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第32話 釣り餌

 罠ってのはね、隠せばいいってもんじゃないんですよ。


 商売でも釣りでも同じです。食いつかせたい相手には、ちゃんと餌が見えてなきゃいけない。

 ただし、見え見えすぎる餌には、賢い魚は寄ってこない。


 ——四日目にやっていたのは、そういう類の仕事でした。


---


 寺の本堂で話がまとまったあと、幕府の連中はすぐ動き出したそうです。


 まあ当然でしょうね。

 あの場で「では、あとはよろしく」なんて悠長に茶でも飲んでたら、そのうち織姫の糸が首に巻きつく。雨の日の蜘蛛ってのは妙に元気ですからね。あの女も同じです。


 白夜さんたちは寺の縁側に移されたそうです。

 雨は細かく、絶え間なく降っている。屋根の端から糸みたいに水が落ちて、庭石を濡らしている。苔は黒く沈み、紅葉は朱じゃなくて濡れた血みたいな色に見えたそうですよ。いやな朝です。


 兵が忙しなく行き来していた。

 槍を運ぶ者。包帯を抱えて走る者。雨に濡れた具足の紐を締め直している者。人数はいるように見えるが、広い境内に対して明らかに足りない。あちこちに欠けた歯みたいな隙間がある。


 雅楽さんがそれを見て、小さく笑ったそうです。


「ほんとに削れてるね」


「人の不幸を嬉しそうに数えるな」


 白夜さんが縁側の柱にもたれたまま言う。

 右手は膝の上。火は出ない。雨のせいだけじゃありません。三日目の百足で無茶をした代償が、まだ残っている。


 雅楽さんは肩をすくめました。


「嬉しいというより、安心かな。困ってる相手のほうが、話は通りやすい」


「嫌な言い方だな」


「事実でしょ」


 その横で獅童さんは、幕府の兵が運んでいる縄や杭を見ていたそうです。


「で、結局どうすんだよ。巣から引っ張り出すって、簡単に言うけどよ」


 そこで、田沼がまた現れた。

 足音が静かなんですよ、あの人は。雨の日の板の間でも、妙に音を立てない。商人のあたしから言わせると、ああいう人は帳場の後ろに立たせたくないですね。気づいたら金勘定まで読まれてそうで。


「説明は必要か」


「する気があるなら聞く」


 白夜さんが面倒くさそうに返す。


 田沼は白夜さんの物言いに顔色一つ変えませんでした。

 むしろ、そういう無礼にも慣れている顔。慣れているというより、無礼も駒の性能のひとつとして数えている顔です。


「織姫は、巣の中では落とせぬ」


「かもな」


「ならば、巣の中で落とす」


 田沼の声は平坦でした。


「餌を置く。だが、ただ置くだけでは食いつかぬ。織姫は愚かではないからな」


 雅楽さんがそこで、少しだけ目を上げたそうです。

 あの人、こういう話になると空気が変わるんですよ。さっきまで死刑囚だの恩赦だのとふざけていた男が、急に本気の顔になる。


「だから、餌の置き方が肝心ってわけだ」


「そういうことだ」


 田沼が答える。


 そのやり取りを、白夜さんは横目で見ていたそうです。

 あとで「あの二人、同じ臭いがした」と言ってましたよ。何の臭いかって? さあね。金の臭いか、算盤の臭いか、あるいは人を駒として並べる臭いか。ろくなもんじゃなさそうですが。


---


 作戦そのものは、細かく全部なぞるほどのことでもないんです。


 いや、本当は細かく詰めたんでしょうけどね。

 何人をどこに置くか、どの道を捨てるか、糸にかかるのを承知でどこまで餌を進めるか。そういうのを一つ一つ決めていったはずです。でも、あたしらが聞いて面白いのは、結局どこにどう網を張ったかより、誰がどういう顔でその網を見ていたかなんですよ。


 田沼が境内の見取り図を開かせる。

 雅楽さんがその横から覗き込む。

 兵が濡れた指で山道の位置を指し、景虎が「そこは浅い」と低く言う。時継は上座に座っていたそうですが、あの人はもう、ほとんど置物だったみたいですね。置物にしては顔色が悪すぎたそうですが。


