↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/60

第31話 利

 四日目の朝は、雨でした。


 細かい雨が、空いっぱいから絶え間なく落ちてくる。風は強くない。なのに、止まない。屋根を打つ音も、木の葉を叩く音も、道を濡らす音も、みんな途切れない。


 秋の終わりの雨ってのは、いやなもんですよ。


 紅葉は鮮やかに見えるどころか、濡れて黒ずむ。散った葉は石畳に張りついて、踏めばぐしゃりと鳴る。遠くの山は霞んで、どこまでが木でどこからが空かも曖昧になる。


 あたしは朝、店の戸を少しだけ開けて、路地の向こうを見たんです。


 空が低かった。


 ああ、今日は嫌な日だなと思いましたよ。根拠なんかありません。商人の勘です。雨の日は客足も鈍るし、鍋の火も気をつけなきゃいけない。そういう世俗の勘もありますが——あの朝の嫌さは、それだけじゃなかったですね。


---


 五人が店を出たのは、まだ朝の光が薄い頃でした。


 白夜さんが最初に戸口へ出て、そこで一度、空を見上げたそうです。銀髪の先に雨粒が当たって、すぐに濡れる。火の気はない。右手にも、いつもの蒼い灯りはない。


「……最悪」


 小さくそう言ったのが、白夜さんだったか雅楽さんだったか、あとになって聞いてもみんな曖昧でした。まあ、誰が言っても同じでしょう。


 獅童さんは雨に打たれるなり「うお、冷てえ!」と声を上げたそうです。元気があって結構なことです。睦月さんは無言。泉水さんは「足元が悪いですね。気をつけましょう」と、いつも通り穏やか。雅楽さんだけが、雨の降り方を見ていたそうですよ。空じゃなくて、町のほうを。あの人はいつでも、人より少し違うものを見ますからね。


 で、東山へ向かうはずだった一行の前に、幕府の兵が現れた。


 唐傘を差した侍が二人。雨に濡れた羽織の裾から泥が跳ねている。刀の鍔にまで雨粒がついていたそうです。


「鴉衆の者たち、ならびに白夜殿、雅楽、獅童」


 兵はそこで一度言葉を切って、後ろにいる二人へ目をやった。


「上様がお呼びである。同行の者も、そのままお越しいただきたい」


 ずいぶん丁寧に言うもんです。呼ばれたほうは、誰一人として嬉しそうじゃなかったそうですが。


 白夜さんがその場で舌打ちした。


「行かねえ」


 即答でした。気持ちいいくらい即答です。


 兵の顔がわずかに引きつる。でも命令を受けてきた側も大変でしょう。こんな面倒くさい連中を、雨の朝から呼びに来るんですから。


「これは上意で——」


「知らねえよ。こっちはこっちで忙しいんだ」


「白夜さん」


 泉水さんがやんわり声をかけたそうです。咎めるでもなく、なだめるでもなく。


「行くだけ行って、話を聞くのは悪くないと思います。向こうから呼んできたということは、何か事情があるんでしょう」


「事情なんざ知るかよ」


 そこへ雅楽さんが、扇子を差さずに懐に入れたまま、雨の中で笑ったそうです。


「面白そうじゃないか。幕府がわざわざ下手に出て呼びにくるなんて、よほど困ってるんだろうし」


「お前なぁ」


「断るのは話を聞いてからでもできるよ」


 白夜さんは嫌そうな顔をした。あの人はだいたい嫌そうな顔ですが、このときのは輪をかけて嫌そうだったと聞きました。


 睦月さんは黙っていたそうです。ただ兵の立ち位置と、路地の奥を見ていた。呼びに来た兵が二人だけじゃない、どこかに伏せているかもしれない、そういう見方でしょう。獅童さんは完全に空気に呑まれていたみたいですね。「上様……って、あの上様か?」なんて小声で言ってたそうです。そりゃそうですよ。河童の里から来た剣自慢が、いきなり将軍に呼びつけられるなんて、普通の人生ではまずありません。


「……行くだけだぞ」


 結局そう言ったのは、白夜さんでした。


 兵たちはほっとしたでしょうね。ここで断られていたら、たぶん自分たちの首が危なかった。


---


 連れていかれた先は、東山の中腹にある小さな寺だったそうです。


 物見遊山の客が来るような大寺じゃありませんよ。山門も古びて、石段には苔。雨で黒く濡れた木の柱が、朝なのに夕方みたいな色をしていた。境内に人の気配はある。兵がいる。だが多くはない。むしろ少なかったそうです。


 ここで、まず五人にわかることがある。


 幕府は削れている。


 しかも、かなり。


 雨の匂いの中に、血と薬の匂いが混じっていたそうです。新しい包帯。戸板の脇に寄せられた槍。縁の下へ流された薄い赤。広い境内のわりに見張りの数が足りない。軒下には、座ったまま傷を押さえている兵までいたそうですよ。


