第29話 影武者
織姫と卯之助が去ったあと、本丸御殿には、しばらく誰も大きな声を出せなかったそうです。
そりゃそうでしょう。
兵の死体はある。血の匂いもある。金箔の襖には赤が飛んでいる。畳には欠片が散っている。
なのにね、いちばん重い死だけが、そこに残っていないんです。
将軍は確かに死んだ。でも、死体はない。
その場にいた者はみんな見た。斬られたところも、影が這い出して、あの体を闇の底へ引きずり込んだところも。
でも、見ていない者にとっては違いますからね。
血だけで、人はなかなか死を信じきれない。
まして相手が将軍ともなれば、なおさらです。
だからあの日の金の部屋には、血の匂いとは別に、もっと面倒なものが漂っていたそうです。
「まだ、なかったことにできるかもしれない」っていう、いやらしい可能性ですよ。
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時継が見つかったのは、その少し後だったそうです。
誰かが「こちらに」と声を上げて、脇の小部屋の戸を開いた。
中にいたのは、時継でした。
将軍の替えの装束箱と文机のあいだに、膝を抱えるように縮こまっていたそうですよ。顔は青い。唇は震えている。将軍の影武者らしい威厳なんて、どこにもない。怖くて怖くて、ただ生き残ってしまった男の顔です。
そりゃそうでしょう。
さっきまで自分がいた場所を、糸が横切った。後ろの小姓は喉を裂かれて死んだ。将軍は目の前で斬られた。自分だけが、その前に逃げた。
怖くないわけがない。
でもね、そのみっともなさが、そこでやけに目立ったんですよ。
なにしろ主君は死んで、景虎は血まみれで立っている。その横で、顔だけ似た男が、いちばん安全なところに縮こまっているんですから。
景虎が、その時継を見た。
怒りというより、嫌悪に近い目。
将軍の顔をしておきながら、将軍の死を目の前で見て、自分だけ生き残っていた男を見る目ですよ。
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田沼意次が姿を現したのは、その少し後だったそうです。
この人はね、いつも遅すぎも早すぎもしないところに来るんですよ。
すべてが終わってから来ると臆病に見える。早すぎると巻き込まれる。ちょうどいいタイミングを嗅ぎつける嗅覚がある。政治家ってのはそうでなくちゃ務まらないんでしょう。
田沼は部屋へ入るなり、まず畳の上を見たそうです。
将軍が消えた、その跡を。
血。散った欠片。黒ずんだ畳。空いた場所。
次に景虎を見た。
最後に、時継を見た。
その順番がね、いかにもあの人らしいんですよ。
主の死。まだ使える駒。代わりの駒。
たぶんその場で、もう半分くらい先の手まで読んでいたんでしょう。
「田沼殿」
景虎が言ったそうです。低い声で。
「お下がりを」
「何からです」
「決まっている」
景虎の目が、時継のほうへ動いた。
「この男だ」
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時継は、その視線だけで腰が抜けかけたそうです。
もともと胆の太い人じゃないんですよ。顔が似ていただけの町人か、せいぜい軽い小者だったんでしょう。将軍の影武者なんてものに選ばれた時点で、本人の意思なんか踏みにじられてる。
そこへきて本物が死んだ。
しかも周りには血だらけの死体と、抜き身の刀を持った侍。
逃げたくなるのが普通です。
「ち、違う……私は、私はただ……」
時継は後ずさったそうです。襖に背中が当たって、それ以上下がれない。
「ただ顔が似ていただけで……」
景虎は一歩、前に出た。
刀は抜いていなかったそうですが、抜く必要もなかったんでしょう。あの男が本気で近づいてきたら、それだけで人は竦みます。
「その通りだ」
景虎の声は平坦でした。
「貴様は上様ではない」
時継は何も言えなかった。
「その顔で、その声で、その身で、上様を穢すな」
時継の顔が引きつった。泣きそうだったそうです。いや、たぶん、もう泣いていたのかもしれません。
そこへ田沼が口を挟んだ。
「景虎」
「……」
「控えよ」
短い声だったそうです。
でも景虎は、すぐには引かなかった。
「この男をどうするおつもりですか」
「決まっている」
田沼は、そこで初めて時継のほうをちゃんと見たそうです。
値踏みする目ですよ。
使えるかどうか。壊れていないか。どこまで怯えていて、どこまで従うか。