「ここに欠片を二つ」


 雅楽さんが言う。


 兵が顔をしかめたそうです。


「二つも?」


「一つじゃ弱い。

 織姫は飢えてるけど、飢えた獣ほど餌の量には敏感だよ。危ない場所だとわかってても、二つ三つまとめて見えれば、欲が勝つ」


「では三つ置けばよいのでは」


 景虎が言う。


「欲張りすぎると逆に怪しくなるんだよ」


 雅楽さんはさらりと返したそうです。


「賢い魚はね、“おいしすぎる餌”には寄ってこない」


 田沼がそれを聞いて、ほんのわずかに目を細めた。


「貴様、商いでもしておったか」


「してないよ。

 でも、人が欲しがるものの量くらいはわかる」


 このへんでしょうね。

 類似性ってやつは。


 どっちも人を信じてない。

 だから、人がどのくらいの餌なら手を伸ばすか、よくわかる。


 田沼は政治のために。

 雅楽さんは生き残るために。

 使い道は違っても、算盤の置き方は似てるんですよ。


---


 このあたりで、田沼が一つ、紙を出したそうです。


 濡れないよう油紙に包んであった名簿。

 儀の開始前に幕府が把握していた参加者の名です。人間も妖怪もごちゃ混ぜ。もちろん、今どれだけ生きているかはわからない。昨日までの死者も、脱落者も、全部そのまま書いてある。


 白夜さんは興味なさそうにしていたそうですが、雅楽さんは面白そうに覗き込んだ。睦月さんも視線を落とす。獅童さんだけは「字が多いな」と露骨に嫌そうな顔をしていたとか。しょうがないですね。あの河童はそういう細かいものに向いてません。


「一人、覚えておけ」


 田沼が紙の一点を指したそうです。


 無幻。


 それだけ。


「この男とは戦うな」


 獅童さんが「は?」と言った。

 雅楽さんの目が動く。睦月さんも眉を寄せる。白夜さんは興味なさそうにしていたそうですが、田沼の次の言葉で、少しだけ目つきが変わったそうです。


「過去の儀の生き残りだ」


 一拍。


「白夜と同じだな」


 そこで、さすがに誰も何も言わなかったそうです。


 白夜さんだけが、名簿のその名をじっと見た。


「……他にもいたのかよ」


 低い声だったそうです。

 面倒くせえでも、知らねでもない。ほんの少しだけ、乾いた驚きが混じった声。


 田沼は淡々と続けました。


「いた、ということだ。

 室町の儀の生き残り。数百年を生きた武人だと伝わっている」


 獅童さんが顔をしかめる。


「数百年って……おいおい、何だよそれ」


「だから言っている」


 田沼の声は平板でした。


「遭遇したら逃げろ。今のこちらに、あれとまともにやり合う余裕はない」


 雅楽さんが、その名を口の中で転がすように小さく繰り返したそうです。


「無幻……ね」


 それ以上は何も言わなかった。


 でもあの人、そういう名前を聞くと頭のどこかにちゃんと置くんですよ。後で盤面の端から効いてくる駒として。


---


 白夜さんたちが出る前、寺の裏手のほうで、時継と景虎が二人きりになった時間があったそうです。


 時継は本堂から出されたんですよ。あたりまえです。作戦の場に影武者がいても仕方がない。「出番が来たら呼ぶ」と田沼に言われて、裏手の渡り廊下みたいなところに座らされていた。


 雨が、軒先からぽたぽた落ちている。霧みたいな細かい雨は止まないし、足元はぬかるんでいるし、座っていても裾が冷たい。


 時継は、まあ、震えていたそうですよ。いつも通りです。


 そこへ景虎が来た。


 べつに時継に用があったわけじゃないでしょう。景虎も出撃の準備をしていて、裏手を通りかかっただけです。兵に具足の紐を直させて、刀の手入れをして、そういう武人のやることを淡々とやっていた。


