅童さんはそれを見ていたそうです。自分が命がけで倒した相手が、味方に止めを刺されて、影に飲まれて消えた。
何か言おうとして、何も言えなかったそうです。
まあ、無理もないでしょう。
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織姫は立ち上がった。指先の糸を、するすると巻き取る。
濡れた着物の裾を少し払って、それからこちらを向いた。
白夜さんと睦月さんが石段の途中にいる。獅童さんは動けない。
織姫の目が三人を順に見た。白夜さんの右手で一度止まって、離れた。
「さて」
笑ったそうです。
卯之助を始末した手で、何事もなかったみたいに。
「邪魔がなくなったところで」
白夜さんが、石段の上をにらんだまま、低く言ったそうです。
「……お前、味方もああやって殺すんだな」
「味方? あの子が?」
織姫は首を傾げた。
「道具よ。壊れたら捨てるだけ。もう使い道ないでしょ」
それだけ言って、糸が走った。
白夜さんが半歩引く。睦月さんが短刀を構える。
「——じゃあ、続きをしましょうか」
四日目の雨は、まだ止みませんでした。