景虎が白夜さんを見た目と、似た種類です。ただし、もっと冷たい。もっと先まで勘定に入っている。
「この男は、これより上様だ」
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時継が顔を上げた。
景虎も、さすがに表情が変わったそうです。
「……正気ですか」
「正気でなければ、この場でそんなことは申さぬ」
「この男は影武者です。ただ顔が似ているだけの——」
「だからだ」
田沼はあっさり言った。
「顔が似ている。それで十分だ」
時継が「え」と言ったそうです。間抜けな声だったと聞きましたよ。まあ無理もありません。
景虎の顔には、あからさまな嫌悪が浮かんでいたそうです。
「上様の御名を、このような小物に」
「名はすでにこの男の顔に貼りついている」
田沼は将軍の死体を見もせずに言ったそうです。
「今ここで上様の薨去が公になれば、どうなる」
「……」
「江戸は揺れる。幕府の威信も揺らぐ。儀の存在も、余計な連中に嗅ぎつけられる。こちらに利はない」
景虎は黙った。
黙ったってことは、理屈はわかっていたんでしょうね。
でも、わかるのと飲み込めるのは別ですから。
「この男が将軍の座に就けば、すべてはそのまま続く」
田沼は続けた。
「少なくとも表向きは」
「……」
「いま必要なのは忠義ではない。継続だ」
嫌な言い方でしょう。でも正しいんですよ。正しいから嫌なんです。
景虎は奥歯を噛みしめていたそうです。血の味がしていたかもしれませんね。主はさっき死んだばかり。それなのに、もう“その後”の話をされている。
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「私には無理です……!」
ここで、ようやく時継が声を出したそうです。
半ば悲鳴でした。
「そんな、将軍だなんて……! 私は何も知らない、作法も、政も、何も……!」
「知る必要はない」
田沼は即答でした。
「口を閉じて座っていればよい」
「で、でも……!」
「これまでと同じだ」
その言い方がね、うまいんですよ。
違うことをさせるときほど、「同じだ」と言う。
「これまで通り、上様の顔をしていればよい。余計なことは私が処理する」
時継は唇をわななかせていたそうです。助かったのか、追い詰められたのか、自分でもわからなかったんじゃないですかね。
田沼は一歩近づいた。
「聞け、時継」
初めて名前で呼んだ、と聞きました。
「ここで貴様が上様の代わりを務めれば、生きられる」
一拍。
「拒めば、死ぬ」
時継は何も言えなかったそうです。
そりゃそうです。選択肢みたいな顔をして出されてますが、実質一つしかない。
景虎がそれを見て、さらに顔をしかめた。
「脅して従わせるのですか」
「脅しではない」
田沼は景虎を見たそうです。
「事実だ」
ほんとにね、この人は嫌なほど正直なんですよ。情で動いてるふりをしない。慈悲のふりもあまりしない。ただ、使う。必要だから使う。
でも、だからこそ怖い。
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景虎はなおも引かなかったそうです。
「ならば、なおさらこの男には務まらぬ」
「務まるかどうかは私が決める」
「上様はお一人です」
その声は、もう怒りというより祈りに近かったのかもしれませんね。
死んだ主の唯一性を、せめて言葉で守ろうとしていたんでしょう。
田沼はしばらく景虎を見ていたそうです。
それから、少しだけ声を落とした。
「景虎。貴様の忠義は疑わぬ」
「……」
「だからこそ、ここで死なれては困る」
景虎の眉が動いた。
「上様は落ちた。だが幕府は落とせぬ」
冷たい理屈です。理屈ですが、景虎みたいな男には、こういう言い方しか通じなかったんでしょうね。情ではなく、主のためだと言われれば飲むしかない。
「貴様には、まだやることがある」
景虎は何も言わなかった。
長い沈黙のあと、ようやく刀を収めたそうです。
納得したわけじゃない。飲み込んだだけです。苦い薬みたいに。
「……承知、いたしました」
声が硬かったと聞きましたよ。
その時点で景虎の中では、田沼も時継も、たぶん許されてはいなかったんでしょう。
でも従った。
そういう男です。
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田沼はそこで、ようやく部屋の中へ具体的な命を飛ばしたそうです。
「欠片を集めよ。生き残りを数えろ。動ける者と動けぬ者を分けろ」