 白夜さんが、小さく鼻を鳴らした。


「……ほんとに困ってんだな」


「でしょう?」


 雅楽さんはなぜか少し嬉しそうだったそうです。困っている権力者を見ると元気になる類の人っていますからね。ろくなもんじゃありません。


 本堂の中へ通される。


 畳は乾いていましたが、空気は冷たかったそうです。開け放した障子の向こうで、雨が庭石を打っている。薄暗い堂内にいたのは三人。


 田沼意次。


 景虎。


 そして——将軍の顔をした男。


 時継です。


 睦月さんたちはもちろん、その場では将軍だと思ったでしょう。いや、正確には「将軍の顔をしている」と思ったかもしれませんね。顔はそのものでも、空気が違う。人間ってのはそういうところを案外嗅ぎ分けるもんです。


 時継は上座に座っていたそうですが、座り方がもう落ち着かない。背筋を伸ばそうとして伸びきらない。視線が泳いでいる。それを必死で抑えようとして、余計にぎこちない。


 景虎の顔は険しかった。傷も増えていたそうです。肩に新しい布が巻かれている。無言で五人を睨んでいる。まるで「なぜこいつらを通した」と顔に書いてあるようだったとか。


 そして田沼だけが、いつもの田沼だった。


 雨の日の帳場みたいに、静かで、冷えていて、崩れない。


「呼び立ててすまぬな」


 田沼が言ったそうです。声に無駄がない。


「単刀直入に申そう。協力してもらいたい」


 白夜さんが間髪入れずに言いました。


「断る」


 本堂の空気が一瞬で冷えたそうです。いや、もともと冷えていたんでしょうが、別の意味で冷えた。


 景虎が一歩出た。


「上様の御前だぞ」


「知らねえよ。そっちが勝手に呼んだんだろ」


 時継がびくっとしたそうです。自分に向けられた無礼にびくついたのか、怒号が飛ぶかと思ってびくついたのか。たぶん両方でしょう。


 田沼は景虎を手で制した。


「こちらも暇ではない。そちらも同じであろう」


 一拍。


「織姫を討つ」


 それで、さすがに白夜さんも少しだけ目を細めたそうです。睦月さんの背筋もわずかに固くなる。獅童さんは「おっ」と声を飲み込んだ。雅楽さんだけが「へえ」と面白がる顔をした。


「昨夜までの襲撃で、こちらも相応の損耗を受けた」


 田沼は淡々と続けた。


「あの女を放置したまま四日目を凌ぐのは、そちらにとっても不利なはずだ」


「だから何だ」


 白夜さんの声は乾いていたそうです。


「幕府の尻拭いを俺らがやる義理はねえ」


「義理の話はしておらぬ」


 田沼が言う。


「利の話だ」


 ここで雅楽さんが、ようやく口元を少し上げたそうです。


「ようやく話が早くなったね」


 景虎の目が細くなる。


「貴様もいたか」


「ええ。死んだはずなんだけど、なぜか生きてまして」


「死を偽った罪人が、よくもその舌を」


「偽ってませんよ。皆さんが勝手に死んだことにしただけだ」


 いやはや、よくそんな場でそんな返しをするもんです。普通ならその場で斬られても文句は言えませんよ。まあ、文句は言うでしょうけどね、あの人は。


 田沼は話を戻しました。さすがというか何というか、ああいう小競り合いで時間を無駄にしない。


「条件は単純だ。こちらが囮を出す。兵も使う。織姫の巣を崩し、あの女を表へ引きずり出す」


「で?」


「討つのは貴様らだ」


 獅童さんが、そこでわずかに胸を張りかけたそうです。「強いから頼られている」という理屈自体には弱い男ですからね。でもその直後に白夜さんが横で「嫌だね」と言ったので、すぐしぼんだとか。


「そっち、兵いっぱいいるんじゃねえのかよ」


「兵は織姫の巣の中では役に立たぬ」


 田沼の声は平板でした。


「数をかければかけるほど餌になるだけだ」


 嫌な言い方でしょう。でも、正しいんですよ。織姫相手に数は利にならない。むしろ糸にかかる口が増えるだけ。幕府がそこまで痛い目を見た、ということでもあります。


 白夜さんが鼻を鳴らした。


「なぜ俺たちが請け負う」


「貴様らのほうが強いからだ」


 田沼は即答でした。


「現時点で、織姫を正面から討てる可能性があるのはそちらだ」


 獅童さんが、そこでつい口を挟んだそうです。


「そ、それはまあ、そうだが」


「お前はちょっと黙ってろ」


 白夜さんにぴしゃりと切られる。獅童さんは「なんだよ」と不満そうでしたが、黙りました。こういうところは素直なんですよね。


 雅楽さんが扇子を出した。雨の日でもあの人はあれを持つんです。広げはしなかったそうですが、指先でとんとんと畳を叩いていたとか。


「一応、確認なんだけど」


「何だ」


「こちらが織姫を討って、そのあと欠片はどうするつもり?」


 景虎が口を開くより先に、田沼が答えたそうです。


「決まっておろう。幕府が回収する」


「じゃあだめだね」


 雅楽さんはさらりと言った。


「その話は成立しない」


 景虎の顔がはっきり険しくなったそうです。


「貴様に選ぶ立場があると思うな」


「あるよ」


 雅楽さんは、そこでようやく時継を見たそうです。妙に丁寧な目で。


「いま、この場で一番困ってるのはそっちだから。そうでしょ? 上様」


 時継の肩が、ぴくりと揺れた。


 このとき雅楽さんは、もう気づいてたんでしょうね。違和感どころじゃない。たぶん、ほとんど確信していた。顔は将軍でも、中に座ってるのは将軍じゃない。そこまで見抜いたうえで、わざと“上様”と呼んだ。