 時継が、そこで聞いたんですよ。


 聞かなきゃいいのに。あの人はそういうところがある。怖いくせに、怖い相手に、怖いことを聞いてしまう。


「景虎さん」


 景虎は足を止めなかったそうです。


「……何だ」


「今日は、その……危ないんですか」


 景虎が一瞬だけ横を見た。


 時継は、自分の膝を見ていた。将軍の着物の膝が汚れている。泥がついている。それを見つめたまま、声だけ出した。


「白夜さんたちは織姫を討ちに行くと。景虎さんたちは欠片を集めると。……でも、神獣がいるんですよね。あの化け物が」


 景虎は答えなかったそうです。


 しばらく。


 それから、低い声で言った。


「怖いか、だと?」


「は、はい……」


「当然だろう」


 一拍。


「怖いに決まっている」


 時継が顔を上げた。


 景虎は時継を見ていなかったそうです。庭のほう、雨に濡れた苔の上を見ていた。


「戦場に立つ者は皆、怖い。怖くないのは嘘つきか、壊れた者だけだ」


 それだけ言って、歩き出した。


 時継のほうは見なかった。でも、最後に一言だけ足した。


「貴様はそこで震えていろ。それが一番迷惑がかからん」


 冷たいでしょう。


 でもね、あたしはこう思うんですよ。


 景虎は、時継を嫌いだったし、認めてもいなかったでしょう。将軍の顔をした偽物。主を守れなかった自分を思い出させる存在。見るだけで腹が立つ。


 でも「怖いに決まっている」は、本音だったんじゃないですかね。


 あの男も怖いんですよ。怖いまま戦場に立っている。


 時継は、そこで初めて気づいたんでしょうね。景虎も自分と同じように怖い。ただ、怖いまま動ける人間と、怖くて動けない自分がいる。その差が、あの場ではやけに大きく見えたはずです。


---


 役割分担も、そこで決まったそうです。


 白夜さん、獅童さん、睦月さん。この三人が前に出る。


 織姫と卯之助が表へ出たとき、そこで受ける戦闘側。


 まあ、妥当です。殴るしか能のない連中を前へ出す。頭を使うほうは後ろで算盤を弾く。それだけの話です。


 雅楽さんと泉水さんは、幕府兵と一緒に別動。


 欠片の位置確認、回収経路の確保、それと——約束の五つを幕府が本当に寄越すかどうか、その監視。


 これ、大事なんですよ。


 幕府が「織姫は討ってもらった、でも欠片はやっぱり惜しいから三つで勘弁ね」なんて言い出さない保証はどこにもない。約束は約束として、最後に信用できるかどうかは別の話ですからね。


「僕たちはこっちだね」


 雅楽さんが言ったそうです。


「欠片の流れを見て、兵の動きを見て、逃げ道も見る。

 戦闘班が勝っても、回収班が失敗したら意味がない」


「大丈夫でしょうか」


 泉水さんが、いつもの穏やかな調子で言う。


 誰を指しているのかは曖昧だったそうです。

 白夜さんたちのことか、作戦全体のことか、あるいは両方か。


 雅楽さんは少しだけ笑った。


「たぶんね」


 それだけ。


 白夜さんが、そこでぼそりと口を挟んだそうです。


「他人事みてえに言うな」


「半分は他人事だよ。

 でも、残り半分は僕の命が乗ってる」


「全部だろ」


「そうとも言うね」


 雅楽さんが笑う。

 その横で泉水さんも、ごく薄く笑っていたそうです。


---


 で、作戦は始まった。


 冒頭から言った通り、細部は端折りますよ。

 雨の山で誰が何歩進んで、どの兵が何本糸にかかって死んだかなんて、全部並べても仕方ない。肝心なのは、何が狙いで、何が起きたかです。


 織姫の巣は山の寺ではありませんでした。

 正確には、寺の裏手から続く山道、その先の崩れた社と石段の一帯。鳥居や杉や石灯籠が、あの女の糸を張るのにちょうどよかったんでしょう。雨で視界も悪い。足場も滑る。糸は濡れていても強い。最悪の条件です。