兵たちが動き出す。
「この部屋は閉じる。血は洗え。切れた障子は張り替えろ」
一拍。
「上様はご無事だ。刺客の襲撃は退けた。そう触れよ」
これがまた、いやらしく強いんですよ。
将軍の遺体がない。
ならば「死んでいない」と言い張る余地がある。
見ていない者は、それで飲み込まされる。見た者も、上からそう言われれば、口を閉じる理由ができる。
人の世ってのは、ときどき本当に雑です。
大きな嘘ほど、ちゃんと座布団に座らせてしまえば本当みたいに見える。
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時継はまだ立ち尽くしていた。
田沼が振り返った。
「上様」
時継がびくっとしたそうです。
「……は」
「お言葉を」
「え」
「兵が見ております」
時継は兵たちを見た。みんな血だらけで、顔色が悪くて、それでもこちらを見ている。
自分が何か言わなきゃいけないらしい。
でも何を言えばいいかわからない。
口がぱくぱく動くだけだったそうです。魚みたいに。
そこで田沼が、ほんの少しだけ近づいて、小さく言ったそうです。
「静まれ、と」
時継は息を呑んだ。
「……し、静まれ」
声が震えていた。
兵たちは動きを止めた。
時継はもう一度、言ったそうです。今度は少しだけ大きく。
「静まれ。……取り乱すな」
将軍の声色には、たぶんなってなかったでしょうね。でも顔は似ている。衣も同じ。血まみれの部屋で、そこに立っている。
それだけで、人は案外、騙されるもんです。
いや、騙されたかったのかもしれません。
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田沼が睦月さんたちに目をつけたのは、そのあとだったそうです。
織姫の襲撃で城内の戦力は削られた。手駒として抱えていた参加者もかなり死んだ。欠片の管理も崩れた。
それでも、日暮れは来る。
贄の刻は待ってくれない。
誰を使う。
誰がまだ動ける。
そこで残っていたのが、睦月さんたちだったわけです。
思い出されたのは、最初の任務でへまをして、そのまま放られていた鴉どもと、そこにいた不死の狐です。田沼さんからすれば、使い勝手の悪い連中でしょう。でも、使える駒が減れば、悪手でも手として数えるしかない。
田沼はその帳簿を頭の中で開いたんでしょうね。
景虎が傷を押さえながら戻ってきたとき、田沼はもう決めていたそうです。
「鴉どもは」
「……生きております」
「狐も」
「はい」
「ならば使う」
景虎の目が動いた。
「信用なりません」
「信用は要らぬ」
田沼は平然と言ったそうです。
「利害が一致すれば足りる」
この人、ほんとにそういうところがありますね。
人を人として見てないわけじゃないんです。見てるんですよ。見たうえで、駒として置く。そこがまた厄介なんです。
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時継は、そのやり取りを黙って聞いていたそうです。
いや、黙るしかなかったんでしょうね。
否応なく上段へ座らされて、兵に言葉をかけて、それでも中身は何一つ変わっていない。
震えが止まるはずもない。
田沼が振り向いて、そんな時継を見た。
その目がね、少しだけ柔らかかったように見えた、と誰かが言ってました。
でもあたしはね、それでもまだ、用途の目だと思いますよ。
壊れていないか。
まだ座らせておけるか。
どこまで持つか。
そういう目。
「上様」
田沼が言う。
時継が顔を上げる。
「ご安心ください」
穏やかな声だったそうです。怖いでしょう。こういう人が一番。
「あなたは将軍です」
時継は何も答えられなかった。
答えられるはずがない。
でも、この言葉がね、この先ずっと時継の首に巻きつくんですよ。糸みたいに。
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こうして、三日目の二条城では、将軍が死んで、影武者が将軍になったわけです。
表向きはね。
裏じゃ血まみれですよ。金箔の部屋に血が飛んで、兵が死んで、欠片が散って、みんなそれぞれ腹に別の勘定を抱えている。
景虎は主を失った。
田沼は主を失って、同時にもっと都合のいい主を得た。
時継は助かったのか、もっとひどい目に遭ったのか、まだわからない。
そういう盤面になった。
で、その新しい盤面の中で、田沼は次の手を打つわけです。
白夜さんたちのところへ、幕府のほうから接触する。




