第30話 雨の前
表の戸が開いた音で、あたしは台所から顔を出しました。
五人でした。
獅童さんが先に入ってきて、続いて雅楽さん、泉水さん、睦月さん。最後に白夜さん。
順番はたしかそうだったと思います。いや、違ったかもしれませんが、まあ大事なのはそこじゃない。
白夜さんの右手に、火がなかった。
あの人、寒い日なんかは指先に小さく火を灯す癖があったんですよ。暖を取るためなのか、ただの手癖なのか知りませんけどね。暗い路地の奥から、あの蒼い光がふっと揺れて近づいてくると、「ああ来たな」とわかったもんです。
あの夜は、下駄の音だけでした。
白夜さんはいつもの席に座って、右手を見た。それから何でもないみたいに膝の上に置いた。
何でもないわけ、ないでしょうにね。
「……飯」
声も、いつも通りでした。
「はいはい。五人分、ちゃんとありますよ」
あたしはそう返して、鍋の火加減を見ました。鯖の味噌煮はちょうどいいところでした。こういうときほど飯を失敗しちゃいけないんです。失敗したら、余計に空気が悪くなる。
「今日は最後の鯖ですよ。ありがたく食べてください」
白夜さんが「知らね」とだけ言いました。
ああ、これはだいぶくたびれてるな、と思いましたよ。元気なときの「知らね」はもっと雑なんです。あの夜のは、言葉を探すのも面倒なときのやつでした。
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膳を並べました。
鯖の味噌煮。刻み生姜。白飯。蕪と油揚げの味噌汁。牛蒡のきんぴら。ぬか漬け。
五つ。
ちゃんと五つ。
獅童さんが膳を見て、目を丸くしたそうです。
「……また、すげえな」
「うちは飯屋ですからね。飯くらいすごくないと困るんですよ」
獅童さんは箸を取って、鯖を一口食べた。
「……うめえ!」
でかい声でした。ほんとにこの河童は声が大きい。
でも、ああいう声が一つあるだけで助かるんですよ。重い空気ってのは、放っておくと座敷の隅から隅まで広がって、飯の味まで悪くしますからね。
雅楽さんはいつも通り上品に箸を使っていました。口に運ぶ量も少ない。顔色は悪いくせに、食べ方だけは崩れない。変な人です。
泉水さんは「おいしいですね」と言いました。こういう人は得ですよ。どんな場面でも一言そういうことが言えるんですから。
睦月さんは黙って食べていました。
頬の傷は浅いものでしたが、まだ赤かった。面は外している。口元がいつもより硬い。箸の動きは止まらない。でも、味わってるというより、食べるべきだから食べているような動かし方でした。
白夜さんは何も言わずに食っていたそうです。
鯖を崩して、飯をかきこんで、味噌汁を啜る。いつも通りのようでいて、右手だけが動かない。いや、動いてはいるんですよ。でも無意識に火を灯そうとする気配が、もうない。
人間でもいますよね。よく使ってた癖のある手が急に使えなくなると、最初だけ変に静かになる。あれに似てたかもしれません。
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小鈴が茶を運んできたのは、みんながだいたい食べ終わった頃でした。
「おかわり、どうぞ」
順番に湯呑みを置いていく。
獅童さんの前に置いたとき、あの河童はまたちょっと背筋を伸ばしたそうです。懲りないんですよ。
「ど、どうも!」
小鈴は「はい、ごゆっくり」と笑っただけでした。いつも通りです。
白夜さんがそれを横目で見て、ぼそっと言いました。
「……また別人になってんな」
「うるせえ!」
獅童さんが顔を赤くした。皿の水までぴくぴくしていたそうですよ。
雅楽さんは扇子で口元を隠して笑っていた。泉水さんも小さく笑った。睦月さんは——笑ったかどうかは、あたしにはわかりません。ただ、口元の硬さが少しだけ緩んだようには見えました。
ああいうの、大事なんですよ。
大笑いじゃなくていいんです。ほんの少し緩むだけで、人はまだ人間でいられる。
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飯が終わって、膳を下げて、湯を継ぎ足して。