 あの人は、相手の急所が見えると、つい指で押したくなる質なんですよ。死刑になる前からそうだったんでしょうね。困った人です。


 雅楽さんは続けた。


「こちらは幕府のご事情に深入りする気はない。そちらも、こちらの細かい事情には立ち入らない。——そういう形なら、ずいぶん円満に話せると思うんだけど」


 田沼が、そこで初めて少しだけ考える顔をしたそうです。ほんの一瞬ですけどね。あの人にしては長い間でした。


「……条件を聞こう」


「簡単だよ」


 雅楽さんの声は軽かった。


「僕たちは織姫の排除に専念する。その間の欠片回収は幕府側がやる。僕たち五人が生き残るための数は、必ず確保して引き渡す」


「多い」


 景虎が吐き捨てるように言った。


「五つだと? こちらが何人死んでそれを捻出すると思っている」


「思ってるよ」


 雅楽さんはあっさり返したそうです。


「でも織姫を放っておけば、もっと死ぬ」


 景虎の顎がわずかに動いた。反論はできない。でも飲みたくはない。そういう顔だったそうです。


 そりゃそうでしょう。欠片の数が絞られている中で、五つを約束しろと言われてる。幕府側だって楽じゃない。


 でも田沼は、すぐには否定しなかったそうです。あの人の頭の中では、その時点で算盤が弾かれていたんでしょう。織姫を放置したときの損害、織姫を排除したときの利、五つ払う価値があるかどうか。


 そして結論は出た。


 田沼が、上座の時継へ目を向ける。


「いかがなさいますか」


 時継は、そこで露骨にびくっとしたそうです。いきなり話を振られた小役人みたいに。いや、実際そういうもんでしょう。昨日まで影武者だった男が、今日から将軍です。無茶にもほどがある。


 全員の目が向く。景虎も、田沼も、白夜も、雅楽も。睦月さんと泉水さんまで黙って待っている。


 時継は喉を鳴らしたそうです。雨の音がやけに大きく聞こえたとか。


「……よい」


 小さい声だった。


 景虎の眉がわずかに動く。


 田沼が、すかさず言った。


「上意である」


 それで話は決まった。


 いやはや、人の世の大事ってのは、案外そんなふうに決まるもんなんですよ。震えた声が一つ、畳の上に落ちて、それを横から別の誰かが“上意”にしてしまう。そうすると、もう逆らえない。


 雅楽さんが、そこでさらに畳みかけたそうです。


「そういえば、僕の死罪ってまだ有効?」


 時継が「え」と言った。ほんとに「え」だったそうですよ。間抜けなほど素直な声で。


「帳簿上、すでに死んだ人が死ぬのも変な話だし、取り消しってことでいいよね。上様」


 時継は完全に困ったそうです。困るでしょう。将軍の真似をしてるだけでも手一杯なのに、いきなり恩赦まで決めろと言われる。


 ちらりと田沼を見る。


 田沼は何も言わなかったそうです。助け舟も出さない。自分でやれ、という顔だったとか。いや、ほんとに嫌な教育係ですよ。


 時継は唇を湿らせて、それから言った。


「……と、取り消す」


「ありがとうございます。助かるよ、将軍様」


 雅楽さんがにこりと笑ったそうです。あの人、こういうときほんとに楽しそうなんですよね。


 白夜さんが横からぼそっと言った。


「お前、こういうとき楽しそうだな」


「面白いからね」


「ろくでもねえな」


 そのやり取りで、本堂の空気がほんの少しだけ緩んだそうです。


 でもね、それはあくまで表面だけです。


 雨はまだ降っている。幕府は追い詰められている。織姫は生きている。白夜さんの火は戻っていない。時継は将軍の顔で震えている。田沼は何枚も先の勘定をしている。景虎は全部わかったうえで、ひとつも納得していない。


 そして睦月さんは、そのやり取りのあいだも、ほとんど喋らなかったそうです。


 ただ、刀の柄に手を置いたとき、左の指先だけ、ほんのわずかに握り直す動きが入った。


 雨で冷えたせいか、前の夜の無茶が響いたのか。そこに気づいたのが白夜さんだったかどうか、あたしにはわかりません。でも白夜さんは、そのとき一瞬だけ睦月さんの手元を見て、何か言いかけてやめたそうですよ。


 まあ、その話は、もう少し先にしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。