 幕府側はまず、わざと欠片の位置を見せた。

 社へ向かう参道の途中。雨でも脈動だけは消えない神器を、二つ。わざと見える場所へ。


 ただし、見えすぎないように。

 遠目には「あ、あそこだ」と思える。近づくまでは罠の形が読み切れない。そういう置き方だったそうです。


 兵も置いた。

 だが、多すぎない。これも大事です。兵がずらりと並んでいたら、織姫だって警戒する。あの女は加虐趣味ではあっても馬鹿じゃない。勝てる相手しか弄びませんからね。


 だから、少し足りないくらいに置く。

 護衛がいる。でも薄い。取りに行けば崩せそう。そう見せる。


 いやらしいでしょう。

 ほんとに、釣り餌ですよ。


 織姫は、最初は出てこなかったそうです。

 糸だけが来た。


 社の軒下から、木の枝から、雨筋に紛れるように細い糸が降りてくる。兵が一人、二人、足を取られた。首を裂かれた者もいた。欠片が地面に転がる。兵が叫ぶ。


 ここまでは、たぶん織姫の想定通りだったんでしょうね。

 いつもの狩りです。餌に寄った獲物を糸で絡め取る。相手が幕府の兵だろうが野良の参加者だろうが、やることは変わらない。


 でも、この日は少しだけ違った。


 兵が逃げたんですよ。

 全部じゃない。逃げる者と、倒れる者と、糸にかかったまま叫ぶ者。その混乱の中で、欠片が雨の石段を転がって、社の外へこぼれていく。


 巣の外へ。


 これが肝だったそうです。


 織姫の巣は強い。

 でも巣そのものが狩り場である以上、獲物が巣の外へ流れたとき、取りこぼしが出る。欠片は一日限り。数も少ない。四日目ともなれば、それを見逃す余裕はない。


 卯之助が、先に動いたそうです。


「おいおい! 逃げんじゃねえよ!」


 あの男、声だけは景気がいい。

 雨の中でも馬鹿みたいによく響く。


 社の脇の木立を押しのけるように出てきた。

 でかい図体。濡れた羽織。火傷の跡がまだ右頬に残っている。白夜さんの火の傷です。見た目が悪くなったぶん、性格まで余計に悪く見える。


 その後ろから、織姫も姿を見せた。


 赤と黒の着物が雨に濡れて重たそうに見えたそうです。でも足取りは軽い。石段の上、鳥居の影みたいなところに立って、糸だけを先に滑らせていた。


「あら」


 織姫は、そこでようやく何かに気づいたそうです。


 いや、気づいたというより、見つけた、ですかね。

 石段の下。木立の奥。雨の幕の向こうに、待っているものを。


 白夜さんたちです。


---


 白夜さんは、雨の中で一歩前へ出たそうです。


 銀髪が濡れて額に張りつく。右手に火はない。

 けれど立ち方は崩れていない。だるそうな顔も、目つきの悪さも、いつも通り。火がなくても白夜さんは白夜さんです。


「よう」


 それだけ。


 織姫が口元だけで笑ったそうです。


「へえ。狐さん、自分から巣にかかりに来たの?」


「違うね」


 白夜さんは肩を鳴らした。


「お前を巣から引っ張り出したんだよ」


 その瞬間、木立の左右から影が出た。


 右に獅童さん。

 二刀を抜いている。雨粒が刀身を流れ、ぼさぼさの髪が顔に張りついていた。昨日までの三枚目が少し消えて、ずいぶんまともな剣士の顔をしていたそうですよ。


 左に睦月さん。

 黒装束が濡れて重くなっている。短刀に添えた指先がわずかに固い。でも目はぶれていなかったそうです。伏見稲荷で織姫に逃げ切られたときとは違う目だった、とも聞きました。


 卯之助が、にたりと笑った。


「おお。いいじゃねえか」


 肩を回す。骨が鳴る。あの男、ほんとに嬉しそうに人を殺しに来るんですよ。気色の悪い。


「ようやく面白くなってきやがった」


 織姫は卯之助より静かでした。

 石段の上に立ったまま、雨の向こうの三人を順に眺める。白夜、睦月、獅童。その視線が一度、白夜さんの右手で止まったそうです。


「……なるほど」


 小さく、そう言った。


 気づいたんでしょうね。

 火がないことに。あるいは、出ないことに。


 でも、だからといって油断したわけじゃない。そこがあの女の嫌なところです。相手の弱り目に付け込む。しかも、自分が勝てる確信を持った上で。


「巣から出したつもりなのかもしれないけど」


 織姫が言う。


「別に、外でも勝てるのよ。あたし」


 睦月さんが短刀を構えた。

 獅童さんも二刀を開く。

 白夜さんは半歩だけ前へ出る。


 で、その少し離れた場所では、雅楽さんと泉水さんが幕府兵と一緒に欠片の位置を見ていたそうです。濡れた笹の葉の陰。戦いの始まる場所からは少し離れた、安全とも危険とも言えない距離。


 泉水さんが、小さく言ったそうです。


「大丈夫でしょうか」


 雅楽さんは雨の向こうを見たまま、少しだけ笑った。


「たぶんね」


 遠くで、卯之助の笑い声が響いた。


 どうやら、喧嘩は始まるようでした。


---


 ——さて。


 喧嘩が始まる前ってのは、妙に静かなもんです。

 雨の音ばかりが耳についてね。

 で、その静けさのあとには、大抵ろくでもない音がするんですよ。

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