それから座敷が少し静かになったところで、睦月さんが口を開いたそうです。
「……私は」
最初の一言が、小さかった。
みんなの目が向く。睦月さんは膝の上に手を置いていた。指先が揃っている。きっちり揃えているぶん、かえって固さがわかる。
「私は、弱いんです」
誰もすぐには口を挟まなかったそうです。
睦月さんは俯いたまま、続けた。
「感情を殺せない。殺すべき場面で、殺せない。清十郎さんのときも……今日も」
言葉が、少しずつ途切れた。
「目の前に相手がいて。刀も届くのに。……体は動くのに、前に出ない」
獅童さんが腕を組んだまま、黙って聞いていたそうです。雅楽さんも扇子を閉じた。泉水さんだけが、いつもの穏やかな顔を崩さない。
「任務だと、言い聞かせても。合理的に動くべきだと、わかっていても」
睦月さんの指先に、少し力が入った。
「できませんでした」
一拍。
「だから、弱いんです」
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白夜さんは、しばらく黙っていたそうです。
壁にもたれて、湯呑みを持ったまま。目は半分閉じている。寝てるような顔。でも起きてる。あの人はそういうとき、だいたい起きてます。
で、しばらくしてから、こう言ったそうです。
「……お前は清十郎を殺してねえよ」
ぶっきらぼうな声でした。
慰めるみたいな声じゃない。事実を言っただけ、という声。
睦月さんが顔を上げた。
「でも、私が戻らなければ——」
「戻ったから死んだかもしれねえし、戻らなくても死んだかもしれねえ」
白夜さんは湯呑みを置いた。
「そんなの、わかんねーだろ」
睦月さんは何も言えなかったそうです。
白夜さんは少しだけ天井を見た。行灯の灯が揺れている。あの人が何か昔のことを見てるとき、だいたいああいう目をするんですよ。
「……俺も昔、似たようなこと考えたことあるよ」
声は低かったそうです。
「もっと強けりゃ、とか。もっと賢けりゃ、とか」
一拍。
「でもまあ、後悔したところで死んだ奴は戻らねえし」
それだけ。
それだけなんですよ。
でもね、あれは睦月さんを慰めてる言い方じゃなかった。あたしはそう思いますよ。
白夜さんがずっと自分に言い聞かせてきたことを、そのまま口にしただけです。
百五十年も抱えてりゃ、言葉もすり減るでしょう。綺麗な慰めになんかならない。角の取れた石ころみたいな言葉になる。
でも、そういう石ころのほうが、変に胸に残ることもあるんですよ。
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睦月さんは、しばらく返事をしなかったそうです。
俯いていた。膝の上の手を見ていた。刀ダコのある、自分の手。
やがて小さく、
「……はい」
とだけ言った。
納得したわけじゃないでしょうね。そんな簡単に片づくなら、人は悩みません。
ただ、白夜さんの言葉は、睦月さんの中に少し残ったと思いますよ。
正しいかどうかじゃなくて、「この人も同じことを考えたことがある」という、その一点だけで。
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そこで泉水さんが口を挟んだそうです。
「でも、今日の判断で全員生き残れたのも事実ですよ」
穏やかな声です。やわらかい。否定せず、肯定しすぎず。ちょうどいいところに置く声。
「百足から欠片を取って、離脱して、贄の刻まで持ち込めた。誰か一人でも判断を誤っていたら、たぶん無理でした」
泉水さんは、そういう言い方をする人なんですよ。
嘘は言っていない。事実だけを並べる。並べ方だけが、いつも少しきれいすぎる。
睦月さんはそちらを見た。
泉水さんは微笑んでいたそうです。
「睦月さんは、弱くないですよ」
言われた睦月さんが、どう思ったか。
あたしにはわかりません。
ただ、そのとき雅楽さんが、扇子を開きもせず、泉水さんの顔を一瞬だけ見たと聞いています。
ほんの一瞬。
それだけです。
でも、あの人はそういう一瞬をよく見てるんですよね。
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獅童さんが、そこで空気を変えようとしたのかもしれません。
「まあ、その……なんだ」
咳払いを一つして、腕を組み直した。
「斬れないなら斬れないで、別にいいんじゃねえか」
全員の目が向く。獅童さんは少しだけ居心地悪そうな顔をしたそうです。こういう真面目な場面、あんまり得意じゃないんでしょう。
「ほら、あれだ。斬れるやつが斬ればいいだろ。俺とか」
「お前、さっき百足の脚に吹っ飛ばされてたろ」
白夜さんがぼそっと言った。
「うるせえ! あれは足場が悪かったんだ!」
雅楽さんが笑った。「便利な言い訳だね、それ」
獅童さんは「るせえな!」と返した。
そのやり取りで、座敷の空気が少しだけ緩んだそうです。
夜は更けていきました。
睦月さんは、しばらく起きていたそうです。
窓の外を見ていた。赤い月が三つ。曇り空で輪郭がにじんで、いっそう気味が悪かったと聞きました。
あと三日。
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その頃、別の場所では織姫たちも動いていたわけです。
白夜さんたちが百足から逃げていたのを、織姫は遠くから見ていたそうです。
正面からじゃない。あの女はそういう見方をします。自分の手が届かない場所から、獲物の傷み方だけを見る。
白夜さんが百足に向けて火を放ったこと。道を作ったこと。最後にはその火が消えたこと。
全部、見ていた。
「……へえ」
と、言ったそうです。
卯之助が横で「何だよ」と聞く。
織姫は木の陰に寄りかかったまま、指先に糸を巻きつけていた。
「あの狐、火が出ないのね」
卯之助が笑った。
「弱ったってことか」
「たぶんね」
織姫は面白くもなさそうに言ったそうです。でもね、あの女が本当に面白いものを見つけたときって、逆に静かになるんですよ。そこが嫌なんです。
「明日は雨よ」
「雨ぃ?」
卯之助は空を見上げた。曇っている。湿った風が吹いていた。山の匂いが変わっていたそうです。雨の前の匂いってやつです。
「糸の敵は火。火の敵は雨」
織姫は指先の糸を、するすると解いた。
「普通の火ならね」
「狐の火は消えねえんじゃなかったか」
「そう。でも、出ないなら同じでしょ」
卯之助が口の端を歪めた。
「じゃあ、明日は楽しいな」
織姫はそこで、ようやく少し笑ったそうです。
「ええ。たぶんね」
怖いでしょう。
明日が来るのを、楽しみにしてるんですよ。
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で、また店の話に戻りますがね。
夜もだいぶ更けて、行灯の油も少なくなってきた頃です。あたしが帳簿を閉じて、最後にもう一度座敷を見た。
五人いました。
獅童さんは寝てる。泉水さんは薬草の束をまとめている。雅楽さんはまだ起きてる。白夜さんは壁にもたれている。睦月さんは窓の外を見ている。
五人。
ちゃんと五人いる。
それだけで、少しほっとしたんですよ。
いや、わかってますよ。明日になればどうなるかわからない。そんなこと、今さら言われなくても嫌というほど知ってる。
でもね、商人ってのは現物商売ですから。
今、ここにあるものは、ある。いないものは、いない。
五人いる夜は、五人分の勘定をつける。それだけです。
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あたしは最後に火を見ました。
囲炉裏の火です。小さい火。鍋をかけるにはもう足りないくらいの、残り火。
白夜さんの火は消えた。
でも、こっちの火はまだ残ってる。
そう思ったんですよ。意味なんかないんでしょうがね。
飯屋ってのは、火が消えたら終わりですから。
だからあたしは、その夜の最後に炭を一本だけ足しました。
明日の朝、ちゃんと湯を沸かせるように。
外では、雨の匂いがしていました。




